|『正信偈』学習会|仏教入門講座
萬善自力貶勤修 圓満徳號勸專稱  令和元年8月20日(火)
- 2019年12月7日

 前節は道綽禅師が大乗仏教を「聖道」と「浄土」の二門に分けたというところでした。今回の一節は「浄土」をさらに「自力」と「他力」に分けているところです。『安楽集』で道綽禅師は次のように述べています。

 こにありて心を起し行を立て浄土に生ぜんと願ずるは、これはこれ自力なり。命終の時に臨みて、阿弥陀如来光台迎接して、つひに往生を得るはすなはち他力となす。

 親鸞聖人は和讃でこれを次のように引用されています。

 鸞師のおしえをうけつたえ 綽和尚はもろともに 在此起心立行は 此是自力とさだめたり

 ここにある「在此起心立行」には「娑婆世界にて菩提心を起し行を立つるはみな自力なりとしるべし」という左訓が付けられています。
 道綽禅師が「心を起し」とされているところを親鸞聖人は「菩提心を起し」とされています。「菩提心」とは、釈迦仏のようにさとりを開きたいという決意です。そもそも仏教を学びたいという思いがなければ何も始まりません。最低限のスタートラインです。この「菩提心」を起して、仏になりたいという願いをかなえるために努力するということが「行」です。これが浄土教では「仏になりたい」が「浄土に往生したい」となります。これが「自力」であるというのです。なぜ「自力」がいけないのかというと「勤修」を「貶」するからだというのです。「勤修」とは「修行を勤める」ということです。「貶」とは「けなす」「ひはんする」という意味です。修行が悪いのではありません。「満善自力」が「行」をけなしてしまうのです。どれだけ志がまっすぐでも、邪心なく善い行いをしても、心がその行いを汚してしまうのです。自分は正しい行いをしているという思いは、いつの間にか周りを見下すようになります。周りを見下すために良いことをしたのではなくとも、結果そうなってしまうのです。自分は「聖道」ではさとりを得ることが出来ないと頷き「浄土」の門に入って念仏してでさえも、念仏しない人を見下すようになるということです。このような存在を凡夫ということです。道綽禅師は来迎往生の方ですから、念仏によって浄土に生まれたいと願うのではなく、臨終の時に阿弥陀如来の方から来ていただくことによって初めて浄土に生まれることが出来るとおっしゃっています。ただし親鸞聖人はこの部分を引用してはいません。自力に対する解釈はともかく他力に対する理解が少し違っているからです。
 
 「圓満徳號」とは「南無阿弥陀仏」のことです。「圓満」とは全てが備わっているという意味です。「徳號」とは「徳」を具えている「名号」です。「號」とは号令ですから「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏」という「名」の如来からの呼びかけの言葉です。親鸞聖人は『教行信証』で次のようにおっしゃっています。

 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。

 念仏は「称える」のであり「唱える」ではありません。口から「発する」のではなく、心で「はかる」のです。一切の衆生を救うという願いを受け止めるのです。受け止めるだけであり、自分で起こした心ではありません。ですから、受け止めた量に違いはあっても、質は全く同じです。この受け止めた心を「信心」といいます。自分の心ではないので「他力」です。自分の解釈を挟むことなく、もっぱらこの心によるということが「專稱」です。道綽禅師はこの心を「勸」めてくれているというのです。






徳法寺 〒921-8031 金沢市野町2丁目32-4 © Copyright 2013 Tokuhouji. All Rights Reserved.