|『正信偈』学習会|仏教入門講座
極重惡人唯稱佛  令和2年12月15日(火)
- 2021年12月13日
 この一節は、源信の書かれた『往生要集』にある「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」という一節を引用したものです。
 仏教でいうところの悪人とは『涅槃経』に「難治の機」として説かれている「謗大乘」「五逆罪」「一闡提」をさします。「謗大乘」とは大乗仏教を誹謗する者です。教えを否定されてしまっては救いようがないというのです。「五逆罪」には小乗と大乗の二通りがあります。小乗の五逆は「 殺父」「 殺母」「殺阿羅漢」「出仏身血」「破和合僧」です。大乗の五逆は「搭寺を破壊し、経蔵を焼き三宝の財宝を盗むこと」「声聞・縁覚・大乗の教えをそしること」「出家者の修行を妨げあるいは殺すこと」「小乗の五逆」「因果の道理を信じず、十不善業をすること」です。ここにある「十不善業」とは「十悪」ともいい「殺生」「偸盗」「邪婬」「妄語」「両舌」「悪口」「綺語」「貪欲」「瞋恚」「愚痴」のことです。いずれも仏教における悪い行いです。「一闡提」とは生まれながらにして仏になることが出来ない者のことです。これらは「極重惡人」とされ、一切衆生を救おうという仏教においても救いようのない者とされてきました。この「極重惡人」が救われる唯一の道が念仏であるというのがこの一節になります。
 『仏説観無量寿経』でお釈迦様は人を9種類に分けて、それぞれに合わせて極楽浄土に生まれるための方法を説いています。この9種類の一番下、下品下生の者が五逆・十悪を犯した者です。このものが救われる道として説かれているのが念仏なのです。長い間、これは救われない者をおもんばかってお釈迦様が説いた方便であるとか、この様なものでも向かい入れる極楽浄土は程度の低い浄土であるといわれてきました。しかし、浄土教の先達たちは、自身を「極重悪人」であるという自覚のもと、極楽浄土こそが最も優れた浄土であると頷いてきたのです。源信も親鸞聖人も比叡山延暦寺で仏教を学んでしますが、ここを開かれたのが最澄です。最澄は、自身のことを「愚か者の極み」「狂人の極み」とおっしゃっています。具体的には「施しを受けているのにそれに応えることもなく、毎日平々凡々と生きている」「行動はするものの、それが正しいかどうか確かめずに行っている」「理屈ばかりで行動におこさない」というのです。「禿」とは戒律を守らない僧侶の事ですが、源信も自らを「禿」となのっています。親鸞聖人はこれら先達の言葉にならって「悪人」「愚禿」とおっしゃっているのです。
 親鸞聖人は『教行信証』「化身土巻」に源信の解義を述べているところに「濁世の道俗、善く自ら己が能を思量せよ」とおっしゃっていますが、その内容は『歎異抄』』第九条の「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」ということになります。さらに「悪人」の意味を展開して『歎異抄』では「善人」を「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたる」人とし「悪人」を「他力をたのみたてまつ」る「煩悩具足の凡夫」としています。つまり「悪人」とは、自分を卑下する言葉ではなく、自分のことを「煩悩具足の凡夫」として認識することができたがために、如来に帰依しえた者ということになります。






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