|『正信偈』学習会|仏教入門講座
即横超截五惡趣10 人(『往生要集』より) 平成29年1月17日(火) 
- 2017年3月4日
 人間を説明するためには、大きく三つの視点に分けて、丁寧に見ていく必要があります。その三つの視点とは、不浄であること、苦であること、そして無常であるということです。

1、不浄
 人間の体の中には三百六十の骨があって、それぞれが関節で支え合っています(実際には二百~二百六です)。例えは、足の指の骨は足の裏の骨を支え、足の裏の骨は踝の骨を支え、踝の骨はふくらはぎの骨を支え、ふくらはぎの骨は膝の骨を支え、膝の骨は腿の骨を支え、腿の骨は骨盤を支え、骨盤は腰の骨を支え、腰の骨は背骨を支え、背骨はあばら骨や頸の骨を支え、頸の骨はあごの骨を支え、あごの骨は歯を支えて頭蓋骨を乗せています。また、頸の骨は肩の骨を支え、肩の骨はひじの骨を支え、ひじの骨は腕の骨を支え、腕の骨は掌の骨を支え、掌の骨は指の骨を支えています。それぞれが次々と繋がり鎖のようになっているのです(『大般涅槃経』からの引用です)。
 三百六十の骨が組み合わさっている姿は、まるで朽ちて壊れかけている建物のようです。骨はそれぞれの関節によって支えられ、四本の細い筋がすべての骨を巡り覆っています。五百の筋肉(実際には6百以上)が、まるで土壁のように六本の筋で互いに繋がれ、さらに五百本の筋を纏っています。七百本の細い血管が網の目のように絡み合い、十六本の太い血管が曲がりくねりながら全身を巡り互いに繋がっています。身長の三倍半ほどの長さがある二本の腸があって、体の内側を絡まりながら結びついています。十六個の腸と胃が臓器の周りを巡っています。二十五個の気脈はまるで窓のように穴を穿ち、百七もある切れ目はまるで壊れた器を連想させます。八万もの毛穴は大地を乱雑な草が覆っているようであり、五根(眼・耳・鼻・舌・身)七竅(眼・耳・鼻・口の7つの穴)は汚物に満ち満ちています。七重の皮膚が体を包み、六種の味がする食料で命を長らえることは、祭りに燃やす大きな篝火が際限なく薪を欲しがるように貪欲で満足することなどありません。このように人間の身体は、すべてが悪臭に満ちて穢れており、本質的に爛れ腐っているのです。この身体に、誰が愛着を持ち誇りを持つことができるでしょうか(『宝積経』九十六からの引用です)。
 別の経典には次の様に説かれています。
 九百の肉切れが全身を覆い、九百の筋がその間を連ね、三万六千の血管があり、三升(一升は一.八リットル)の血がその中を流れています。九十九万の毛穴があり、常に汗が噴き出ています。九十九重の皮膚がその上を覆っています。また、腹の中に五蔵があります。互いに葉のように重なり下に向かって繋がっている様はまるで蓮華のようです。空洞になっている穴が体の中と外を繋いでいます。その数は九十重にもなります。肺臓は上の方にあって白い色をしています。肝臓は青色です。心臓は中心にあって赤い色をしています。秘蔵は黄色です。腎臓はそれらの下にあって色は黒です。
 また、六腑もあります。大腸は食物を通す役割をしています。また、肺の管理もしています。その長さは身長の三倍半にもなり、白い色をしています。胆嚢は浄化の働きをしています。また肝臓を管理しています。その色は青です。小腸は栄養を取り込む働きをしています。また心臓の管理もしています。長さは身長の十六倍で赤い色をしています。胃は食べ物を蓄え消化する働きをしています。また、脾臓の管理もしています。中には三升の糞があって黄色をしています。膀胱は尿を蓄える働きをしています。また腎臓の管理もしています。中には一斗(十八リットル)の尿があり色は黒です。三膲(上焦(横隔膜より上部)、中焦(上腹部)、下焦(へそより下部)に分かれ、呼吸・消化・排泄をつかさどるという。また、体温を保つために絶えず熱を発生している器官ともされる)は汚物を管理しています。これらの臓器が体内に散らばってるのです。大腸と小腸が赤と白の色で一八回お腹の中を回っている様子は、まるで毒蛇がとぐろを巻いているようです。
 また、頭の先から足の甲に至る骨の髄から皮膚の間には、八万匹もの虫がいます。この虫には四つの頭と四つの口、九十九本の尻尾がありますが、すべてが同じ姿をしているわけではありません。それぞれの虫の中にはさらに九万の小さな虫がいて、その大きさは秋に抜けかわった鳥獣の細毛よりも小さいのです(『禅経』や『次等禅門』からの引用です)。
 『宝積経』の五十五巻と五十六巻には次の様にも説かれています。
 母親の胎内から生まれて七日経つ頃には、八万もの虫が身体中に現れて全身に食らいつきます。舐髪(しはつ)という二匹の虫は髪の毛根に住み着き常に髪の毛を食らいます。繞眼(にょうげん)という二匹の虫は眼の中にいて常に眼を食らいます。四匹の虫が脳の中にいて脳を食らいます。稲葉(とうよう)という一匹の虫は耳にいて耳を食らいます。蔵口(ぞうく)という一匹の虫は鼻にいて鼻を食らいます。遙擲(ようちゃく)と遍擲(へんちゃく)という二匹の虫は唇にいて唇を食らいます。針口(しんく)という一匹の虫は舌にいて舌を食らいます。五百匹の虫が左半身にいて左半身を食らいます。右半身も同じです。四匹の虫が消化器の上半分を、二匹の虫が下半分を食らいます。四匹の虫が尿道にいて尿を食らい、四匹の虫は直腸にいて糞を食らいます。(中略) 黒頭(こくず)という一匹の虫は脚にいて脚を食らいます。このように、八万の虫がこの体の中にいて昼夜を問わず食らい続け発熱させたりするのです。また悩み事などがあると、これらの虫が悪さをして様々な病を起こし、どのような名医も治すことなどできなくなるのです。
 『僧伽咤経』には次の様に説かれています。
 人が死を迎える時、身体中の虫たちが恐れおののき互いを食らい合うので、恐ろしい痛みに襲われ苦しみます。その人を枕もとで見守っている親族たちは、それを見てとても悲しくつらい思いをするのです。虫たちは互いに食らい合い、最後に残った二匹の虫は七日間戦い続けます。生き残った最後の虫は最後まで生き続けます。
また、どれだけ上等の食事を食べようとも、お腹の中で一晩経てば不浄なものに変わってしまいます。糞など身体から出る汚物がどれもこれもひどい匂いがすることを考えればわかるはずです。人間の身体も同じです。歳の若きも老いも関係なく不浄なものです。どれだけ海水で洗い清めようとも決して浄潔になることはありません。外観を美しく飾ろうとも、体の中に不浄なものが詰まっているのです。それは、綺麗な絵が描かれている壺に糞などの汚物が入っているのと同じです(『大智度論』や『摩訶止観』からの引用です)。
 ですから『禅経』には次の様な偈文があります。
 この身が臭く不浄であると知っても、愚かな者は愛着し、外観の美しい姿ばかり見て内側の不浄なことを察することができない。
 言うまでもありませんが、命終の後に野辺の塚に捨て置かれれば、一日二日と日を経て七日もすると全身が腫れあがりどす黒くなり、異臭がして肉はただれ、皮膚は破れて膿や血が流れ出ます。大鷲や鷹、鳶、梟などの鳥や、狐や犬などの獣が、その肉をつかみ、割き、食らい、かみつきます。鳥や獣が食らい尽くした後、食い散らかされた肉片に、無数の虫や蛆がその臭い匂いつられて群がってきます。そのおぞましい姿は、犬が死んだ時よりも醜いものです。時を経て白骨となり果てれば、骨はバラバラに散り散りとなり、手足の骨も髑髏も違うところに転がってしまいます。風に吹かれ日差しに曝されて、雨に打たれ霜に包まれて何年も過ぎれば色も変わり、ついには腐れ朽ちて粉々になって塵土と一つになってしまうのです(これは究極の不浄の様です。『大般若経』や『摩訶止観』からの引用です)。
 このように、この身は始まりから終わりに至るまで不浄であるということを知らなければなりません。愛し合っている男女も同じです。智慧のあるものであるなら、この身体に執着することなどなくなるはずです。
 ですから『摩訶止観』には次の様に説かれています。
 このように、人間の身体を観察すれば、それまでどれほど肉欲が強かった者も欲が萎え肉体に嫌悪するようになることは、糞を見ないときに美食に惑わされていた者が、糞の臭いを嗅いだ途端に吐き気に襲われるのと同じです。
 また、次のようにも書かれています。
 この観察をするならば、高い眉、翠い眼、白い歯、赤い唇を見たとしても、一塊の糞に粉を振ってあるように、また、腐った死体の上に美しい衣を着せているようにしか見えなくなります。見ることすらおぞましく思えるほどです。まして、近くに身を寄せようなどとは思うはずもありません。この事実を知って、殺人者を雇って自殺した者もいます。まして、抱き合い性交するなどあり得ないことです。このように観察することは、性欲の病を抑える良い薬となるのです。

解説
 地獄・餓鬼・畜生・修羅が今世での悪業によって来世で受ける報いの世界であったのに対して、この段の「人」は今の状態が苦に満ちており、執着に値しないことを説いています。この世界の楽を求めてそれに執着することから苦が生まれるという思想は、初期仏教から一貫しています。ですから、今までの世地獄などの世界が、大乗仏教的な方便であったのに対して、この段は伝統的な仏教理解であるともいえます。ただし、縁起の法などによって説明される哲学的な初期仏教の苦とは違い、ここでは誰でも理解しやすい現実的な三つの苦として説かれています。
 最初の苦は「不浄」です。人間としての身体がいかに汚く汚らわしいものであるかということを知ることによって、人間として生きることに対する執着を離れさせようということです。まずは様々な経論によって、どれほど美しく着飾ろうとも、一皮むけば骨や筋肉、内臓などによって体ができているということを、嫌悪感をもたらすような言い方で説いています。骨の数などは今の医学からみると多少のずれはありますが、かなり正確に言い当てています。内臓に関しても、機能的な理解のずれはあるものの、どこにどういうものがあるのかは理解していたようです。
 それに対して、現代の理解とはかけ離れているのが八万匹の虫の話です。この虫は、顔などにいるダニやお腹にいる寄生虫の事ではありません。まして腸内細菌でもありません。その姿は四つの頭と四つの口、九十九本の尻尾を持っており、この虫の中にさらに九万匹の虫がいるというのです。これらの虫は、目や鼻、口などの全身にあるあらゆる部位に生後七日目には住み着きます。この虫たちが病気を起こすと考えられていました。この様に、全身に虫が住み着いているという考え方から「虫の居所が悪い」「腹の虫がおさまらない」「虫の知らせ」などの言葉が生まれています。庚申塚などはその代表的な例です。これらの虫が宿主である人間が死を迎えようとする時、互いに食らい合いをするので、人間は全身に激痛を感じるというのです。解剖をすれば、骨の数や内臓の様子まではわかりますが、病気の原因までは分からなかったのでしょう。解剖の時に出てくる回虫などの寄生虫や、遺体から虫が湧き出してくることからこのように考えたのかもしれません。身体の中に何万もの虫が蠢いている様を想像すれば、確かに気持ちのいいものではありません。
 次にあげている不浄は、身体の中には糞尿が溢れているということです。どれだけ美味しいもの、香りの良いもの、美しい料理を食べても、お腹の中で一晩経つと糞尿になってしまいます。これは、どれほど美しい人であろうが変わりません。これは美しい絵が描かれている壺の中に糞如が入っているのと同じだというのです。
最後は、一般に「九相観」と言われている、死体が徐々に朽ち果てていく姿を観ずる行です。これは修行者が性欲を絶つために行うものです。朽ち果てていく姿が真実であるのだから、目の前の色香に騙されてはいけないということです。浄土真宗は肉食妻帯の在家仏教ですから、このような行は必須ではありません。ですから、このような行は行いませんが、出家僧にとっては、かなり切実なものであったのでしょう。ただここでは、自分の身体に対する執着から離れるために引用されています。
 これらの事実を察する賢い者であれば自分の身体に対する執着から離れることができるはずであるというのです。逆に、外見の美しさに惑わされて、この世界に執着する者は智慧のない者であるということになります。智慧のないことを知るという浄土真宗からすれば、後者で問題ないのですが、源信僧都等の出家仏教からすれば、やはり前者であるべきなのです。
2、苦
 よく考えてみれば、この身体は生まれた時から常に苦を受け続けているのです。
 『宝積経』には次の様に説かれています。
 たとえ男として生まれようとも女として生まれようとも、たとえ生まれ落ちたところが地面あろうとも手であろうとも衣の上であろうとも、たとえ生まれた季節が冬であろうとも夏であろうとも、冷たい風や熱い風に触れれば大変な苦しみを受けるのです。それは、生皮を剝がれた牛が壁にぶつかるようなものです(意味を取って訳しました)。
 成長してもまた多くの苦しみを受けなければなりません。同じ経典に次のように説かれています。
 この身に受ける苦しみには二種類あります。眼、耳、鼻、舌、咽喉、歯、胸、腹、手、足などに様々な病が生じます。それら四百四の病がこの身に起こることを内苦と言います。これに対して外苦があります。牢獄に入れられて、鞭や棒で打たれ、耳や鼻を削がれ、手や足を切られたりします。多くの悪鬼神によって天変地異を起こされたり、蚊、虻、地虫などの毒虫に刺されたりもします。寒さ、暑さ、飢え、渇き、風、雨などの様々な苦しみがこの身を襲います。人間は色・受・想・行・識の五段階ですべてのことを認識しますが、歩いている時も止まっている時も座っている時も横になっている時も、これらの苦しみから逃れることはできません。休むことなく歩き続けることは外苦です。止まっていることも座っていることも横になっていることも、これと同じです(略して引用しました)。これ以外にも多くの苦がありますが、それらの苦は実際に誰もが経験していることですから、わざわざ説明することもないでしょう。

解説
 次は「苦」です。たとえ男として生まれようとも女として生まれようとも、たとえどのような家柄に生まれようとも、たとえ生まれた季節が冬であろうとも夏であろうとも、冷たい風や熱い風に触れれば大変な苦しみを受けるというのです。赤ちゃんが泣くのは、外の風に触れて痛みを感じているからだと思われていたようです。それを、生皮を剥がれた牛が壁にぶつかるようなものだと例えています。
 成長してから受ける苦には二種類あるといいます。一つは病気のように内的な原因で起こる苦です。もう一つは、外から加えられる苦です。例えば、牢屋にいれられたり、棒や鞭で叩かれたり、耳や鼻を削がれたり、手足を切られたりという人間から受ける苦があります。それ以外に多くの悪鬼神によっておこされる天変地異や、蚊や虻、地虫などの毒虫になど人間以外から受ける苦もあります。この様に、人として生きていることそのものが苦の連続であるというのです。
これは、楽を求めて生きている私たちにたいして「そいではない。生きていることは苦しいはずだ。」と意識の転換を呼びかけているものです。誰もが、思い返してみれば今までに苦しかったことがいくつも思い返されます。それだけをつなぎ合わせれば、確かに生きていることは苦しいことだと思うかもしれません。ただ、過去を振り返る時、楽しかったことをつなぎ合わせる人が多いようです。ですから「昔は良かった」「子供が小さい時はかわいかった」という言葉になります。しかし、その当時は決してそのように思っていたわけではありません。それなりに辛かったはずですが、楽しかった記憶だけが思い出されるようです。これはこれで事実ではありませんが、すべてが苦しかったというもの事実ではありません。どちらもあったはずですが、ここでは今の幸せがあ頼りにならないことを知らせるために、敢えて苦を強調しています。 
3、無常
 『涅槃経』には次の様に説かれています。
人の命が永遠に続くものではないということは、いつ尽きるともしれぬ山の水よりも儚いものです。今日生きていても、明日には生きているとは限りません。ですから、欲に流されるままに悪行をしていてはいけないのです。
 『出曜経』には次のような偈文があります。
 今日一日が終われば、命の残りがまた少なくなってしまう。僅かな水の中を泳ぐ魚のようなものです。このような人生のどこが楽しいというのでしょうか。
 『摩耶経』には次の様な偈文があります。
 たとえば、牛飼いが牛を連れて屠殺所に連れて行くとき、牛の命は歩みを進める度に死に近づいていくのです。人間の命もこのようなものなのです。
どれほど長生きしようとも、最後には死を免れることはできません。どれだけ富を蓄え高い地位に就くとこができたとしても、必ず衰え病に侵される時がくるのです。『大般涅槃経』に次の様な偈文があります。
 この世界に生きるすべての生きとし生きるものは、必ず死に至ります。無限と思われる寿命を生きる神々でさえ、必ず命尽きる時は来るのです。どれほど栄華を誇る者であっても、必ず衰退する時が来ます。出会ったものには、必ず別れが訪れます。若さを誇っていられるのは、ほんの僅かな間でしかありません。どれほど元気な者でも、必ず病に侵されます。命は必ず死に飲み込まれ、自然界の法として永遠に生き続けることなどありえないのです。
 また『罪業応報経』には次の様な偈文があります。
 流れ出る水は常に十分にあるわけではありません。激しく燃える火もいつまでも燃え続けることはないのです。登った太陽は必ず沈み、月も満ちれば必ず欠けていきます。尊栄高貴な者も瞬く間に無常の風に吹かれていきます。ですから、念じ勧め精進して、この上なく尊い仏を礼し奉らなければならないのです。
 このような恐れは、凡下の者だけが感じるものではありません。仙人となって神通力を得た者も同じなのです。ですから『法句譬喩経』には次の様な偈文があります。
 空にも海にも山の巌の間にも、この世界のどこに逃れようとも死を免れることなどできないのです(空に昇り海に潜り巌に隠れて師から逃れようとした三人の物語はこの経典に詳しく説かれています)。
 つまり、他の苦や病は免れる者もありますが、無常の苦だけは最後には誰も免れることはできないのです。すべての者は仏説の如くに修行して、常楽の果を欣求しなければなりません。『摩訶止観』には次の様に説かれています。
 無常の殺鬼は豪賢を選びません。そのような世間的な価値は、危うく脆くとても頼りになるものではありません。どうして、漠然として百歳まで生きることができると考えたり、四方を駆けずり回って財産を蓄えたりできるのでしょうか。十分に蓄える前に命が尽きれば、それまで蓄えた財産も他人の手に渡り、すべての希望を失いながら一人死んでいかなかければならないのです。誰がそれで良かったと言えるでしょう。もし、無常という苦が、暴水や猛風、落雷よりも恐ろしいと気づいたとしても、山にも海にも空にも逃れることのできるところはありません。このように観察することができたならば、そのあまりの恐ろしさに床に入っても眠ることなどできないはずです。食事を口に運んでも美味しく感じることもできません。ですから、頭の上で燃える炎を急いで消すような速さで、すぐにでもこの苦から逃れ出るための教えを求めなければならないのです。
 また次のようにも説かれています。
 たとえば、耳と尾と牙を切り取られた狐が、痛みに耐えて死んだふりをすることができたとしても、頭を切り落としてしまえという声を聞いて恐怖に襲われるようなものです。生きる苦や老いの苦、病の苦に慌てることがなかったとしても、死という苦を前にして平然としていることはできません。どうして自分が消えてしまうという恐怖に耐えることができるでしょうか。死に対する恐怖心が起こると、熱湯や火を踏んでしまった時のように、小さな煩悩にかまっている暇などなくなるのです(以上は意味を取って訳しました)。
人道とはこのような世界なのです。ですから、厭い離れるべきなのです。

解説
 最後は「無常」です。「諸行無常」という言葉でも知られていますように、仏教を代表する言葉です。ただし「諸行無常」は「すべてのことは変化し、永遠のものは存在しない」という意味ですが、ここの「無常」は、ほとんどが「必ず死ぬ」という意味になっています。このことを様々な経典の言葉で説いています。大病に煩わされることなく一生を終わる方もいます。歳をとっても若々しく過ごしている方もいます。しかし、未だかつて死を免れた方はいないというのです。仏教には永遠という発想はありません。仏も有限ですし、この世界もいずれ無くなるという教えです。まして、人の命など儚いものでしかありません。今自分が大切にしている幸せは、自分の死をも乗り越えられるものであるかということです。そうでなければ、その幸せは必ず壊れてしまうことになります。仏教の教えは壊れない幸せ求めるものです。
 これまでの地獄から修羅までが、悪い行いを戒めるものであったのに対して、この「人」のところは、今の幸せが本当に信頼できるものであるのかを問うところになります。今「人」として生きている事が苦であると思わなければ、教えを聞くことはできないのです。自分ではどうしようないという思いが無ければ、誰かを頼むことはありません。医師や弁護士も同じです。今読むと、少しずれているように感じるところもあるかと思いますが、二千年以上前の僧侶たちが、何とか教えに耳を傾けてもらおうとした苦労の跡は感じることができるかと思います。






徳法寺 〒921-8031 金沢市野町2丁目32-4 © Copyright 2013 Tokuhouji. All Rights Reserved.