|『正信偈』学習会|仏教入門講座
即横超截五惡趣、1-横超(二双四重) 平成27年12月15日(火)
- 2016年1月31日
 即ち横に五悪趣を超截す、1-横超(二双四重)

 親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中で、この部分を次のように解説をされています。

「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。即横超は、即はすなわちという、信をうる人は、ときをへず、日をへだてずして正定聚のくらいにさだまるを即というなり。横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、他力には義のなきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり。このゆれに、おのおののはからうこころをもったるほどをば自力おいうなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。『尊号真像銘文』

 ここには「横超」と「五悪趣」という大切な言葉が二つ出てきます。今回は「横超」についてみていきます。この「横超」という言葉は「正信偈」の中に「光闡横超大誓願」と、天親菩薩を讃嘆しているところにもう一度出てきます。ただし、この「横超」という言葉を天親菩薩が使っているわけではありません。善導大師の『帰三宝偈』に「共に金剛の志を発して 横に四流を超断し、弥陀界に願入して、帰依し合掌し礼したてまつれ」とあるところから親鸞聖人が用いた言葉です。ここにある「四流」とは「四暴流」の略で、欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流の四つの煩悩を暴流に喩えたものです。これに『仏説無量寿経』にある「常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん」の「超出」を合わせて、竪と横、超と出の組み合わせで「二双四重」と言われる分類をしています。これは『愚禿鈔』に次のように詳しく説明してあります。

聖道浄土の教について、二教あり。
 一には大乗の教、二には小乗の教
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、二には漸教なり。
 頓教について、また二教二超あり。
  二教とは、
   一には難行 聖道の実教なり。
   いわゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
   二には易行 浄土本願真実の教、
   『大無量寿経』等なり。
  二超とは、
   一には竪超
      即身是仏、即身成仏等の証果なり。
   二には横超
      選択本願、真実報土、即得往生なり。
漸教について、また二教二出あり。
  二教とは、
   一には難行道 聖道権教、法相等歴劫修行の教なり。
   二には易行道 浄土要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
  二出とは、
   一には竪出 聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出 浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教 一に麟喩独覚 二に部行独覚
 二には声聞教 初 果 預流向
        第二果 一来向
        第三果 不還向
        第四果 阿羅漢向、八輩なり。
 ただ阿弥陀如来選択本願を除きて已外、大小・権実・顕密の諸教、みなこれ、難行道・聖道門なり。また易行道・浄土門の教、これを浄土回向発願自力方便の仮門と曰うなり。知るべしと。  
 ここで親鸞聖人は、まず仏教を「大乗」と「小乗」に分けています。この内「小乗」に「二教あり」として「縁覚教」と「声聞教」に分けています。縁覚とは師を持たず自分の努力だけで悟る者のことで「麒麟独覚」とは一人で修行する者「部行独覚」とはグループで修行する者です。師を持たないのですから、当然お釈迦様の弟子ではありません。お釈迦様に師事しなくても、お釈迦様と同じ悟りを得る人はいるはずです。同じ悟りであれば同じ教えになりますから、お釈迦様の弟子ではなくても仏教になります。これを「縁覚教」といいます。しかしお釈迦様にも師がいらっしゃいましたから、師を持たずに悟にはお釈迦様以上の才覚が必要となります。ですから、このような人は理論上いるかもしれないというだけで実際には存在しませんし「縁覚教」も可能性があるというだけです。
 もう一つの声聞とは師に教えを受けて悟る者のことで、お釈迦様の直弟子方を指しますから「声聞教」は実際に存在した教えです。最高位の阿羅漢に至るまで四つの段階に分かれ、それぞれに過程の段階(向)と達成した段階(果)があるため八つに分けられます(八輩)。五百羅漢や十六羅漢として後世にまで阿羅漢の名前は伝えられていますが、お釈迦様が入滅してからは阿羅漢になる者はいなくなりました。これは、直接お釈迦さまから教えを受けることが出来なくなったということもありますが、お釈迦様が入滅した後も教えを受け継いだ弟子たちがさらに仏教を探求していったために、悟りに求められるレベルが非常に高くなってしまったためです。例えば初期には三つほどしかなかった煩悩が次第に増えて、百八にまでなってしまったということがあげられます。一般的な学問や技術は積み重ねることにより、時代とともにより高度なものへと進化してきます。ところが仏教は理論だけは進化してきますが、それを体現する個人はいつもゼロから始まるので、仏教理論の進歩は仏になることを限りなく不可能なものにしてしまったのです。「小乗」とは、まず自分が悟りを開いてから大衆を導くという教えですから、阿羅漢になることが出来なければ誰も救えないことになってしまいます。そこで、自分が悟りを開く過程で大衆を救っていこうという教えが生まれます。これが「大乗」です。そして、悟りを開く過程にある者を菩薩といいました。ですから「小乗」とは「声聞教」のことで、初期の仏教といえます。
 親鸞聖人は「大乗」を四つの教えに分け、それぞれに「竪」・「横」と「超」・「出」の名前を付けていらっしゃいます。「出」とは「漸教」といいますから、ゆっくり歩む仏教ということです。「竪」とは自らの力で悟りを得る道で「竪出」の仏教として法相宗をあげていらっしゃいます。法相宗とは唯識という学問を学ぶ仏教の一派で、天親菩薩らによって教義として整えられ、三蔵法師玄奘によって中国に伝えられました。日本では奈良の興福寺・薬師寺・法隆寺・京都の清水寺などが有名です。この教えを極めることは一生をかけても極めて困難であるため、菩薩として仏に近づいていく歩みに価値を見出している教えです。すこしでも仏に近い存在となることを目的としている教えといえます。
 「横」とは阿弥陀如来の願力により往生を得るもので「横出」として『仏説観無量寿経』で説かれている定散・三福・九品をあげています。『教行信証』ではこれ以外に『仏説無量寿経』で説かれている三輩もあれられていますが、いずれも阿弥陀如来に救われる者に求められている様々な善行になります。つまり、阿弥陀如来の願力によって救われるには、阿弥陀如来の意に叶う者になる必要があるということです。その努力の結果が知らされるのが臨終の時です。どのような来迎を受けるかで、その人の一生が判断されます。どのくらい阿弥陀如来の意に叶ったかによりいくつかの段階に分かれます。それが、三輩であり九品です。少しでも意に叶った者になるために、日々精進して生きることに仏教の意味を見出している教えといえます。
 こうしてみますと「竪」と「横」の違いこそありますが「出」の教えは、仏になることよりも、仏に近づくことを目的としている仏教といえます。これは「大乗」になって、仏教がさらに高度に理論化されていったために、阿羅漢同様、初期大乗のころにはいた菩薩にさえもなれなくなってしまったためです。阿羅漢にも菩薩にもなれない中で、仏教は仏に近づくことそのものを目的としていったのです。そして、近づいた度合いに応じた段階が設定されることになったのです。
 これに対して「超」とは「頓教」といいますから、近づくのではなくすぐに結果を得ることが出来る仏教ということです。「竪超」として仏心宗(禅宗)・真言宗・法華宗・華厳宗があげられています。そして救われる姿として「即身是仏」と「即身成仏」があるといいます。「即身是仏」とはこの身がこのままで救われていることを悟というもので、すべての衆生は本来仏であるという「本覚思想」が有名です。ですから、仏になるというのではなく、仏であることに気づくということです。「即身成仏」とはこの身をもって仏となるということで、弘法大師空海が生きながらミイラになったことで知られています。この人生で仏にならなければ仏教の意味がないという、一種の原点回帰の教えですが、その分だけ体得することは極めて難しいものとなっています。
 そして、親鸞聖人が「横超」として示されているのが浄土真宗です。 「横超」が他の三つと異なっているのが菩提心です。「竪出」と「竪超」は仏になりたいという心は同じです。「横出」も阿弥陀如来の願力を借りるものの、仏になりたいと思う心はやはり同じなのです。この仏になりたいという心を菩提心といいます。菩提心を持つ以上、仏になるための努力や仏に認められるための努力は必須となります。これを自力といいます。ですから親鸞聖人は「横出」を「他力の中の自力の菩提心なり」(『教行信証』)とおっしゃっています。これに対して「横超」の菩提心は「願力回向の信楽、これを「願作仏心」と曰う。」(『教行信証』)と、菩提心を阿弥陀如来の「一切衆生を仏にしたい」という心であるとしています。しかも「品位階次を云わず、一念須臾の傾に速やかに疾く無上正真道を超証す」(『教行信証』)と、近づいて行くという歩みではなく、一気に「超証」するというのです。しかし、これは仏になるということではありません。親鸞聖人は竪の仏教を「入聖得果」というのにたいして、横の仏教を「入聖証果」とおっしゃっています(『教行信証』)。つまり、仏になるというのではく、仏を証明する仏教であるというのです。「本願を憶念して自力の心を離るる」(『教行信証』)ことがこの証明になります。これを「他力には義のなきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり。」とおっしゃっているのです。そして、そのような者を「正定聚」というというのです。この「正定聚」こそが、親鸞聖人の見出された救われた姿になります。
 親鸞聖人がこのように仏教を分類したのは、そこに正邪を言いたかったのではありません。すべてが必要であった仏教の歩みであるのです。二千年近い時を経て、ようやく親鸞聖人のところまでたどり着いたということです。もちろん、親鸞聖人が亡くなられて七百五十年もたっていますから、この間にも真宗は時代に合わせて変化し進化しています。これは宗教として生きている証拠です。このような仏教史観を親鸞聖人は「横超」という言葉で表されているのです。







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