|『正信偈』学習会|仏教入門講座
得致蓮華蔵世界 即證眞如法性身 平成30年7月17日(火)
- 2018年10月20日
 「蓮華蔵世界に至る」とありますが、この「蓮華蔵世界」とは、阿弥陀仏の浄土である「極楽浄土」の別名になります。天親の『浄土論』に「五功徳門」というところがあります。これは「極楽浄土」に至るまでの五つの功徳を門として示したものです。最初の門は「近門」といい、礼拝によって得られる功徳です。次が「大会衆門」といい、讃嘆によって浄土を生きる人々と出会い仲間となることができるという功徳です。次が「宅門」といい、仏と同じ世界に生きたいという願を立てることにより、散乱した心を離れ心が寂静になれるという功徳です。次が「屋門」といい、仏の世界を観察することによって得られる功徳です。最後が「園林遊戯地門」といい、仏と同じようにすべての衆生を教化・救済し、そのことを苦と感じることなく楽しむことができるという功徳です。「極楽浄土」のことを「近門」では「安楽世界」と呼び「宅門」では「蓮華蔵世界」と呼んでいます。「安楽世界」は「安楽国」ともいいますが、阿弥陀仏を礼拝することによって感じることができる世界を「安楽」と表現しているのです。
 「蓮華蔵世界」の「蓮華」については、同じく『浄土論』の中に「如来淨華の衆は、正覚の華より化生す。もろもろの衆生の淤泥華を開くがゆえに」と述べられています。ここにある「正覚の華」と「淤泥華」が「蓮華」です。「蓮華」とは、さとりである「正覚」を表す華であると同時に、苦悩の衆生を意味する泥の中に開く華でもあるのです。また、蓮華は仏の座ともされています。仏の座とは、仏が座っている場所ということですから、仏教が何を問題としているのかを表しています。つまり、仏のさとりとは現実逃避のための観念的な理想世界ではなく、泥のような煩悩にまみれた現実世界を受け止めた境地であるということです。仏と同じ世界に生きたいと願うとは、世界をこのように受け止めるということです。これが「蓮華蔵世界」です。この視点がなければ、他人のそばに寄り添うことなどできません。
 
 この「蓮華蔵世界」に至ることを得た人が、即の時に「眞如法性身」を証するのです。ここにある「法身」を親鸞聖人は『唯信鈔文意』で次のように述べておられます。

 法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりまたいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりこの如来を報身ともうす。誓願の業因にむくいたまえるゆえに、報身如来ともうすなり。報ともうすは、たねにむくいたるなり。この報身より、応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光仏ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい、悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。無碍は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。

 親鸞聖人はここで「法身」を、色も形もない、こころに想うことも言葉で表すことが出来ないものであるといっています。人間の心に起こる感情を正確に言葉で表すことはできませんし、心で理論的に理解することもできません。同じ言葉でも、使う人や使う場面が異なれば、内容が異なってきます。どれだけ哲学的な言葉や詩的な言葉で表現しようとも、感情の表面をなぞるだけです。浄土教が本尊とする阿弥陀仏を言葉にすれば「すべての人を救いたい」という願いになりますが、これも、言葉にするとただのきれいごとにしかならなくなってしまいます。誰もが、自分さえ良ければいいと思っていますし、現実的にすべての人を救うということなどできはしないからです。しかし、そのような私が、言葉を超えた心の内から共鳴してくる浄土の教えに触れることで「安楽」な世界を得、共にその世界を生きる多くの諸師や同朋と出会い、その中から「蓮華蔵世界」という仏の視点を得た時に、ただのきれいごとから「すべての人を救いたい」という、結果にとらわれることのない願いが生まれるのです。これは私の中に起こった阿弥陀仏という願いです。これを親鸞聖人は「誓願の業因」とおっしゃっています。これによって私の周りに「応化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまう」のです。これはすべての人の中に阿弥陀如来の「誓願の業因」が見えたということです。この様な心も煩悩が覆ってしまいますが、親鸞聖人は「無明のやみをはらい、悪業にさえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。無碍は、さわりなしともうす」と、この煩悩をも問題としないのが阿弥陀仏の願力であるとおっしゃっています。これが、即の時に「すべての人を救いたい」という、阿弥陀如来の「眞如法性身」が自分の中で証明されるということです。
 阿弥陀仏とは神のようにどこかにいるものではなく「阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなり」とおっっしゃっているように、わたしを導いてくださる仏の智慧そのものなのです。






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