|『正信偈』学習会|仏教入門講座
正定之因唯信心  平成31年4月16日(火)
- 2019年6月29日
 ここにある「正定」とは「正定聚」のことで「正しく定まった衆生」という意味です。本来は「仏」になることが定まった衆生という意味で、阿弥陀如来の国である極楽浄土に生まれたものが得ることができる利益の一つでした。初期の浄土思想では、この世で仏になることができないものが極楽浄土に生まれることによって、必ず仏になることができると説いていたのです。これに対して、決して仏になることができない衆生を「邪定聚」仏になることができるかわからない衆生を「不定聚」といいました。ところが、親鸞聖人は「正定聚」を「仏」ではなく「往生」に関する言葉として用いています。往生が正しく定まるか、往生が邪に定まるか、往生が定まらないか、ということです。
 ここで重要になるのは「往生」の意味になります。親鸞聖人は「往生」に三通りあるとおっしゃっています。一つは「双樹林下往生」といいます。「双樹林」とは、お釈迦様が二本の沙羅という樹の下で亡くなられたことに由来する名前です。お釈迦様のごとくになろうと懸命に修業した僧侶達が、さとりを開くことなく命尽きた時に、永遠の命が保証されている極楽浄土に迎え入れられて、半ばになっていた修行を完結させるための「往生」です。何の保証もないのですが、日々の努力が無駄に終わると考えずに済むということです。
 次が「難思往生」です。これは、修行も専門的な学びもしていない在家の信者が、死んだ後に極楽浄土に生まれて僧侶となり、さとりを開くための修行を行うための「往生」です。本来修行をしなければ助からないという仏教において、在家信者が救われるための道として考えられたものですが、こちらも何の保証もありませんから、信じろといわれても難しいものがあります。ただ、すべての衆生を救おうという大乗仏教において、在家信者の救済として考えられたものです。
 最後が「難思議往生」です。「難思往生」と似ていますが「思うことが難しい」のではなく「思議することが難しい」のです。「不可思議」や「不思議」という言葉と同じで、現に起こっていることではあるけれども言葉で説明できないということです。現に起こっているということですから、死後のことではありません。今まさに往生がかなっているのですが、現実の世界が穢土であるのはそのままなのです。今生きているこの人生が「往生」という意味を持って定まるということです。「生まれ変わった」という点としての「往生」ではなく「生きている」という歩みとしての「往生」です。念仏の教えに頷き、自分が煩悩成就の凡夫であると知らされて生きる人生が、そのまま「往生」という歩みとなっているという「証」を得ているのです。法然上人や親鸞聖人は、浄土思想を心の逃げ道としての仏教から、証を得ることができる真の仏教へと変えたのです。ですから、インドや中国では成しえなかった「浄土宗」として浄土思想を仏教の「宗」としての独立をすることができたのです。ただし、その「証」とは、理想とする私である「仏」となることではなく、煩悩から離れることのできないというありのままの私を認めることができる「往生」としての生き方を得るというものです。ありのままの私を認めることで、周りの人々も認めることができるようになります。理想の私を捨てることで、心が柔らかくなるからです。
 この三番目の「難思議往生」が定まったことを、親鸞聖人は「正定」と呼んだのです。「邪定」は「邪に定まる」ことです。心が「邪」なのではなく、定まり方が「邪」なのです。人生の方向性は定まっているのですが、その方向性が「邪」であるということです。真面目に信念をもっているのに、自分だけではなく周りまでも不幸にしていく生き方です。その人の心を閉ざし、頑なにしていく思想に定まるです。「不定」は、定まっていない生き方です。その場の雰囲気に流されて、社会を批判しながら何となく生きているので、強い信念を持った人に会うと簡単に影響されることになります。
 
 この「正定」になるための「因」が「唯」だ「信心」であるということです。この教えは、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』に次のように述べられています。

 また曰わく、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く阿惟越致に至る者あり。

 これを受けて、曇鸞大士は『論註』に次のように述べています。

 「易行道」は、いわく、ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ず。仏願力に乗じて、すなわちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路に船を乗じてすなわち楽しきがごとし。 

 ここにある「阿惟越致」「阿毘跋致」はいずれも「不退転」という意味で、曇鸞大士は「正定聚に入る」ことであるとしています。ここでは「信方便」「信仏」といっていますが、親鸞聖人はこれを「信心」としたのです。仏教は釈迦以来「信仰」を遠ざけてきました。「自灯明 法灯明」といわれますが、自分で「証」を得たこと以外は信じてはならないという教えです。「偉い人が言った」もしくは「昔から言われている」という理由で信じようとすれば、疑う心を封印しなければならないので、心が頑なになってしまいます。自分や周りの人の心を縛り上げるような「信仰」は人を幸せにはしないのです。「唯」だ「信心」とは「信心以外の様々な善行とされるものを往生の因とは認めない」という意味もありますが「信心以外に私はいない」という意味もあります。「信心」を私が助かるための手段とするのではなく「信心」によって私という存在が正しく認識されたということです。仏教によって私が正しいものになるのではなく、私を通して仏教の正しさが証明されるのです。ですから「信心」というときには、必ず自分の中に「証」が必要となります。この「証」を与えてくれるのが「念仏」ですが、この「仏」とは「阿弥陀仏」と名付けられた「仏性」です。これは「心」の中で働きますから、これを信ずることが「信心」となります。自分の心にはたらく「仏性」である「阿弥陀仏」を念じ信じるということです。この「仏性」は一切衆生の中に成就していますから、すべての人の中にはたらく「仏性」をも念じ信じることになります。これが親鸞聖人のおっしゃる「信心」です。ですから、この「信心」を得た人は、私を含めて誰をも決して見捨てません。その人の出会ってきた縁によって、様々な人生を送ることになったとしても、その人の中の「仏性」を信じ念ずるのです。この「信心」が「正定聚」の「唯」一の「因」となるのです。
 
 ただ、この「信心」が難しいのです。「自性唯信に沈む」という言葉があります。「自性の仏 唯信の浄土」という言葉があります。「自分の本性が仏であると知る。心を清めるところに浄土がある」という仏教が説く教えで『維摩経』などに説かれています。これは仏教の真理なのですが、この真理に「沈む」というのです。大乗仏教の精神を忘れ周囲に目を閉ざしてしまえば、自分の中に仏や浄土を夢想することは簡単なことです。仏教が自己満足の教えになってしまうのです。また「定散の自心に迷う」という言葉もあります。「定散の自心」とは「定善や散善などの善行といわれる修行によって得られた自己確信」のことです。この自己確信に「迷う」とは、修業や学問などの努力を成し遂げたことによって、自分の心や身をコントロールできるという錯覚に陥いってしまうということです。念仏が他力の教えであるとはいえ、何もしないわけではありません。「仏心」に従って、様々な行いをします。この自分が行ったことに対する固執が、優越感を伴った自己確信を生んでしまうのです。自分が煩悩成就の凡夫であることを忘れたとき、この「沈」や「迷」に簡単に陥ってしまうことになります。






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