![]() |
|『正信偈』学習会|仏教入門講座 | |
即横超截五惡趣9 畜生・修羅(『往生要集』より) 平成28年12月20日(火) | |
- 2017年1月18日 |
1、畜生道
畜生道には二つの場所があります。基本的には海の中に住んでいますが、一部の者は人間や天と同じ世界に住んでいます。その種類は、細かく分類すると三十四億種類にもなりますが、大きく分けると三種類に収まります。それは、鳥類・動物類・虫類の三種類です。いずれの種類であっても、食・淫・眠以外には関心がなく、たとえ肉親であっても強弱を争い、殺し合いを繰り返しています。水を飲み食事をしている時でさえ、未だかつて一度でも安らいだことがありません。昼夜を問わず、死ぬまで恐怖心から逃れることができないのです。 更に、言うまでもないことですが、水の中に住むものは漁師に捕らえられ、陸地に住むものは猟師に殺されるのです。 また、象や馬・牛・ロバ・ラクダ・ラバなどは、鉄の鉤で頭を叩かれたり、鼻に穴を空けれられたり、くつわを付けられたり、重い荷物を背負わされたりしながら、杖や鞭で叩かれるのです。それでも、ただ水や草の事だけ考えて何の不満を感じることもありません。 また、ゲジゲジやイタチなどは、暗闇の中で一生を送らなければなりません。 また、シラミや蚤などは、人間に寄生して生まれますが、人が死ぬとともに死ななければなりません。 また、竜は、三熱の苦しみを昼夜問わず受け続けなければなりません。 また、うわばみは、身体こそ大きいものの、知力がないうえに足もなく、体をくねらせながら腹で進むことしかできず、多くの虫たちに血を吸われたり身体を食べられたりするのです。 この畜生道に落ちた者は、一中劫(三百四十九京二千四百十三兆四千四百億年)の間、無量の苦を受けなければなりません。またその間、様々な縁によって幾度となく殺されなければなりません。これらの苦しみは、あまりにも多すぎて数えることすらできないほどです。愚痴・無慚のために、多くの人たちから信頼を受けていたにもかかわらず、何の償いもしなかった者がこの報いを受けるのです。 解説 いま日本で畜生というと動物のことを思い浮かべることが多いと思います。ところが『往生要集』ではもっと広い範囲を指していることが分かります。まず住んでいる場所として、人間界と天界をあげています。そして、鳥類・動物類・虫類の三種類が畜生であるとして、その種類は三十四億種にもなるといいます。地獄が罪を犯した者に責め苦を与える場所、餓鬼が目には見えないものの人間界に住む魑魅魍魎であったことをから考えると、畜生は私たちが目にすることができる人間以外の生物すべてを指すということです。ただ、人間と違うところは、畜生は食(食べること)・淫(異性と交わること)・眠(眠ること)以外に関心を持っていないということだとしています。ですから、たとえ肉親同士であっても、強弱を争い、殺し合いを繰り返しているというのです。水を飲み食事をしている時でさえも、何時自分が殺されるか分らないので、未だかつて一度も安らいだことがないという苦しい世界が畜生道です。これは、現代のペットとは違います。野生の世界であり、家畜の世界になります。畜と言う字は蓄と同義で、本来「たくわえる」という意味です。ですから、家畜とは家に蓄えられている財産です。ですから、畜生という漢字は生物を蓄財として認識しているという中国らしい言い方なのかもしれません。印度での意味は人間以外の生物という意味でした。 次にこの畜生の辛い生き様を書かれています。水の中に住む野生生物は漁師に捕らえられ、陸地に住む野生生物は猟師に狩られます。また、象や馬・牛・ロバ・ラクダ・ラバなどの家畜は、鉄の鉤で頭を叩かれたり(象です)、鼻に穴を空けられたり(牛です)、くつわを付けられたり(馬やロバ、ラクダです)して、重い荷物を背負わされ、杖や鞭で叩かれているのに、人間が餌をくれるので一生懸命に付いて行くというのです。また、ゲジゲジやイタチは、暗闇の中で一生を送らなければならないといいます。イタチとはそういう生き物であると思われていたようです。また、シラミや蚤などは、人間に寄生して生まれますが、人が死ぬとともに死ななければなりません。ここで言う竜は、インドのナーガという大蛇になります。中国の竜の原型ですが、手足や角はありません。タージマハールなどの東南アジアの仏教遺跡に行きましたら、門や参道に彫られています。身体が一本で九つの首を持つ九頭竜は福井の川の名前にもなっています。この竜は、三つの熱に何時も苦しんでいるといわれています。うわばみは、今では大酒飲みの事を言いますが、伝説上の生き物で大きなミミズみたいなものです。大蛇は頭が良いのですが、これは、愚鈍です。ただひたすら大きくて柔らかな身体を持ち、生きながらにしていろいろな生き物に身体を食われながら生きています。 これが畜生道に落ちるのは、愚痴・無慚のために、多くの人たちから信頼を受けていたにもかかわらず、何の償いもしなかった者であるといいます。愚痴とは愚かで智慧がないということですし、無慚とは後悔しない、謝らないという意味です。つまり、愚かな者とは、自分の非に気付くことのない者であるということです。どれだけ多くの人たちの助けを受けてきたのか、どれだけ多くの人たちに迷惑をかけてきたのか、このことに気づくことも無く、感謝も謝罪もなく生きている者が愚者です。決して頭の回転が悪いという意味ではありません。自分の人生だから好きに生きても構わないという生き方になります。これが畜生に近いということでしょう。でしから、これは野生生物を見下した言い方とは違います。ただ、人間として大切にしなければならないことを、畜生という言い方で示しているのです。 |
2、修羅道
修羅道には二種類があります。多くの者は須弥山の北にある巨海の底に住んでいますが、一部の劣った者達は四大州の間にある山のような巌の中に住んでいます。天との戦に明け暮れているので、雷が鳴ると天の軍隊が攻めてきたのかと思い恐れ慌てふためき、心はおののき苦しみます。実際、常に天の軍隊に攻め込まれているので、身体を傷つけられたり、命を落としたりしているのです。また、毎日三回、凶器が襲って来て身体を傷つるなど、様々な愁いや苦しみは数えることができません。 解説 『往生要集』では、修羅に関する記述はこれしかありません。ここで、何時も天との戦に明け暮れているというのは、次のような説話が仏教に伝わっているからです。 正義を司る神である阿修羅の一族は、力を司る神である帝釈天が治める世界である忉利天に住んでいました。ところが、帝釈天が阿修羅の娘である舎脂を誘拐して凌辱したため、阿修羅と帝釈天は戦いになります。四天王をはじめとする三十三天を率いる帝釈天は常に優勢に戦いを進め、阿修羅は天界を追われて人間界よりも下に逃れたといいます。 雷は天の軍勢の太鼓であるといわれます。また、人間界に天から雨が降るように、修羅界には天から武器が降ってくるのです。ただ、ここにはどのような人間が修羅界に堕ちるのかが書かれていません。 阿修羅に関する記述は経典によって様々です。『法華経』をはじめとする多くの大乗経典では、阿修羅王は四人いるとされています。『往生要集』に多く引用されている『正法念処経』では、四人の王は次の様に書かれています。 ①羅喉王・・・須弥山の北にある海底に四層になっている世界の一番上に住んでいます。時々、その手で月を遮り月食を起こすので、障月王とも言います。身長は須弥山にも匹敵する八万由旬にもなります(1由旬は七キロメートルですから、五十六万キロメートルです)。バラモンであった時に仏塔が焼き払われるのを守った功徳によってこの巨大な身体を得ましたが、善行を行わなかったために阿修羅となりました。 ②婆稚王・・・羅喉王の弟で一つ下の世界に住んでいます。他人の所有物を盗みますが後悔して、仏教以外の行者に施したために阿修羅となりました。 ③佉羅王・・・さらに一つ下の世界に住んでいます。戒律を破った病人に施しをし、仲間と共に様々な遊戯に耽ったため阿修羅となりました。 ④毘摩質多羅王・・・舎脂の父。誤った思いで行者に施し、自分のためだけに樹林を守ったために阿修羅となりました。 この経典からは、修羅道に堕ちる因がみてとれます。羅喉王はバラモンであった時に、仏塔を守るという善行をしたのに、その後は善行をしなくなった、といいます。一度行った大きな善行に胡坐をかいて、そのことを自慢するだけで後の生涯を送るものが阿修羅になるということです。 婆稚王は、盗みを懺悔して布施を行うのですが、それを仏教以外の行者にしてしまったということです。ここでいう仏教が何を意味するのかが大切です。今は仏教というと宗派というグループで考えてしまいがちですが、元々の仏教ではお釈迦様以外にも悟りを開かれた方がいるという前提があります。普遍的な真実であれば、お釈迦様以外に気が付かないということの方が不自然です。ですから、仏教とは、グループではなく、真実に気が付いた人の教えということになります。ですから、グループの名前が仏教でなくても、真実に気が付いた方は仏者ですし、逆に仏教のグループにいる方でも仏者とは言えない方もいることになります。ではどういう方が仏者なのかということになります。これは一面的には言いにくいことですが、自分以外のすべての人々を尊敬出来る教えが仏教であるといってもいいかと思います。違うグループの方も尊敬出来るようになる教えであれば、表面が違う宗教の看板をあげていても仏教です。逆に仏教の看板をあげていても、自分たちとそれ以外のグループを切り離してしまうような教えを説いているのは仏教とは言えません。あらゆるこだわりから離れるのが仏教です。せっかく懺悔したのに、人々の心を切り離してしまうような教えに布施をしてしまうと阿修羅ということになるのです。 佉羅王は、戒律を破った病人に施しをし、仲間と共に様々な遊戯に耽ったために阿修羅になりました。これも布施をしているのですが、戒律を破った病人に布施をしてしまったということです。もちろんここにある病人とは心を病んでいる人ということです。様々な遊戯と言いますから、ギャンブル依存症でしょうか。そういう人にその人の要求通りの施しをしてしまっては、かえってその人を不幸にすることになり、自分までも道を外れることになってしまいます。布施とは、相手が望むことをするということではなく、本当に相手を幸せにすることをするということです。 毘摩質多羅王は、娘を帝釈天に奪われた阿修羅です。この阿修羅は誤った思いで行者に施し、自分のためだけに樹林を守ったために阿修羅となりました。樹林というのはお釈迦様に施す安らぎの場所です。行ったことには問題がないのですが、動機が不純であるということです。自分の事だけを考えて行う親切は、どれだけ正しい行いでも、因が不純であれば果も濁ったものにしかならないのです。ただ、本人は善い行いをしたと思っていますから、孤立してしまってもその原因がわからないのです。 修羅道は善行が善行として成就しなかったあり方を示しているのです。 |
![]() ![]() |