|『正信偈』学習会|仏教入門講座
即横超截五惡趣12 六道問答1(『往生要集』より) 平成29年4月18日(火)
- 2017年6月3日
問:どうすれば六道から離れようという心が起きるのでしょうでしょうか。
答:もし詳しく知りたいと思うならば、今まで記した通りです。すなわち、六道の因果、不浄、苦などがその理由となります。または、竜樹菩薩が禅陀迦王に仏道を勧め発心させるために詠った偈文には次の様にあります。
 「この身は不浄で、九つの孔から流れ出る汚物は尽きることが無く、河や海の水が尽きることの無いのと同じかとも思えるほどです。薄い皮膚で覆い隠しているため、綺麗であるかのように見えますが、それは装飾品の美しさで身を飾っていることと同じです。多くの智慧を備えた人はこの事実を理解していますから、この美しく見える身体が偽りの姿であることを知り、執着することなどありません。ひどいかゆみを伴う皮膚病の疥癬(かいせん)の患者は、燃え盛る炎に近づくと、最初の間は痒みが消えて心地よいのですが、しばらくして体が温まるとかえって痒みが増して苦しむことになります。貪欲という煩悩もこれと同じで、最初の間は楽しくても、最後にはつらい思いをしなければなりません。
 身体の真実の姿は、すべて不浄であると認識するということは、すなわち空や無我を観察するということです。これは仏教の悟りですから、この観察を修習することが出来た者は、無上の利益を得ることになります。
 どれほど美しい容姿や、優れた出身一族、多くの知識に恵まれていたとしても、戒律を守り智慧を得ることが無ければ動物と変わることはありません。たとえ姿が醜く、生まれが卑しく、知識が少なとも、戒律を守り智慧を得ている者は最も優れた者と言えるのです。誰もが、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽という、八つの仏教を修習しようとする者の心を惑わす世間的な欲望から離れることは出来ません。もしそれらを除き断つことが出来る者がいたならば、まさしく称賛に値することです。すべての沙門と婆羅門は、父母や妻子・眷属等から、これら世間的な欲望を叶えるように懇願されたとしても、その言葉を受け入れて不善・非法を行ってはなりません。もし皆の願いを受け入れて過ちを犯したとしても、将来の苦しみは自分一人で受け取らなければならないのです。様々な過ちを犯したとしても、その酬いはただちに受けるのではありません。刀剣が傷つけ切り裂くのとは違うのです。臨終の時、罪の姿が現れ始め、地獄に入って諸々の苦を受けることになるのです。
 信・戒・施・聞・慧・慚・愧の七つを聖財と名付けます。これは真実にして無比の存在であるお釈迦様の教えです。世間のどのような珍宝よりも大切なものです。自分が満たされていることを知るならば、たとえ貧しくても富んでいると言えるのです。逆にどれほどの財産を持っていようとも、欲の尽きることのない者は貧しいと言えるのです。もし多くの財産を持つことが苦を増すことになるということを例えるならば、多くの首を持つ竜ほど酸毒が増えるということと同じです。まさに、美味なるものは毒薬のようなものであると観じて、智慧の水を濯いで心を清らかにしなければなりません。身体を維持するために食事を取らなければならないからといって、美食を貪って驕った心を養ってはなりません。諸々の欲に染まることを厭う心を起こして、無上涅槃の道を求めるように勤めなさい。体調を管理して健全な状態に保ち、そのような健康な身体でしっかりと戒律を守りなさい。
 夜の時間を五つに分けて、その内の二つの時間はしっかり眠息して、最初と中と後の時間は生死を観じ、集中して修行を勤め、救いを求めて、空しく時を過ごしてはいけません。例えば、僅かな塩をガンジスの大河に入れても塩水に変えることが出来ないように、僅かな悪が多くの善に触れたとしても消滅散懐してしまうのです。
梵天が天界で欲界では味わえないような幸福を受けていたとしても、無間地獄に堕ちれば熾然の苦を受けなければなりません。天界の宮殿で光明を放っていたとしても、地獄に堕ちれば暗闇に閉ざされます。いわゆる黒縄地獄と等活地獄、焼、割、剥、刺、無間という八地獄が常に盛んに燃えているのは、すべて衆生の悪業の報いです。この地獄を描いた絵図を見たり、誰かから地獄の様子を聞いたり、経典や書物を読んで地獄の様子を想像して思い浮かべたりするだけで、耐え難い恐怖に襲われるでしょう。まして、自分がそれを体験することになればどうなるでしょうか。 一日に三百回矛で切り刻まれようとも、阿鼻地獄で受ける一瞬の苦しみに比べれば百千万分の一にも及びません。
畜生道であっても無量の苦があります。繋がれたり縛られたり鞭で打たれたりします。あるいは、美しい珠や羽、角、牙を取るために、または、骨や毛皮や肉を取るために殺されたりもします。
 餓鬼道で受ける苦もとても辛いものです。何を望んでも何一つ意のままにはなりません。飢えや渇きに迫られて寒さ熱さに苦しみ、疲れや満たされない思いなど、ここで受ける苦は無量です。糞尿などの汚物でさえも、ほとんど口にすることができません。たとえ、必死に探し求めて僅かな食事を得ることができたとしても、互いにかすめ奪い合ってバラバラになり、誰も口にすることができなくなるのです。清らかで涼しげなはずの秋の月光の下でも炎熱に身を焼き、温和であるはずの春の日ざしの中でも寒さに転げまわるのです。果樹園に行っても実は一つも付けておらず、清流に行っても水は枯れてしまっています。犯した罪業によって、餓鬼道での寿命は一万五千歳という気が遠くなるほどの長さになります。この間、ありとあらゆる苦を受けなければなりません。これが餓鬼道で受ける報いです。煩悩の濁流が衆生を翻弄して、深い畏怖の思いや燃え盛るような苦しみを生むのです。この煩悩を無くそうと思うのならば、真実の解脱によってありのままを悟るように修行しなければなりません。世間に溢れるかりそめの拠り所を離れて、清浄にして不動の拠り所を得なさい。」(以上は、百十行の偈文を略したものです)

解説
 前回まで地獄から始まり天に至るまでの六道を見てきましたが、今回からはその後に付けられている、源信僧都自らが問いを立てて答えている四つの問答を見ていきます。
 その第一が、どうすれば六道の世界から離れたいと思うのかという問いです。実際には私たちが生きているのは地獄や畜生ではなく人ですから、人として生きていることに嫌悪感を懐くにはどうすれば良いのかということです。このことは、今までに説かれていることですが、あえて繰り返しているのは、それだけこの世界に執着が強いということでしょう。
 最初は龍樹菩薩が禅陀迦王に仏道を勧め発心させるために詠った偈文を引用しています。まずは人のところで説明していた、この身体が不浄であるということから始まります。次に欲に流されることは、ひどいかゆみを伴う皮膚病の疥癬の患者が、一時の癒しを求めて燃えたぎる炎に近づくこととおなじであるという例えを出して、さらに大きな苦しみに繋がることを説いています。そして、この身体の不浄なことを知ること、欲に流されることがさらなる苦しみに繋がることを知ることが「空」や「無我」という、大乗仏教の悟りと同じ意味を持つと言うのです。これは、自分の身体や欲に執着しなくなるということが、結果的に悟りを得たことと同じ意味を持つことになるということです。このことは、知的に理解しても心が頷かないことに比べれば、知的には理解していなくても心が頷くことの方が、実質的な悟りと言えるということです。私たちは頭では理解しているつもりでも、心が伴っていないことの方が多いのです。老病死がその例ですが、自分や周りに対する偏見なども、わかってるつもりではいても、心が伴ってこないことがあるのです。このことを竜樹は、卑近な例を用いて、より実感しやすく説いているのです。このことに頷くことができるということは、見た目の美しさは勿論、生まれや知識の多少に左右されるものではないのです。知っているということと分かるということは違うということです。たとえどれほどの知識を得たとしても、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽という八つの仏教を修習しようとする者の心を惑わす世間的な欲望から離れることはできないのです。本人がこれらの欲望から離れようとしても、父母や妻子・眷属等(親戚等)から、世間的な欲望を叶えてくれるように懇願されるかもしれません。その願いに応えてしまうと、その責任は結局自分で負わなければならないことになってしまいます。ここで竜樹が勧めるのが信・戒・施・聞・慧・慚・愧の七つです。これによって初めて人は真の満足を得ることができるというのです。これは世間的なことで得られる満足とは比較にならないというのが仏教の教えです。世間的な満足は、多く得るほど逆に多くの苦を産むことになります。このことを九頭竜の例えで示しています。そして、しっかりと自己管理をすることを勧めたうえで、さらに天・餓鬼・畜生について説明し、仏道以外に真実の満足を得る道がないことを示しています。
 もしこれを簡略に表したものを表せば、馬鳴(めみょう)菩薩が「頼吒和羅(らいたわら)の伎声(ぎしょう)」で、次のように詠っているものがあります。
 「この世界のあらゆることは、実体のない幻のようなものであり、かりそめのようなものでしかありません。三界に生きていることは牢獄に捕らわれているようなもので、一つとして願うべきものなどありません。王の位は気高くその権力はあらゆるものを従えますが、無常の法にだけはあがなうことはできません。空に漂う雲が瞬時に散滅すように、この身体が虚しくかりそめのものであり、まるで芭蕉の木の様です。この身体は自分にあだとなったり、平安を奪ったりするもので、けっして親しみを持つようなものではないのです。それどころか、それはまるで毒蛇の牙のようなものでしかありません。誰がこのようなものを愛おしむことができるでしょうか。ですから、諸仏は常にこの身体に執着するなと






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