|『正信偈』学習会|仏教入門講座
釈迦如来楞伽山 爲衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乘無上法 證歓喜地生安楽 平成29年12月19日(火)
- 2018年1月26日
 ここからは、七高僧の徳を讃嘆しています。最初は龍樹菩薩です。
仏教に菩薩といわれる方々が登場しますが、大きく三つの意味で使われています。
 まずは、お釈迦様の修行中を指している場合です。これが最も古い使われ方で、南伝仏教では、今でもこの意味で使われています。
次は、仏教を修めるために修行している僧侶を指している場合です。大乗仏教は、それまでの仏教の在り方を小乗仏教として批判して、煩悩を断じる阿羅漢というあり方を目指すのではなく、お釈迦様の如くに生きることを目指しました。そこで、修行僧のことを、修行中のお釈迦様と同じく菩薩と呼んだのです。今回の龍樹菩薩と、次の天親菩薩がこの意味になります。
 最後が大乗仏教経典に登場する菩薩です。これは、阿弥陀如来や薬師如来などと同じく、実際にいらっしゃった方々ではありません。仏教の教えをより普遍的で分かりやすくするために、お釈迦様の姿を投影しながら教えを純粋化してえがかれた菩薩になります。観音菩薩や文殊菩薩などがこれになります。これらの菩薩が登場すると、修行僧のことは菩薩とは呼ばなくなりました。
今回の節は、親鸞聖人が『楞伽経』の一節を書かれているところです。それは次の様な一節です。
 
わが乗、内証の智は妄覚の境界にあらず。如来滅世の後、誰か持ちてわが為に説かん。如来滅度の後、未来に当に人あるべし。大慧、汝あきらかに聴け、人ありて我が法を持たん。南大国中に、大徳の比丘ありて、龍樹菩薩と名づく。よく有無の見を破し、人の為に、我が大乗無上の法を説き、歓喜地を証し、安楽国に往生するを得ん。

 「楞伽」とは、印度の南にある、かつてはセイロンと呼ばれていたスリランカの古名「ランカー」のことです。『楞伽経』は、このスリランカで説かれたことになっているのです。この一節は『楞伽経』巻九で、お釈迦様が将来龍樹菩薩が南インドに現われることを預言されていることから「楞伽懸記」と呼ばれています。実際には、お釈迦様がスリランカに行かれたことはありませんし、この経典も龍樹菩薩が亡くなられた後からつくられたものです。ただ、中国では初期禅宗や浄土教において重視されてきた経典です。これは、龍樹菩薩こそが仏教の正統であるということを主張したかったためであると想像できます。龍樹菩薩という方は、単なる歴史上の一個人ではなく、大乗仏教そのものを象徴している方でもあるのです。日本には大乗仏教しか伝わっていませんから、全宗派の祖という意味で、龍樹菩薩は「八宗の祖」といわれています。
 親鸞聖人もこれにならい、龍樹菩薩をお釈迦様の正統な後継者としてたたえているのです。仏教の祖といえばお釈迦様なのですか、親鸞聖人が学んだ仏教は大乗仏教ですから、理念としての祖は龍樹菩薩であるともいえます。逆にお釈迦様の教えの原型は、大乗仏教のかなかには僅かしか残っていません。このことから、大乗仏教は仏教ではないという説まで唱えられたこともありました。もちろん関係ないわけではありません。より普遍的に発展させたのです。
 その龍樹菩薩の代表的な思想が「空」です。これを表す言葉が「悉能摧破有無見」です。苦の原因を探りそれを断つことで楽を得るというのがお釈迦様の考え方です。原因を断つとはいっても、自分の外にあるものを無くすることは出来ませんから、自分の認識や感覚を周りに惑わされないようにしなければなりません。そのために様々な修行が必要となるのです。世間で楽しいと思われているすべてのことは、いずれ失われるものばかりであるから必ず苦に転じてしまうという「一切皆苦」や、すべてのものは変化し続けるために当てにすることが出来るものはないという「諸行無常」、輪廻転生する主体である「我」は存在しないという「諸法無我」ということを悟ることによって惑わされることが無くなるということです。この結果得られる境地が「涅槃寂静」になります。これらはすべて認識を否定することになります。このことは、容易に虚無主義的や社会性の否定に繋がってしまいます。「有」を否定して「無」に陥るということです。虚無主義を否定し社会性を確保するための仏教こそが、龍樹菩薩たちが唱えた大乗仏教です。「空」とは、他から離れた存在としての「我」は存在しませんが、無数の関係性の中で構築された「縁起的存在」としての「我」は存在するということです。ですから、他者を抜きにした「我」は存在しえません。これが大乗仏教の基本概念なのです。このことを親鸞聖人は「宣説大乘無上法」とおっしゃっているのです。『楞伽経』では、このような龍樹菩薩の説が、お釈迦様に代わって説かれたものであるということで「我が大乗無上の法を説き」とされているのです。
 この龍樹菩薩の説が、間違えなく仏教として成就することを明かした内容が「證歓喜地生安楽」です。「歓喜地」とは、『華厳経』や『菩薩瓔珞本業經』などに説かれている菩薩が歩む五十二の修行の段階の一つです。ここで言う菩薩とは、お釈迦様の如くに他者を救済しつつ悟りを求めていくという大乗の歩みとしての菩薩です。この五十二は、上から妙覚、等覚、十地、十廻向、十行、十住、十信に分けられています。「妙覚」は等覚の菩薩が最後に残った僅かな無明を断じた位で、一切の煩悩を断じ尽くしており、仏と同一視されています。「等覚」はその智徳が仏と等しくなったという意味です。「十地」は上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の十の位に分けられており、いかなることにも動じることなく仏智を求めすべての衆生を担い教化する様が、大地に似ていることから「地」と名づけられています。「十廻向」は上から入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の十の位に分けられており、自利利他のあらゆる修行をすべての衆生に廻施しこの功徳を悟りに振り向けることから「回向」と名づけられています。「十行」は上から真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の十の位に分けられており、すべての衆生を救済しようとするために布施・持戒・忍辱・精進・禅定・方便・願・力・智の十波羅密を行じます。「十住」は上から灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心の十の位に分けられており、心が真実の教えに安住することから「住」と名づけられています。「十信」は上から願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の十の位に分けられており、仏教を学び信じて疑心を持たなくなる位です。この中で「歓喜地」は道を誤ることが無くなる位であるといいます。道を誤ることが無いということは、当着地点が見えたということです。到着点が見えていないときは、本当にこの道で間違えていないのであろうか、道は間違っていないとしても自分はそこにたどり着けるのだろうかという不安が、その道のりが険しければ険しいほど強くなります。しかし、たとえ遠くにでも到着点が見えてくると、迷いは消えるのです。これが「歓喜地」です。これは、この仏教が間違えのない教えであったという証なのです。当着地点が見えていないと、適当なところを自分勝手に到着地点にしてしまうのです。特に周りから尊敬されたり感謝されたりすると、すぐに手近なところに腰を下ろしてしまいます。ですから菩薩は「慈悲喜捨」といって、慈悲をもって他者に喜びを与えたことはすぐに捨て去ることが求まられるのです。この様なわき道に陥ることなく、しっかりと到着点を見定めることが出来ることが「生安楽」です。龍樹菩薩は「安楽国に往生する」と言っていますが、親鸞聖人にとっての「安楽国」とは極楽浄土です。到達点が見えたということが極楽浄土に往生したということになるのです。







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