|『正信偈』学習会|仏教入門講座
即横超截五惡趣3 地獄1 平成28年4月19日(火)
- 2016年6月2日
 『往生要集』に書かれている地獄は、地獄の中でも「八大(八熱)地獄」と言われている地獄と、その八大地獄の四面にある門の外に各四つの小地獄(十六遊増地獄、四門地獄、十六小地獄)です。これ以外にも八熱地獄の横に八寒地獄または十地獄が、山間廣野などに散在する孤独地獄などがあります。今回から「八大(八熱)地獄」を主に『往生要集』によって一つずつ見ていきます。
1、等活地獄(想地獄)・・殺生の罪(人だけではなく虫も含む一切衆生が対象)

 最初の地獄である等活地獄は、私たちが住んでいるこの閻浮提の地下一千由旬(一由旬は約七km、世界の中心にあるという須弥山の高さは八万由旬)のところにある地獄で、縦横共に一万由旬の広さがあります(この広さは七番目の大焦熱地獄まで同じです)。
 この地獄の罪人は、いつも誰かに危害を加えたいと思っているので、罪人が他の罪人と出会うと、まるで猟師が鹿に出会ったかのように、互いに鉄の爪で切り裂き合うのです。その争いは、互いの血肉がすべて失われ、骨だけの姿になるまで止むことはありません。
 あるいは手に鉄杖や鉄棒を持った獄卒によって頭から足の先に至るまで叩き潰されます。身体はまるで砂の塊が砕かれるように、粉々になってしまいます。
あるいは、極めて鋭利な刀によって、まるで料理人にさばかれた魚のように、全身の肉が切り分けられてしまいす。そこに涼風が吹いたり、空から「この諸々の有情、また等しく復活すべし(等活)」という声がしたり、獄卒が鉄叉(てつしゃ、かなまた)で大地を打ち「活きよ、活きよ」と唱えたりすると、再び生き返って同じ責め苦が繰り返されます。(これらのことは『智度論』『瑜伽論』『諸経要集』から引用しています)
 人間世界の五十年が六欲天の初天である四天王天の一日で、四天王天の寿命が五百歳です。この四天王の一生がこの地獄の一日で、この地獄に落ちた罪人の寿命は五百歳です。これを人間世界の年月に直すと一兆六千六百五十三億千二百五十万年になります。殺生の罪を犯した者がこの地獄に落ちます。(この寿命については『倶舎論』に、この地獄に落ちる業因は『正法念経』から引用しています。これ以降の地獄についても同様です)『優婆塞戒経』では四天王の1年がこの地獄の1日になるとしています。これは以降の地獄でもこれに準じています。
 等活地獄に付随する小地獄には次の様なものがあります。
 屎泥処は熱せられた糞尿の地獄です。この糞尿は恐ろしく苦く、またこの糞尿の中にはダイヤモンドの嘴を持った虫が溢れています。罪人はこの糞尿を食わされます。そこに虫が集まって来て、競って罪人に食いつきます。そして、皮を破り肉に穴をあけて骨を砕いて髄をすするのです。鹿や鳥を殺した者が落ちる地獄です。
 刀輪処は高さ十由旬の鉄の壁に囲まれた地獄です。中には猛火が充満しています。人間世界の火など、この地獄の火に比べれば雪のようなものです。この火にわずかに触れただけで、身体は芥子粒のように砕け散ってしまうのです。さらに、空からは溶けた鉄の雨が降り注いできます。また刀でできた林もあり、そこでは空からも両刃の剣が降り注いでいます。様々な苦が休むことなく襲って来て、とても耐えることなどできません。欲得に駆られて殺生をした者が落ちる地獄です。
 瓮熟処(おうじゅくしょ)という地獄では、罪人は鉄の釜に入れられて、まるで豆のようにカラカラになるまで炒られます。殺生したものを煮て食べた者が落ちる地獄です。
 多苦処という地獄には、十千億種無量の苦しみがあり、一つ一つ説明することができません。縄で人を縛ったり、杖で人を叩いたり、人を追い立てて長い距離を走らせたり、崖から人を突き落としたり、煙で燻して人を悩ませたり、子供を怖がらせたりした者が落ちる地獄です。
 闇冥処とは暗闇の中で闇火(やみび)が燃え盛っている地獄です。猛烈な風がダイヤモンドで出来た山に吹き付け、擦れ砕かれた破片が砂を散らすように飛び散っています。これが鋭利な刃物のようになって、熱風と共に罪人を襲うのです。羊の口と鼻をふさいで殺した者や、亀を二つの煉瓦で押し潰して殺した者が落ちる地獄です。
 不喜処という地獄では、大火炎が昼夜を問わず燃え盛っています。炎の嘴を持った鳥や野犬や狐が恐ろしい声で鳴いて罪人を怖がらせます。そして、常に罪人を襲っては食らいついてくるのです。さらに、ダイヤモンドの嘴を持った虫が、罪人の骨の中を行き来して髄を食らいます。貝を吹き鳴らし、鼓を叩いて鳥や獣を驚かして追い込み、狩をした者が落ちる地獄です。
 極苦処という地獄は、険しい山の下にあり、罪人は融けた鉄から立ち上る炎で常に焼かれます。遊び半分で殺生をした者が落ちる地獄です。(以上は『正法念経』からの引用です。これ以外の小地獄については教の中に説かれていません)

解説
 ここにあるように、地獄は城郭に囲まれています。つまり、地獄を考えた僧侶たちは、地獄を一つの世界としてではなく受刑場として考えていたようです。この塀に囲まれた受刑場の中で、殺生の罪を犯した者同士が互いに殺し合うのが「等活地獄」です。しかも他の罪人を見つけると「まるで猟師が鹿に出会ったかのように」喜び勇んで殺しに行くというのです。ここに「獄卒」とあるのが、一般には地獄にいる鬼と言われているものです。実際には鬼ではなく刑の執行官ということになります。鬼はこの後に出てきますが、人肉を食らう魑魅魍魎のことになります。いずれにしても、ユダヤ教系宗教の地獄のような悪魔が支配する世界ではありません。仏の管轄下にあり、悪い事をした人を懲らしめる為の場所です。この後も様々な罪人に対する刑が書かれていますが、いずれも当時の僧侶たちが想像しうる範囲のものです。この地獄の獄卒が鋭利な刀で罪人を切り刻む様子も、魚をさばく様子から想像したものでしょう。この地獄で殺された罪人は、「この諸々の有情、また等しく復活すべし(等活)」という言葉によって何度も生まれ変わります。このことから「等活地獄」といいますが、これはこれ以降の地獄にも共通しています。仏教では人間界の上に天界があり、その上に仏がいると説かれていますが、この天界が六段階に分かれています(六欲天)。その中の一番下にあるのが四天王天です。人間の五十年が四天王天の一日と同じ長さです。信長が「人間五十年・・」と舞ったと言われますが、この「人間」は「にんげん」ではなく「じんかん」のことで、人間の時間という意味になります。つまり、人間の五十年とはいっても、四天王天にとってはわずか一日でしかないという意味になります。この四天王天の寿命が五百歳で、これがこの地獄の一日になります。この地獄に落とされた罪人は五百年間この地獄から出ることはできませんから、これを人間の時間に直すと、懲役一兆六千六百五十三億千二百五十万年となります。
 この「等活地獄」の外にある小地獄の一つ「屎泥処」は鹿や鳥を殺した者が落ちるとあります。これは、人が食用に飼っている家畜以外の野生動物を殺すことを戒めたものでしょう。次の「刀輪処」は欲得に駆られて殺生した者が落ちるとあります。食用の家畜であっても、商売としての飼育を戒めたものでしょう。次の「瓮熟処」はです。この罪人は鉄の釜に入れられて、豆のようにカラカラになるまで炒られる。カシャカシャカシャカシャと。ここは殺生した家畜を煮て食べた者が落ちるとあります。今ではわかりにくいのですけれども、当時は焼いて食べることが一般的だったのでしょう。今でも南アジアから中東にかけては串焼きが多くみられます。ですから、煮て食べるということは残酷に思えたのかもしれません。「多苦処」は縄で縛ったり、杖で叩いたり、追い立てて長い距離を走らせたり、崖から突き落としたり、煙でいぶしたり、子供を怖がらせたりした者が落ちる地獄です。この地獄は殺生の罪を犯した者が落ちるのですから、縛ったうえで殺したり、棒でたたいて殺したり、馬などを無理に走らせて殺したり、後は崖から突き落として殺したり、煙で燻して殺したり、子供を怖がらせて殺したりということでしょう。「闇冥処」は羊の口と鼻を塞いで殺した者がおちます。イスラム教でも、家畜を殺すときは鋭い刃物で首の頸動脈を切って殺すように決められています。これは家畜が苦しまないようにということです。さらに、亀を二つの煉瓦で押し潰して殺した者も落ちます。当時このようにして亀を殺して食べていたのでしょう。「不喜処」は貝を吹き鳴らし鼓を叩いて、鳥や獣を驚かせて狩りをした者が落ちます。このような、野生動物を追い込む猟が当時行われていたのでしょう。「極苦処」は遊び半分で殺生した者が落ちます。いずれも当時の僧侶が目にし、止めた方が好ましいと思われた殺生が具体的に書かれています。ただし、罪の内容と受ける刑の内容には関連性は無い様です。



2、黒縄地獄・・殺生、窃盗の罪

 等活地獄の下にある地獄です。獄卒は罪人を捕らえて、熱く焼けた鉄の地面に押し倒し、熱く焼けた鉄縄で縦横に身体を打ち据えます。さらに熱く焼けた鉄斧でその傷跡にそって切り裂きます。あるいは、のこぎりで身体を解体し、あるいは刀で殺した後で、百千の肉片にしてあたりに散らかします。
また、熱した鉄縄を無数に吊して、その中に罪人を追い込みます。すると強い風が吹き、その縄が罪人に絡みつくのです。肉は焼かれ骨は焦がされその苦しみは尽きることがありません。(これらのことは『瑜伽論』『智度論』から引用しています)
 また、左右に大きな鉄の山があり、それぞれの山上に立てた鉄幢(てつのはたほこ)の間に鉄の縄が張られています。この下には多くの熱せられた釜が置かれています。罪人は追い立てられて、山のような鉄を背負わされてこの縄の上を渡ります。すると縄から釜の中に落ち、砕けちって煮られるのです。(これらのことは『観仏三昧経』から引用しています)
 ここで受ける苦しみは、等活地獄とその周りの十六の小地獄の苦しみを合わせたものの十倍にもなります。獄卒は罪人に「心が最もお前を苦しめる。そして一番の悪業である。この悪業がお前を縛って、閻羅のところに送り込んだのである。お前は一人で地獄の業火に焼かれ、その肉を食われるのである。妻や子供、兄弟らの親族がどれだけ努力しようともおまえを救うことはできない。」と告げます。
 この後の五つの地獄は、それまでのすべての地獄とその周りの十六の小地獄の苦しみを合わせたものの十倍も重いものとなるのは、この地獄の例えと同じです。
 人間世界の百年が六欲天の第二天である忉利天の一日で、忉利天の寿命は千歳です。この天の一生がこの地獄の一日で、この地獄に落ちた罪人の寿命は千歳です。これを人間世界の年月に直すと十三兆三千二百二十五億年になります。
 黒縄地獄に付随する小地獄には次の様なものがあります。
 等喚受苦処では、高い所から熱炎の鉄縄に縛られた状態で、鋭い鉄の刃が建てられた熱い地面に向って突き落とされます。そこを鉄炎の牙をもった犬に食われ、身体はバラバラにされるのです。どれだけ助けを呼ぼうとも誰も救ってくれる者などありません。この地獄は誤った教えを説法した者や、後のことも考えずに投身自殺した者が落ちる地獄です。
 畏熟処では、獄卒が杖を振りかざして打ち付けながら罪人を追いまわすので、昼夜を問わず走り続けなければなりません。また、手に火炎鉄刀を持つ者や矢を弓につがえた者が後ろから追いかけてきて、切り付け射たりします。欲に駆られて、人を殺したり人を縛って、食物を奪った者が落ちる地獄です。(これらのことは『正法念経』の文を省略して引用しています)

解説
 この地獄は、殺生に加えて窃盗の罪を犯した者が落ちる地獄です。「黒縄地獄」と言うのですから、刑の内容に縄を用いるものが多くあります。刑の内容は見ての通りですが、ここに獄卒が罪人に対して説教をする場面があります。「心が最もお前を苦しめる。そして一番の悪業である」というものです。
 仏教では「身口意三業」と、行い(業)を三つに分けます。身業とは実際に行うことです。ですから身業の罪とは人を殺すとか盗むということになります。口業とは言葉にするということです。ですから口業の罪とは、殺してやるとか盗んでやると口にすることです。意業とは心に思うということです。ですから意業の罪とは、殺してやりたい、盗みたいと思うということです。このなかで意業が最も重い罪であるというのです。矛盾するようにも思えますし、社会の法律とは一致していません。ただ、殺そうとは思っていなくても殺してしまうことや、盗もうと思っていなくても盗んでしまうこともあるのです。事故などがそうです。実際に殺さなくても、殺してやると伝えることで相手を不安に陥れることもあります。いたずらで爆破予告や殺人予告をする事件もあります。実際に殺さなくても、また、口にしなくても、殺してしまいたいという思いが起こったとしたら、それは偶然でもいたずらでもなく悪意そのものです。その人の一番恐ろしいところが出るのが、行動でも言葉でもなく心なのです。その、殺してやりたい、盗みたいという心が、その人自身も苦しめるのです。殺したいほど憎む人がいると、その人のことを考えるだけで眠れなくなります。まして、その人に会うと平静ではいられません。結局自分が苦しむのです。もし、殺したいほど憎い人が周りにたくさんいたとしたら、それこそ地獄でしょう。ですから、獄卒は「この悪業がお前を縛って、閻羅のところに送り込んだのである」と告げるのです。
 「妻や子供、兄弟らの親族がどれだけ努力しようともおまえを救うことはできない」とは、地獄より軽い刑の場合、親族などの追善供養で、罪人の刑を軽くすることができるのですが、地獄に関してはそのような情状酌量の余地がないということです。
 この地獄の小地獄の「等喚受苦処」は誤った教えを説法したものが落ちるといいます。これは窃盗とは結び付きにくいかもしれませんが、偽りの教えで布施や寄進を受けるということは詐欺にあたります。これを窃盗に入れるのです。また、後の事を考えずに投身自殺した者も落ちます。仏教では自殺そのものは罪ではありません。ただ、責任逃れのために、残った者のことも考えずに自ら命を絶つことは罪になります。これが窃盗になるのです。分かりにくいのですが、その人の死によって、残った妻子の人生も奪われることになります。これは次回に説明しますが、この地獄に落ちるのは成人の男性だけですから、女性や子供の自殺は想定されていません。「畏熟処」は、欲に駆られて人を殺したり、人から食べ物を奪った者が落ちる地獄です。今でいえば強盗殺人になります。殺人は多くの場合憎しみが原因となります。そこには何らかの関係性があったのです。無差別殺人でさえも、社会に対する不満など、やはり社会との関係性が問題になります。それにたいして、強盗殺人は個人的な欲望のために相手との関係性がない中で行われる殺人になります。こちらの方がより深い罪であると考えたのでしょう。






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