|『正信偈』学習会|仏教入門講座
即横超截五惡趣13 六道問答2から4(『往生要集』より) 平成29年5月16日(火) 
- 2017年7月19日
六道問答2 

問:「不浄」や「苦」や「無常」ということは了解しやすいのですが、現実に目の前に見えるものを、なぜ「空」と言わなければならないのでしょうでしょうか。

答:そのような基本的なことが、経典に説かれていないはずがありません。『金剛経』には「空」を「夢や幻やかりそめのようなもの」と説いています。ですから、ここでは夢に例えて「空」の義を観察します。『大唐西域記』に次の様な話があります。
 「ベナレス国の鹿野苑の東数キロのところに枯れた池があります。昔、一人の修行者がこの池のほとりに小屋を建てて住んでいました。様々な修行をして神通力を会得し、瓦礫を宝に変化させることや、人や動物の姿を変化させることが出来ました。ただし、まだ風雲に乗り、神仙や帝王の乗り物である仙駕に匹敵する速さで空を飛ぶことまでは出来ませんでした。そこで様々な書物を調べ、古から伝えられた知識を考察して、さらなる仙術を求めていたのです。すると、ある書物に次のように書かれてありました。
「長剣を持たせた優れた戦士に、日暮れから夜が明けるまでの間、息を殺して無言のまま、祭壇の隅に立ってもらいます。その間、仙術を求めようとするものは、祭壇の中央に座って、長剣を手にしたまま、目に見えるもの耳に聞こえることすべてに心惑わされることなく、神呪を誦することができたならば、夜が明けるころには仙術を身に着けることができるでしょう」
 そこで修行者は、仙術によって優れた戦士を探し出すと、まず、たくさんの贈り物をして恩義を感じさせました。そのうえで「日暮れから夜が明けるまで声を出さないでいてもらえませんか」と頼んだのです。すると戦士は「あなたのためなら死すら厭いません。日暮れから夜が明けるまで声を出さないことなど造作もないことです」と答えたのです。早速、祭壇をこしらえると書物に書かれていた通りの儀式を始めるために、祭壇の中央に座って日が落ちるのを待ちました。そして日が落ちると、修行者は神呪を誦し、戦士は長剣を持ち、それぞれの役を務め始めました。ところが、間もなく夜が明けようとした時、戦士が叫び声をあげたのです。修行者は戦士に「声を出してはいけないと注意していたのに、なぜ叫び声をあげたのですか」と尋ねました。すると戦士は次のように答えたのです。「あなたの指示に従っていたのですが、夜になる頃、まるで夢でも見ているかのように意識が遠くなると、不思議なことが起こったのです。かつて私が仕えていた主が目の前に現れて、いたわりの言葉をかけてくれたのです。思わず感謝の言葉が口から出そうになりましたが、我慢して黙っていました。すると元の主は激怒し私を殺したのです。霊魂となってしまった私は、自分の屍を見て嘆き悔しい思いをしましたが、あなたの恩に報いるためにも、次の人生でも決して声を出さないと誓ったのです。私は南インドの裕福なバラモンの家に生まれ変わりました。受胎しこの世界に産まれ、様々な苦しい思いをしましたが、あなたからの恩徳に報いるために一度も声を出しませんでした。家督を相続し、結婚し、親を喪い、子供をもうけましたが、いつでもあなたから受けた恩を思い、一言も言葉を口にしなかったのです。親戚たちは皆、このような私を見ていぶかしく思っていました。そして六十五歳になった時、ついに妻が私に訴えてきたのです。「あなた。どうか私に声を聞かせてください。もし、一言も話して下さらないのでしたら、私はあなたの子供を殺してしまいます」と。それを聞いて動揺した私は、恩義は前世のもので、今の私が受けたものではないし、年老いたこの身には、この幼子しかいないのだから、今は妻が子供を殺すことをやめさせるべきだ、と考えたのです。そこで、大きな声を出してしまったのです」。修行者は「これは私の誤りです。魔があなたを悩ませたのでしょう」と言いましたが、戦士は修行者からの恩に報いようとしたのに、自分のために修行が失敗してしまったことの責任をとり、自害してしまいました」(省略して引用しました)。
 現実と夢の境とはこのようなものです。「空」もこれと同じです。我執によってしか、世界を見ることができない私たちは、妄想の夢の中に生きているようなものです。この夢から覚めない間は「空」である世界を「有」と捉えることしか出来ないのです。ですから『唯識論』に「まだ真のさとりを得ていない時は、つねに夢の中に住んでいるようなものなのです。ですから仏は「生死の長夜」と説かれたのです」とあるのです。

解説
 「不浄」や「苦」や「無常」ということは、仏教を学んでいなくても生活実感からでも理解しやすいことです。これに対して、大乗仏教の代表的な教えである「空」ということは理解しやすいとは言えません。源信はこの問答でこの「空」を解説しています。
問いとして、目の前に実際にあるものをなぜ「空」というのかという疑問をたて、これに対して『金剛経』の中に「空」を「夢や幻やかりそめのようなもの」と説いていることから 『大唐西域記』の中に書かれている物語を引用しています。この物語は夢と現実との曖昧さを奇譚として語っているもので「空」を説いているものではありません。源信がそれでもこの物語を引用したのは、やはり分かりやすいからでしょう。「無自性空」というように、本来はすべてのものに価値基準などないのですが、それぞれが自分の価値基準を当てはめて見ているに過ぎない、ということなのですが、これでは抽象的過ぎて『往生要集』にはふさわしくないのかもしれません。目の前のことにとらわれてはいけないということに気づくという結果が同じなのでこれでも良いのでしょう。『唯識論』の引用で「生死の長夜」と説いているように、ありもしない価値に振り回されていることを知らせるのが「空」です。親鸞聖人は「無明長夜」と『雑阿含経』から使われている伝統的な言い方を「正像末和讃」に使われています。「無明」であるということは「空」を悟っていないということです。

六道問答3

問:「無常」「苦」「空」等の観察をしなければならないのであれば、小乗仏教の説である、自らが修行し、自らをさとりに向かわしめる、と同じではないですか。

答:観察は小乗仏教に限るものではなく大乗仏教にもあるのです。『法華経』には次の様に説かれています。
 「大慈悲をもって部屋とし、柔和忍辱を衣装として、世界はすべて「空」であるというところに座り、世間の中で大衆のために教えを説きなさい」(以上)。
「空」を観察することは、大乗仏教の精神である大慈悲心を妨げるものではありません。まして「苦」や「無常」を観察することは、大乗仏教の修行者である菩薩となるための願いを起こさせる本となるものです。ですから『大般若経』などには不浄などを観察することを菩薩の修めるべき法として説かれているのです。もしこのことを詳しく知りたいと思うのであれば、経典に説かれているので読むことを勧めます。

解説
 まず自分が悟りをひらいてから皆を悟りに導くというのが小乗仏教、皆と一緒に悟りをひらこうというのが大乗仏教です。これは教えの違いではなく、姿勢の違いです。ですから、修行をするから大乗仏教ではないということではなく、どのような姿勢で仏教に向き合うかが大切であるというのがこの問答です。そしてここで引用しているのが『法華経』の有名な一節です。まず「大慈悲」を「部屋」とするとあります。「部屋」とは住む場所です。生活するための様々な道具が置かれ、また人を招き入れる場所でもあります。部屋を見れば、その人が生きている目的が分かります。ですから、これは「大慈悲」を実践することを目的とするということです。次に「柔和忍辱」を「衣装」とするとあります。「衣装」とは自己表現です。同時に他者に自分を認識させるものでもあります。私たち僧侶や神父、神官などの宗教者は、一目でそれと分かる衣装を着ています。消防士や警察官、軍人もそうです。その「衣装」を「柔和忍辱」とするというのです。これは、どのような相手の感情もすべてうけいれるということです。決して自分の持っている「正義」や「真実」などというものを相手に押し付けることではありません。相手を緊張させるのではなく、リラックスさせる雰囲気を纏うということなのでしょう。そして「世界はすべて「空」である」というところに「座」るとあります。「座」とは基本であり揺るぐことのない原点です。ただ優しければ良いということではありません。「空」であるという認識の上に立っての「大慈悲」です。「空」は単なる「無」ではありません。存在としては「有」ですが、価値認識としては「無」です。これは意味がないということではありません。固定概念としての価値を否定するということは、逆にどのような価値をも見出すことができるということです。「空」であれば、今の自分にこだわることはありません。様々な自分になれるのです。実際、私という存在は、相手が変われば「夫」や「父」や「友人」や「僧侶」など、どのようにでも変化しているのです。
 この様に「無常」「苦」「空」などの認識を身につけることは小乗とか大乗ということと関係なく仏教に共通して必要とされることなのです。

六道問答4

問:これらの観察をすることにはどのような利益があるのですか。

答:常にこのように観察して心を静めておくことができるならば、物や声や香りや味や触感によって沸き起こる煩悩が極めて軽微となり(中略)死を目前にしても正しく判断することができ、心乱れることがありませんし、地獄などに堕ちることもありません。このことは『大荘厳論』の「勧進繋念の偈」に説かれています。
 「まだ若くて病気などしていないときには、誰もが仏教を修することに怠惰で精進しないものです。様々な仕事にあくせくするばかりで、布施や戒律や禅定などを修することなどしません。死の恐怖に襲われて、ようやく今までの生活を悔いて善行をしなければならないと慌てふためくのです。智慧ある者は観察して、物や声や香りや味や触感によって沸き起こる煩悩を断ち除きなさい。精進に勤め心を修める者は、たとえ死に直面しようとも人生に悔いたり、恨みに思ったりすることはありません。心がすでにさとりの境地に至っているならば、心が乱れることはありません。智慧ある者は努力してこの境地に至っていますから、死に直面しても心乱れることが無いのです。心を修めさとりの境地に至っていなければ、死に直面すると、必ず心乱れることになるのです」(以上)
 また『宝積経』の五十七巻にある偈には次の様に説かれています。
 「自分の身体を観察しなさい。筋肉と筋が互いに絡まり合って、湿った皮膚がそれを包み覆っています。九つの穴が開いていて、身体中を回っている糞尿などの汚いものが流れ出てくるのです。たとえば、家や倉に様々な穀物が入っているように、この身体の中に様々な汚いものが詰まっているのです。骨の関節を動かしていても、しっかりと繋がっていないので、何時外れるかもわかりません。愚かな者はこの身体を愛しみ快楽を求めますが、智慧ある者は執着することがありません。鼻水や唾や汗がいつも流れ出していて、膿や血が体の中に詰まっています。黄色い脂肪が乳に混ざり、脳みそが頭蓋骨の中に入っています。胸の中には痰が流れ、中には肺などの臓器があります。脂肪と皮膚と五臓六腑などもあります。これらの臭く醜いものが、様々な汚物と一緒になっているのです。この様に、この身は罪深く恐ろしいものなのです。この事実に、私たちが恐れを懐かなければならないのです。
 知識が無く欲に耽る者は、智慧がないためにこの身体を若く保ち綺麗なままでいようと努力しますが、この身体は、まるで朽ち果てた城郭のように、元々が臭くて汚れているのです。昼も夜も煩悩に迫られて、振り回され流され、一瞬たりとも止むことはありません。この身体を城だとするならば、骨は壁や石垣であり、血肉がそこに塗られている土のようなもので、そこに貪・瞋・痴といった煩悩が、至る所に絵画のように描かれています。この様な骨肉で出来た城を快く思ってはなりません。血や肉が一緒になって、まるで悪い知り合いのように、外と内からの苦しみによって、私たちの心をたぎらせるのです。難陀よ、よく心に留めておきなさい。わたしの教えを昼も夜も常に念じて、欲望に心を奪われてはなりません。もし欲望から離れようと思うのならば、常にこの様な観察によって解脱の境地を求めることによって、速やかにこの苦しみの欲望海を越えることができるでしょう」(以上)
 これ以外の様々な利益は『大智度論』や『摩訶止観』などを見てください。

解説 
 ここまでの観察にはどのような利益があるのかという問いです。これに対しての答えは、六道の姿を観察することによって、物や声や香りや味や触感によって沸き起こる煩悩が極めて軽微となり、心穏やかに過ごすことができることであるということです。そして、死を目前にしても心乱れる事無く、地獄に堕ちる不安も無くなるというのです。これこそが源信が『往生要集』で六道の姿を著した目的です。来世に対する恐怖心をもって煩悩を抑えようという試みです。これは本来の仏教からみると邪道のようにも思えます。しかし、そうしなければならない理由が次の引用文にあります。若くて元気な時は、ほとんどの者が真剣に仏教を学ぼうなどとは思わないということです。死を目前にして、ようやくその気になっても間に合うはずもありません。ほんの一握りの智慧ある者だけが若い時から仏教を学び、たとえ死を迎える時も心を乱すことが無いのです。ただこれでは、ほとんどの者が救われることが無いことになってしまいます。ですから、若くて元気な者でも仏教に関心を持ってもらうための方便が必要になります。それが六道の観察なのです。ここで源信は『宝積経』を引用して身体の不浄を説きます。それだけ肉体に対する執着が強いことを認識していたのでしょう。ここに「欲望海」という言葉が出てきます。親鸞聖人も「海」を譬喩によく用いていますが、尽きることのない海の水のような欲望に、より多くの人が惑わされることなく生きることができるのかを問い続けた源信の姿を『往生要集』から窺うことができます。






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