|『正信偈』学習会|仏教入門講座
一生造悪値弘誓 至安養界證妙果  令和元年12月17日(火)
- 2020年6月25日
 『仏説無量寿経』にある「本願文」は次のようになっています。

 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念。若不生者 不取正覚。唯除五逆誹謗正法)

 これを道綽禅師は次のように読み替えていらっしゃいます。

 もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ(若有衆生、縦令一生造悪、臨命終時、十念相続称我名字、若不生者不取正覚)

 ここに今回の「一生造悪」という言葉が出ています。これは「本願取意の文」と呼ばれていますが、その内容は「本願文」とはかなりの差異があります。「本願文」では「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と悪をなしたものを排除しているのに「本願取意の文」では「たとひ一生悪を造れども」と一切を排除していません。また浄土に生まれるための手立ても「本願文」では「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん」とあるのに対して「本願取意の文」では「命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せん」と「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて」を削除して「命終の時に臨みて」を加え「乃至十念」を「十念相続してわが名字を称せん」と読み替えています。道綽禅師がこのような大胆な読み替えをして下さったことで、浄土に生まれるための条件から、悪をなさないことと純粋な信仰が必要なくなり、すべての人が浄土に往生できる道が開けたのです。
 親鸞聖人はこの「本願取意の文」を「縦令一生造悪の 衆生引接のためにとて 称我名字と願じつつ 若不生者とちかひたり」と和讃に引用しています。しかし、この時に「命終の時に臨みて」を引用していません。道綽禅師は『安楽集』第三大門に「引証勧信」と呼ばれる次のような言葉を記しています。

 もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。

 ここにも「たとひ一生悪を造れども」という言葉が出ていますが「ただよく意を繋けて専精につねによく念仏」することで「一切の諸障自然に消除」して往生を得るとしています。この往生はやはり「命終の時」です。何故ならば『仏説観無量寿経』に次のように説かれているからです。

 下品下生というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆえに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとする時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていわく「なんじもし念ずるあたわずは、まさに無量寿仏を称すべし」と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終る時、金蓮華を見るに、なお日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあいだのごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説きたもう。聞きおわりて歓喜し、時に応じてすなわち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。

 ここに、たとえ「念ずる」ことなどできなくとも「南無阿弥陀仏」と称すれば浄土に往生できると説かれているのですが、往生できるのは「命終らんとする時に臨みて」とはっきり書いてあります。ですから道綽禅師も往生を死後として捉えているのです。しかし親鸞聖人は、あえて「命終の時に臨みて」という言葉を省いているのです。親鸞聖人が往生を死後として捉えているのか、生きている間のこととして捉えているのかは、今でも浄土真宗の中で論争になっています。論争になる理由は、どちらともとることが出来るからです。自分で確かめることが出来ないことは、たとえ誰の言葉であったとしても信じてはいけない、ということはお釈迦様の頃からの仏教の伝統です。ですから、たとえ経典に説かれていることであったとしても、自分で確かめることが出来ないことは断言できないのです。実際、お釈迦様は死後のことについては答えなかったと言います。答えないという事は、肯定も否定もしないという事です。多くの僧侶の場合、どちらとも判断がつかない時は、取り敢えず周りの意見に迎合しておくという立場をとることが多いのですが、親鸞聖人は、迎合することなく、あえてあいまいなまま残しておいたのでしょう。ただし、自分の体験したことははっきりと言うことが出来るという事で、現に自分が得ることが出来た念仏の利益は明確に述べていらっしゃいます。
 「一生造悪」とは「一生の間悪い事をし続ける」ということですが、この「悪」は一般にいうところの「悪い事」ではありません。誰であろうとも一生の間悪い事をし続けることなど不可能です。これは「一生の間煩悩から離れることは出来ない」という事です。「煩悩」とは、その文字の通り「煩わしい悩み」です。何ぜ「煩わしい」のかといえば「私を中心にしか考えられない」からです。阿弥陀仏は「一切の衆生とともに救われたい」という願いにつけられた名前です。この二つは決して相容れることが出来ないものなのです。私という存在は「一切の衆生とともに救われたい」という願いに生きなければ、真に安らぐことが出来ない者であるのに、その願いとは相いれない「煩悩」から離れることも出来ないのです。ですから「一生造悪」なのです。
 その様な私が「阿弥陀仏という願いにであう」という事が「値弘誓」です。ここで親鸞聖人は「であう」という言葉に「値」を使い「もうあう」と読ませています。「あう」という字は沢山あります。「会」というのは「約束をしてあう」という意味です。「遇」は「たまたまであう」ですし「遭」は「遭難」などのように「思いがけずであう」という事です。「合」は「集合」のように「あつまる」という事ですし「逢」は「思いがけずに出会う」や「迎える」という意味です。これらに対して「値」は「あたいする」という意味です。『仏説無量寿経』には「今仏に値うことを得て、また無量寿仏の声を聞きて歓喜せざるものなし。心開明することを得つ」「仏と相値うて経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くことを得たり」とあります。ですから「仏に値するものとであう」という意味になります。これを「もうあう」と読まれますが、これは「あう」の謙譲語「あいたてまつる」という意味です。単なる呼称ではなく、自分を目覚めさせてくれる仏と出会うというときには「値」という言葉を使うのです。
 「安養界」というのは極楽浄土の別名で「安養浄土」とも言います。「極楽」とは「この上なく心安らかな世界」という意味です。これに対して「安養」とは「安らかに育まれる世界」になります。つまり、私が人として育てていただける世界です。「一生造悪」の者でも阿弥陀仏の願いに値う事が出来たならば、この世界が私を人として育てくださる世界であると受け取ることが出来るということです。これが「妙果を證」したということです。「妙果」とは「さとり」の事ですから「さとりを証明した」ことになるのです。「さとりを得た」のではなく確証を得たという事です。今まで世の中すべてが自分にとっての障りでしかないと思っていたのが、仏の願いにであうことで、自分を育ててくれていると感じるようになったのです。これは仏の眼を得たということです。煩悩から逃れることが出来ない状況は全く変わっていないながらも、仏眼によってこの世界を受け止めることが出来るようになったのです。これが「證妙果」です。
 道綽禅師は七高僧の中では比較的軽い扱われ方をされることが多いのですが『仏説無量寿経』を大胆に読み替えることによって、仏教による救いの対象をすべての衆生に広げた方です。経典の言葉に縛られることなく、経典の精神を読み取った方なのです。






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