|『正信偈』学習会|仏教入門講座
摂取心光常照護 平成27年6月16日(火)
- 2015年7月22日
 
摂取の心光、常に照護したまう


 親鸞聖人は善導大師の『観念法門』にある「彼仏心光 常照是人 摂護不捨」という言葉からこの一節を作られています。このことは親鸞聖人が『尊号真像銘文』の中で、善導大師のこの一文に次のような解説をされていることからうかがうことができます。

 「彼仏心光 常照是人」というは、彼はかのという。仏心光は無碍光仏の御こころともうすなり。常照は、つねにてらすともうす。つねにというは、ときをきらわず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人をばつねにてらしたまうとなり。てらすというは、かの仏心のおさめとりたまうとなり。仏心光は、すなわち阿弥陀仏の御こころにおさめたまうとしるべし。是人は、信心をえたる人なり。つねにまもりたまうというは、天魔波旬にやぶられず、悪鬼悪神にみだられず、摂護不捨したまうゆえなり。「摂護不捨」というは、おさめまもりてすてずとなり。

 これを、親鸞聖人の玄孫にあたる存覚上人が『六要鈔』で次のように解説しました。

 心光と言うは此れ光に身相・心想を分つてその体各別なるにあらず、ただ義門に就いて宜しくその意を得べし、仏の慈悲摂受の心を以って照觸するところの光これを心光と名く、是れ念仏の行仏心と相応す、その仏心は慈悲を体となす。

 ここで存覚上人は「心光」以外に身相の光もあると言っています。これを受けて、本願寺では「心光」は阿弥陀如来の大慈悲心から放たれる光明であり、阿弥陀如来の御心に適った者だけを照らす光であり、阿弥陀如来の身相から放たれる光明を「色光」(または「調熟の光明」)として、信心をまだ得ていない者を育てる光明であると解釈し伝承されてきました。しかし、親鸞聖人も善導大師もそのようなことは言っていません。「仏心光」という言い方で、浄土の教えの救済のかたちを具体的に述べているのです。
 「常照」の「常」を親鸞聖人はここで「ときをきらわず、日をへだてず、ところをわかず」と、正しく絶えることのない状態であると述べています。これに対して、おなじ「つね」でも「恒」には『一念多念文意』の中で次のような解説をなさっています。

「恒」はつねにという、「願」は、ねがうというなり。いま、つねにというは、たえぬこころなり。おりにしたごうて、ときどきもねがえというなり。いま、つねというは、常の義にはあらず。

 これによると、「恒」はいつも心の中にはあるものの、折りに触れて時々現れるという「つね」ですから、日常で私たちの側が使っている「いつでも」という意味の「つね」です。たとえば「あの人はいつでも同じことばかり言っている」という「いつでも」です。これに対して「常」は、時間や場所を問わない「つね」ですから、私たちが意識を向けた時には、いつでもどこでも必ずそこにあるという、私たちに向けられた「つね」です。たとえば「いつでも大地は私を支えてくれている」という「いつでも」です。ここでは「常」ですから、私たちが気付いた時にはすでに「照」らされていたこということです。この「照」とは「かの仏心のおさめとりたまうとなり」ですから、私が阿弥陀如来の慈悲の対象となっているということです。前回の節で親鸞聖人が浄土教の救済対象を、仏に成る可能性を生まれながらに持っていないという「一闡提」にまで広げたこと述べました。ですから「照」される対象はすべての衆生ということになります。これが、すべての衆生を救いとり、誰一人として見捨てることのない「摂取不捨」です。この言葉は『仏説観無量寿経』の「第九真身觀」というところに「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」と説かれているところから来ています。この「摂取不捨」が浄土教のいう「往生」という救いの形です。これに対して、それまでの仏教は「成仏」が救いの形ですから、可能性としては多くの人に開かれているように思えても、実際に救われるのは、ごく一部の人に限られてしまいます。親鸞聖人にとっての「往生」は、たとえ「一闡提」であったとしても、そのままの状態で受けいれられるということですから、闡提が菩薩に変化するという意味ではありません。
 さらに、ここで親鸞聖人は、善導大師の文にはなかった「護」という言葉を「照」の後に続けます。『親鸞聖人は「摂取不捨」の中に「おさめまもりてすてずとなり」と、「まもる」という意味を見ています。そして「護」の内容として「天魔波旬にやぶられず、悪鬼悪神にみだられず」と述べておられます。「天魔波旬」とは仏道修行を妨げる者として経典に登場する魔です。「悪鬼悪神」とは仏教以外の考え方ですから、親鸞聖人のいう「護」とは災難などから護ってくれるというのではなく、煩悩や邪まな教えから自分の仏道の歩みを護ってくれるということです。これは親鸞聖人が善導大師の言葉を拡大解釈したということではありません。元々が善導大師のこの言葉は「護念増上縁」を述べておられるところにあるのです。親鸞聖人が『教行信証』信巻の「現生十益」で、「諸仏護念の益」、「諸仏称讃の益」に続いて、六番目に「心光常護の益」を挙げておられるのも、この善導大師の受けとめからきています。様々な形で仏道の道標として私に示して下さる諸仏の方々の教えが、私と仏教の結びつきをより確かなものにして下さり、私が道を踏み外さないように護って下さっています。それら諸仏の方々の教えは、そのまま阿弥陀如来を賛嘆する言葉であり、大慈悲心そのものです。ですから、「摂取不捨」や「照」といっても、それは観念的なものではなく、私に先立って阿弥陀如来の浄土教を仏教の本道として築き上げてきた諸仏の方々の願いそのものを現しているのです。
 仏教の学びとは、今私が悩んでいることを私に先立って悩んで下さった方々の歩みを訪ねるということです。お釈迦様や七高僧、親鸞聖人など多くの方々の教えから、同じ悩める者として指針と励ましを頂けるのです。この指針と励ましが頂けるから、一歩が踏み出せるのです。どれほど才能に恵まれていようとも、自分一人の思いで歩める距離など知れたものでしかありません。適当なところで自分を誤魔化して自己満足に浸ってしまうことになりかねないのです。自分を支えて下さる方々、自分に先立ってこの道を歩んで下さった方々がいるという事実が、ゴールの見えない歩みを後押ししてくれるのです。私個人の願いではないのです。多くの先人達によって示され、自分も共有させていただける願いです。この一個人を超えた願いを阿弥陀という如来に託して、本願と呼ぶのでしょう。これが他力です。自分の力で考え歩いているように錯覚してしまうこともありますが、誰かの存在が自分に考え歩く力を与えてくれているのです。これが「諸仏護念」です。一生懸命に仏教を学んでも、自分が別のすばらしい何かに変わるわけではありません。煩悩に覆われた身は変わりませんが、諸仏の方々と願いを共有することはできます。迷いが生じたり心が折れそうになった時に、諸仏の方々の教えに励まされ自分を見つめ直させていただくのです。この様に護ってくれる智慧が「仏心光」です。私が心を向けるのに先立って、諸仏が私のことを真剣に考えていてくれたのです。私が感謝できるのは時々だけです。時々しか感謝できないので、頭が更に下がるのです。ですから親鸞聖人はいつも、慙愧の念と感謝の思いが同時なのです。親鸞聖人にとって阿弥陀如来とは、自分の歩みを支えて下さっている諸仏の願いなのです。私は優しくも真面目でもないのですが、もし少しでもそのように振舞うことがあったのならば、それはだれかが私の背中を押してくれたからです。誰かが励まし、誰かが支えてくれたから、一歩足が前に出たのです。
 そのことに気づいたのが「是人」です。気づかなくても、私が生まれる前から教えは与えられていたのです。そのことに私が気づくかどうかだけですから「仏心光」は相手を選んではいません。ただし、気づいた者には感謝と慙愧が生まれるのです。この思いが生まれたものを「人」と呼ぶというのです。ですから、仏教は「仏」になるための教えですが、同時に「人」になるための教えでもあるのです。煩悩に染まった身では「仏」になることはできません。生老病死に代表されるように、この身から起こるものは心ではどうしようもありません。それどころか心すら自分の思い通りにはならないのです。そのような私を、必ず「仏」になるべきものとしての「人」にしてくれるのが仏教です。身や心に振り回されながらも、願いに生きる者として歩ませてくれるのです。これは決して身や心の問題を無いことにするのではありません。それでは理想主義になってしまいます。身や心の問題を真っ直ぐに見つめながら、諸仏に対して感謝と慙愧の念を持って生きて行くのです。






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