|『正信偈』学習会|仏教入門講座
即横超截五惡趣6 地獄4 平成28年7月19日(火)
- 2016年9月1日
8、阿鼻地獄(無間地獄)・・殺生、窃盗、邪淫、飲酒、妄語、邪見、犯持戒人、五逆・誹謗正法の罪
 大焦熱地獄の下にある地獄で、欲界の底辺になります。ここに落ちる罪人は、中陰にいる時に泣き叫びながら「そこには火炎に満たされている。空中にも炎が満ちていて隙間さえない。あらゆる方角も炎が及んでいて燃えていない地面はどこにもない。その地面には悪人が溢れている。私にはすでに帰るべきところもなく、孤独で共に歩んでくれる者もいない。この地獄の闇の中で巨大な火柱の中に入るしかない。この炎しかない世界の中で、太陽や月や星さえ見ることができない。」と嘆くのです。これを聞いて閻羅人は瞋怒の心を込めて「お前はこれから八百万年以上もこの火炎に身を焼かれるのである。無知なるお前はすでに罪を作ってしまったのだ。今さら悔い改めてもどうすることもできない。これは、天や修羅や健達婆や竜や鬼がお前に罪を作らせたのではない。自らが行った悪業の網に捕らわれただけなのである。誰もお前を救うことなどできない。お前がいま受けている苦しみは大海の水のひとすくいでしかない。これから大海の苦しみすべてを受けることになる。」と叱責します。
 これを聞き終わってから地獄に向かいます。途中、まだ地獄まで二万五千由旬も離れているところから地獄の泣き叫ぶ声が聞こえ始め、恐怖は十倍に膨れ上がり悶絶してしまうのです。頭を下にして二千年落ち続けてようやく地獄に到着します(『正法念経』からの引用です)。
 この地獄の広さは、縦横ともに上の七つの地獄の八倍の八万由旬もあります。さらに七重の鉄城で囲まれ七層の鉄網で覆われています。網の下には十八の壁があり刀林に囲まれています。四隅には四匹の銅犬がいます。その大きさは四十由旬にも及びます。眼は雷のように血走り、牙は剣のように突き出し、歯は刀の山のようで、舌は鉄刺のようです。すべての毛穴からは炎が噴き出さしており、そこから漂う悪臭はこの世の中に例えるものがありません。さらにそこには十八人の獄卒がいます。頭の形は人食い鬼である羅刹のように恐ろしく、口は夜叉のように裂けています。眼は六十四もあり、そこから鉄の球が飛び出してきます。反り返った牙は四由旬もの長さがあります。牙の先端からは火が噴き出しており地獄を満たしています。頭の上に八つの牛頭があり、それぞれの牛頭に十八の角があります。その角すべてから猛火が噴き出ています。
 また、七重の城の中に七つの鉄幢があります。幢の先端からは煮えたぎった泉のように炎が躍り出て城内に流れ込み、中を炎で溢れさせています。四つの門の上には八十の釜があり煮えたぎった銅がそこから湧き出て城内を満たしています。それぞれの壁の間には八万四千の鉄で出来た蟒蛇や大蛇がいて、毒や火を噴きながら城内を埋め尽くしています。蟒蛇や大蛇の叫び声は百千の雷のようで、大きな鉄の球を雨のように城内に降らせるのです。さらに五百億もの虫が飛び回っており、その虫には八万四千の嘴があります。すべての嘴からは火が流れ出ており、雨のように降り注いできます。この虫が地面に降りてくると地獄の火はさらに激しさを増し、八万四千由旬の広さが明るく照らし出されるほどです。八万億千にわたるすべての苦がすべてこの中に集まっているのです(『観仏三昧経』からの引用です)。
 また『瑜伽論』の第四章には次の様に説かれています。東方に数百由旬離れた三熱大鉄地という燃え盛る大地から焔が吹き込んできて、この地獄の罪人を襲います。皮は破れ肉を燃やし、筋を切って骨を砕いて髄にまで至ります。それはまるでろうそくが燃えるかのようです。このように全身がことごとく炎に包まれるのです。東だけではなく、南からも西からも北からも同じように焔が吹き込んでくるのです。ですから、この地獄に落ちた罪人は常に猛焔に包まれており、ただ四方から火柱が襲い掛かって来るのを見つめるしかありません。四方からの焔は間断なく襲い掛かり罪人が受ける苦痛も絶えることがありません。苦痛のあまりあげる叫び声が聞こえるので、そこに人がいると知ることができるのです。
 また鉄の箕(み)に三熱の鉄炭を山盛りにして罪人を炙ります。また、熱した鉄の地面に罪人を置き、熱した鉄の山に登らせます。登ると下らせ、また登らせるのです。また、罪人の口から舌を出させ、百の鉄釘で牛の皮を張るように皴がないほどに張り広げます。さらに、熱せられた鉄の上に仰向きに寝かせ、熱した鉗子で口を開かせ三熱を帯びた鉄の球を入れます。すると、口から喉を焼きさらに内臓を焼いて肛門から出てくるのです(『瑜伽論』からの引用です)。前の七つの地獄とその周りの十六の小地獄すべの苦しみを合わせた千倍以上の苦しみを受けるのです。この地獄に落ちた罪人からみれば、大焦熱地獄の罪人は他化自在天で優雅に暮らしているようにしかみえません。
 地上世界や欲界の六天の者がこの地獄の臭いをかぐだけで消えてしまうほどです。それほどこの地獄にいる罪人はひどい匂いを放っているのです。この匂いがこちらに届かないのは、出山と没山という二つの大山が遮っているからです。もし人がこの地獄のすべての苦しみを聞くならば、誰もが耐えることができません。もし聞くことがあれば命を失ってしまうでしょう。ですからこの地獄の様子は千分の一も説明することができません。説明することも聞くことも例えることもできません。もし仮に説く人がいてそれを聞く人がいたならば、その人は血を吐いて死んでしまいます(『正法念経』からの引用です)。
 この地獄に落ちた罪人の寿命は、一中劫といわれます(『倶舎論』によります)。これは、人間世界の六千四百年を一日として六万四千年をさらに一日とした六万四千歳で、これを人の年月に直すと三百四十九京二千四百十三兆四千億年になります。また、別の経典では人の八千年を一日として八万年をさらに一日とした八万歳で、これを人間世界の年月に直すと六百八十二京千百二十億年になるとあります。五逆罪を犯し、因果の道理を否定し、大乗を誹謗し、四つの戒律を犯しながらも、信者からの施しを受けた者がこの地獄に落ちます(『観仏三昧経』からの引用です)。
 阿鼻地獄に付随する小地獄には次の様なものがあります。
 鉄野干食処という地獄には、罪人の身体の上に十由旬の高さの炎が上がっています。すべての地獄の中でこれが最も苦しいものです。さらに、レンガのような大きさの鉄が夏の夕立のような激しさで降って来て、まるで干し肉のように身体中がちぎれてしまいます。炎の牙をもった狐が来て、その肉に食らいつき、一時として苦しみが止むことはありません。仏像や僧侶の住まいや僧侶の寝床を焼き払ったものがこの地獄に落ちます。
 黒肚処(こくとしょ)という地獄もあります。この地獄に落ちた罪人は、あまりの飢えとのどの渇きに耐えられず、自らの身体を食らうのです。自分で自分を食らい尽くすと生まれ変わり、また自らを食らい始めるのです。黒い腹をした大蛇がいて罪人に巻き付くと、足の先から飲み込んでいきます。あるいは、猛火に入れて焼き、あるいは、鉄釜に入れて煎じて煮込まれてしまいます。無量億年の間このような苦を受け続けるのです。仏前に供えられた供物や仏具を盗んだものがこの地獄に落ちます。
 雨山聚処という地獄もあります。一由旬もの高さの鉄山が空から落ちてきて罪人をまるで砂の塊のように押しつぶします。粉々になると生まれ変わり、また押しつぶされるのです。また、十一もの火焔が罪人を囲んで焼き尽くします。また、獄卒が刀で身体を切り刻み、熱せられて融けた鉛をその傷に流し込みます。四百四種類の病気もこの地獄に溢れています。これらの苦しみを受ける年月はあまりにも長く数えることができません。縁覚の食事を奪い、他人に与えることなく自分で食べてしまった者が落ちる地獄です。
 閻婆度処という地獄もあります。そこには閻婆という象のように巨大な恐ろしい鳥がいます。嘴は鋭く炎を吐きます。罪人を捕まえると空高く舞い上がり、飛び回ってから罪人を放ちます。すると石が砕けるように粉々になってしまいます。するとまた生まれ変わり、再び鳥に捕まるのです。また、鋭い刃が道いっぱいに並んでいるところを歩かされ、足がボロボロになってしまいます。そこに炎の歯を持った犬がやって来て身体を食べてしまうのです。これが果てしなく長い間続き大きな苦しみを受けるのです。人が利用している河を堰き止めて、渇死させた者がこの地獄に落ちます(『『瑜伽論』と『倶舎論』からの引用です。一つ一つの地獄の四門の外に、それぞれ四つの小地獄がありますから、合わせると十六になります。正法念経』に説かれている八大地獄とそれぞれの十六小地獄とは名前やその様子が異なっています)。
 これ以外に、頞部陀地獄などの八寒地獄があります。経論に詳しく説かれていますが、これをいまここで説明する余裕がありません。

解説
 今回の阿鼻地獄(無間地獄)は、一般的に地獄の最下層といわれている、最も恐ろしい地獄です。日蓮上人が「念仏無間」と「念仏の教えは無間地獄におちる」と非難したことでも知られています。また慣用句として、非常に悲惨な状態を表す「阿鼻叫喚」という言葉にも使われています。『往生要集』に書かれている地獄の中では、最も長い引用となっています。
 その中でも特に有名なのがこの地獄に落ちる前に、罪人が中陰で泣き叫びながら嘆いている「私にはすでに帰るべきところもなく、孤独で共に歩んでくれる者もいない。」という部分です。この地獄に落ちる者は、今までの罪に五逆・誹謗正法の罪を更に重ねた者です。五逆の内容についてはいくつかありますが、最も知られているのは、父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す・仏の身から血をい出す・僧伽の輪を乱す、の五つの罪です。父母を殺すということは、家族を自らの手で無くするということです。阿羅漢を殺す・仏の身から血をい出す・僧伽の輪を乱す、というのは、いずれもお釈迦様の時代に起こったとされる故事に由来していますが、これを特定の出来事ではなく普遍的な罪とするならば、社会の中で自分が最も大切にしなければならない場所を、自らの手で壊してしまうという罪になります。
 誹謗正法の内容は「因果の道理を否定し、大乗を誹謗し、四つの戒律を犯しながらも、信者からの施しを受けた者」と書かれています。つまり、単に仏教を否定したということではなく、仏教の僧侶でありながら、仏教を否定し誹謗し戒律を破り、しかも信者からの施しを受けているということです。仏教と対峙する他の宗教であるというのであれば何の問題もないのです。仏教教団に属しながらも否定し、しかも生活を信者に依存しているということでなれば、自分自身の居場所を自らが壊していることになります。
 ですから、帰る場所がなくなる、孤独になる、というのは、五逆・誹謗正法という罪によって自ら招き入れてしまう罰ということです。これが閻羅人の言う「天や修羅や健達婆や竜や鬼がお前に罪を作らせたのではない。自らが行った悪業の網に捕らわれただけなのである。」ということです。そしてこれは「誰もお前を救うことなどできない。」罪でもあるのです。そして、帰る場所がない、孤独になる、ということが、人間にとって最も恐ろしい状態なのです。逆に言えば、どれだけ辛くても、帰る場所がある、共に歩んでくれる人がいる、というだけで、その辛さに耐えて人間は生きていけるということです。そのような状態になると、人間は責任を他に押し付けようとします。社会が悪い、親が悪い、友人が悪いなどです。これを「天や修羅や健達婆や竜や鬼がお前に罪を作らせたのではない。」と切り捨てるのです。どれだけ言い訳しようが、自分の行ったことを無かったことにはできないのです。
 さらに、自分に先立ってこの地獄に落ちている者達の叫びを聞かされ、地獄に突き落とされ二千年間落下し続けるのです。実際に地獄の責め苦を受ける前に、いかにその責め苦を受けることが恐ろしいかを想像させ苦しめるということです。これは、この地獄を方便として考えた僧侶たちの思いそのものです。恐ろし地獄の姿を想像させることで、人々に悪業を思いとどまらせようとしたのも、人間は想像力からの恐怖に弱いからです。
 この後は、北欧神話に出てくるガルムのような犬や眼が64個も有る鬼のような獄卒、大蛇、蟒蛇、巨大な虫など、当時の僧侶たちが想像できる限界の恐ろしい姿が描かれます。このことは、当時のインドで、五逆・誹謗正法ということが現実に起こっていたことを意味しています。起こってもいないことを止めようとするはずがないからです。では今ではそのようなことが無くなったかと言えは、そうではありません。確かに仏教団体同士の教義による対立はあまりまりません。ただし、職業化している僧侶はいつの時代でも仏教の主流として続いています。地獄の方便も僧侶には通用しないようです。
 この地獄にある小地獄のうち、仏像や僧侶の住まいや僧侶の寝床を焼き払ったものが落ちる「鉄野干食処」、仏前に供えられた供物や仏具を盗んだものが落ちる「黒肚処」、縁覚の食事を奪い、他人に与えることなく自分で食べてしまった者が落ちる「雨山聚処」は、僧侶や寺院、庫裏に対する犯罪です。これが仏教教団内部の犯罪なのか、外部からの犯罪なのかはわかりませんが、このようなことが当時行われていたことが分かります。仏教はインドでは新興勢力でしたから、これを快く思わない者がいたとしても不思議ではありません。ただ、この地獄の罪の性格からすると、教団内部でこのようなことが行われた可能性もあります。
最後の小地獄「閻婆度処」は、明らかに罪の内容が他とは異なっています。「人が利用している河をせき止めて、渇死させた」罪となると、五逆・誹謗正法とは何のつながりもありません。ただこの罪をこの地獄の小地獄に持ってきたということは、当時のインドの人々にとって、水がどれほど大切なものであったかということでしょう。日本のように水資源の豊富な国でも、水泥棒は重罪でした。まして、乾季ともなると全く雨が降らないインドでは五逆・誹謗正法に匹敵する罪であると考えたのでしょう。

9、親鸞聖人の地獄観
 親鸞聖人は、ほとんど地獄を語りません。これは、以前の浄土教が人々に悪行を思い止まらせるために地獄極楽を説いていたのに対して、親鸞聖人は大きな悪行ほど大きな徳に転じさせるのが念仏であると説いたために、地獄の恐ろしさを説く必要がなかったためです。
そのような親鸞聖人ですが、和讃に二首だけ地獄をうたったものがあります。
 衆生有碍のさとりにて 無碍の仏智をうたがえば 曾婆羅頻陀羅地獄にて 多劫衆苦にしずむなり(浄土和讃)
 念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうとぞときたまう(正像末和讃)
 「曾婆羅頻陀羅地獄」とは、左訓に「無間地獄の衆生をみては、あら楽しげやとみるなり。仏法を謗(そし)りたるもの、この地獄に落ちて八万劫住す。大苦悩を受く」とありますように「無間地獄」よりもさらに下にあると『無量寿仏名号利益大事因縁経』に説かれている地獄です。ただし、親鸞聖人がこの地獄の罪としておられるのは「衆生有碍のさとりにて 無碍の仏智をうたがえば」、「念仏誹謗の有情は」と「念仏などで救われるはずがない」という一点です。しかも「落ちる」とは言わず「しずむ」、「堕在」といいます。これは、念仏を疑っていることで、苦しみの状態から抜け出すことができない、ということです。つまり、脅しとしての地獄ではなく、現在を地獄として認識して、そこから救われるための念仏となります。同じ地獄でありながら、使われ方、意味がまるで違ってきています。真宗寺院にほとんど地獄図がないのはこのためです。

10、その他の地獄
 地獄が考えられた時点では、何の一貫性もありませんでしたが、時代と共に整理されてきました。その中で、特に八大地獄が用いられるようになりますが、これが灼熱地獄であるため、対局の寒冷地獄もあるはずであるということで、八寒地獄も作られます。
 (ア) 頞部陀(あぶだ)地獄。寒さのあまり鳥肌が立ち、身体にあばたを生じる。
 (イ) 刺部陀(にらぶた)地獄。鳥肌が潰れ、全身にアカギレが生じる。
 (ウ) 頞听陀(あただ)地獄。寒さのあまりに「あただ」と悲鳴をあげる。
 (エ) 臛臛婆(かかば)地獄。寒さのあまりに「かかば」と悲鳴をあげる。
 (オ) 虎々婆(ここば)地獄。寒さのあまりに「ここば」と悲鳴をあげる。
 (カ) 嗢鉢羅(うばら)地獄(青蓮地獄)。全身が凍傷のために青い蓮のようにめくれあがる。
 (キ) 鉢特摩(はどま)地獄(紅蓮地獄)。鉢特摩は蓮華のこと。酷い寒さにより皮膚が裂けて流血して、紅色の蓮のようになる。
 (ク) 摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄(大紅蓮地獄)。摩訶(まか)は大という意味。
これが大雑把に思われるのは、インド人には熱い地獄は想像できても、寒い地獄を考えることができなかったためです。これら以外にも、多くの経典で様々な地獄が説かれています。






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