|『正信偈』学習会|仏教入門講座 | |
遊煩悩林現神通 入生死薗示應化 平成30年8月20日(火) | |
- 2018年11月12日 |
この一文は『浄土論』の中で菩薩の衆生教化を述べている「大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に廻入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の廻向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく」から引用したものです。「煩悩の林」と「生死の園」は「一切苦悩の衆生」の姿です。「苦悩」する原因を「煩悩」と「生死」として、また「一切」の「衆生」を「林」と「薗」と表しています。「林」とは「煩悩」に汚された一人一人を木に例えています。「薗」とは「生死」という逃れることのできない現実に振り回されている社会になります。
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まず「遊煩悩林現神通」です。この「遊」を曇鸞は『浄土論註』に「一つには自在の義、菩薩衆生を度することは、譬ば獅子の鹿を博つに為すところ難らざるが如し。似ること遊戯の如」と述べています。獅子が鹿を狩るのは真剣ですが、義務感で行うわけではありません。躊躇や迷いがないがないのです。これを「遊」と表現したのです。このような行を曇鸞は「純粋無漏相続」といいます。全く煩悩の混ざることのない純粋な心で行う行為です。子供が一心に遊ぶ姿と同じです。これに対して、自分を叱咤して行う行為を「有漏行」、時には叱咤しなければならない状態を「有漏無漏雑起」といいます。大乗仏教は、それまでの仏教が釈迦の教えに従いさとりを開くことに重点を置いてたのに対して、釈迦の如くに衆生を教化することを重視しました。そこで、本来、さとりを開く前の釈迦を指していた菩薩という言葉を、仏教を学ぶ者の姿としたのです。その菩薩の教化が「純粋無漏相続」であるというのです。
その「遊」が如く教化する力が「神通力」です。この「神通力」は「六神通」と呼ばれる次の六つに分けられます。 1. 神足通 思いのままに、いかなる諸仏のところへも行くことができる力。何にでも姿を変えうる力。 2. 天眼通 一切の世界すべてを見通せる力。一切衆生の過去を知る通力。 3. 天耳通 一切の世界のいかなることも聞き取る力。 4. 他心通 他人が何を思っているのかを知ることができる力。 5. 宿命通 自分の過去を知り、過去にとらわれることなく生きることができる力。 6. 漏尽通 煩悩が尽きて、生老病死の苦が除かれた状態。 「神足通」の「いかなる諸仏のところへも行くことができる力」にある「諸仏」とは、すべての衆生の中にある仏性のことです。ですから、すべての衆生を諸仏として尊ぶことのできる力です。このためには、すべての衆生の境遇に寄り添う智慧が必要です。これが「何にでも姿を変えうる力」です。天限通は目の前の人の過去を知ることができる能力です。天耳通は相手のどのような小さな声でも聴きとる力です。他心通は目の前の人の今の感情を感じとることができる能力です。宿命通は自分の過去を把握することができる能力です。最後の漏尽通は煩悩が無くなった状態です。自分の煩悩が少しでも残っていては、相手の心を正確に受け取ることも、平等に判断することもできないからです。この六つが揃って、初めて人を正しく導くことが出来るのです。親鸞聖人はこのようになりなさいとおっしゃっているのではありません。私にこの六つの力がすべて備わっていない以上、人を正しく教化することなどはできないということを知るべきであるというのです。これはあくまでも菩薩が私を導いてくれている姿なのです。 |
次は「入生死薗示應化」です。菩薩が凡夫の社会で「應化身を示す」というのです。「應化身」は「應身」と「化身」の二つに分かれますが、これは菩薩が私の前に現われる姿に二通りあることを示しています。「應身」とは、仏が私に応じて姿を現して下さった姿ということですから、直接私を教え導いてくださる諸師のことです。具体的には、親鸞聖人にとっての法然上人をはじめとする六師や、聖徳太子、釈迦如来がこれに当たります。「化身」とは『涅槃経』に「仏を地獄・餓鬼・畜生と名づく」とあるように、菩薩が地獄・餓鬼・畜生という、私が望まない形となって教え導いてくれる姿です。これがなければ、本当の意味での気づきはありません。「逆縁教興」という言葉の通り、自分に不都合な現実こそが、私を教えに導いてくれるのです。
自分には人を教え導く能力がないということを、明確に自覚したのが親鸞聖人です。自分と共に師のもとで教えを聞こうと人々を誘うことしか出来ないのです。これを表した言葉が「御同朋・御同行」です。親鸞聖人が自分には弟子はいないとおっしゃっているのはこの理由からです。まして、ご門徒を寺や宗門の所有物のように思うなどということはあり得ない話です。 |
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