|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史13

仏教の変遷5 仏教の寓話化 ジャータカによる民間布教‐

- 2019年11月27日

1. 物語としての釈迦

 在家信者に仏教を伝えるためには、哲学的な教理で説くよりも、分かりやすい物語として伝える方が現実的であった。人々から釈迦の記憶が薄れるにつれて、物語に登場する釈迦は次第に理想化され超人的な存在へと変化していった。当時、インド各地で伝えられていたと思われる偉人としての身体的な特徴を、すべて釈迦が備えていたとされるようになったのもその一つである。その数は徐々に増え、現在は三十二相八十隋形好(八十種好)として伝えられている。経典によりその内容に多少の差異があるが、三十二相について『大智度論』巻第四では次のように説かれている。

1. 足下安平立相(足の裏が全くの平らである)
2. 足下二輪相(足裏に輪形の相が現れている)
3. 長指相(ちょうしそう)(すべての指が長い)
4. 足跟広平相(足のかかとが広く平らかである)
5. 手足指縵網相(手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある)
6. 手足柔軟相(手足が柔らかで紅赤色である)
7. 足趺高満相(足の甲が厚く盛り上がっている)
8. 伊泥延腨相(足のふくらはぎが伊泥延という鹿のように円くなっている)
9. 正立手摩膝相(直立したとき手が膝に届く)
10. 馬陰蔵相(馬のように陰相が隠されている)
11. 身広長等相(身長と両手を広げた長さが等しい)
12. 毛上向相(全身の毛が上を向いている)
13. 一一孔一毛生相(全身の毛穴に一本の毛が生えている)
14. 金色相(全身が黄金に輝いている)
15. 丈光相(身体から四方に一丈(約三メートル)の光明を放っている)
16. 細薄皮相(皮膚が薄く垢が出ない)
17. 七処隆満相(両掌と両足の裏、両肩、うなじの七所の肉が盛り上がっている)
18. 両腋下隆満相(両腋の下の肉が盛り上がってくぼみが無い)
19. 上身如獅子相(上半身の筋肉が獅子のように盛り上がっている)
20. 大直身相(身体が大きく背中が曲がっていない)
21. 肩円満相(両肩が丸い)
22. 四十歯相(歯が普通より八本多い四十本ある)
23. 歯斉相(歯の大きさがすべて等しい)
24. 牙白相(四十本の歯以外に四本の牙ある)
25. 獅子頬相(両頬が獅子のように精悍である)
26. 味中得上味相(食物の持つ最上の味を味わえる)
27. 大舌相(舌が髪の生え際に届くほど広くて長い)
28. 梵声相(声が清らかで美しい)
29. 真青眼相(眼が青い)
30. 牛眼睫相(睫が牛のよう長い)
31. 頂髻相(頭の頂の肉が隆起してもとどりの形をしている)
32. 白毫相(眉間に右巻きに纏まっている、伸びると一丈五尺もの長さがある白毛がはえている)

 八十隋形好は三十二相をさらに詳しくしたもので重複するものも多いが、耳が長く垂れ下がっている、眉が細く三日月の形をしている、鼻の穴が正面から見えない、臍の穴が深く右回りに渦を巻いている、指紋が隠れていて見えない、毛髪が渦巻いている、など仏像に取り入れられている特徴も多い。
 身体的な特徴だけではなく、様々な神通力をも備えているとされ、仏は神々よりの上位の存在とされるようになる。また、釈迦の説いた法の普遍性を強調するために、釈迦以前にも六人の仏がいたという「過去七仏」という考え方も現れる。最初期の仏教では釈迦の弟子たちを釈迦と同等に扱っていたが、次第に釈迦と弟子たちとの間に大きな差をつけるようになる。釈迦の生涯が神話化されることで、普通の人間が釈迦のように成ることは非現実的なことになってしまったのである。
2. ジャータカの誕生

 さらに、仏教の教えを人々に分かりやすく伝えるために作られた逸話がジャータカである。元々インド各地に伝えられていた様々な物語を、釈迦の過去世に当てはめたものが多く「本生潭」とも呼ばれる。釈迦以前から、インドでは因果応報による輪廻転生という思想が信じられていたため、釈迦のような偉大な人は、その前世も偉大であったという形式で語られるジャータカは、一般の人々に受け入れやすい逸話であった。ジャータカに登場する前世の釈迦は、まださとりを開く前であることから「さとりを求める者」という意味の「菩薩」として語られている。これによって、初期仏教では重視されていなかった、さとりを開く前の釈迦の呼称で会った「菩薩」が次第に重要視され、後の大乗仏教では仏と同様に扱われることになる。いずれにせよ、哲学的・抽象的な教えを道徳的・具体的にすることで、仏教は広く社会全体に浸透していった。
 初期のジャータカには、釈迦の前生潭だけではなく弟子や信者の前生潭や、単なるたとえ話や寓話もみられる。これが物語として整理されることにより、多くのジャータカは釈迦が過去世を回想しているという構成となっていった。過去世での釈迦は、仙人や王として登場することもあるが、鳥や兎のような動物として語られることも少なくない。仏教が広まるとともにジャータカの数も増え、現在スリランカ仏教が伝えているジャータカは五四七話にもなる。そのいくつかは大乗仏教のジャータカと共に日本にも伝えられている。
 アショーカ王の頃に作られたとされるサーンチー大塔の門には、五つのジャータカ物語の絵が刻まれている。このことから、初期仏教経典編纂の頃には既にジャータカも作られていたことが分かる。その北門に刻まれているのが、スリランカ仏教諸国で最も有名なジャータカ「ヴェッサンタラ太子の物語」である。宮沢賢治の作品(「学者アラムハラドの見た着物」「ドラビダ風」など)にも取り上げられているこのジャータカは、ヴェッサンタラ太子が最愛の子供二人と妻までも、他者の求めに応じて施してしまうという物語である。これは、最も大切なものを他者に布施することによって、自己に対する執着を離れ、結果、無所有というさとりに至るという、初期仏教で特に強調された宗教観を表している。同じような趣旨のジャータカとしては、鷹から逃れて来た鳩を救うために自らの肉を代わりに差し出したという「シヴィ王の物語」も知られている。日本に伝わっている大乗仏教系のジャータカにも同様の趣旨のものがある。法隆寺の「玉虫厨子」に描かれている「薩埵王子物語」は、飢えた虎を救うために身を投げ出したというものである。また『今昔物語』に出ている、乞食僧に供物をささげるために自らの身体を火に投じ月に昇ったという兎の話もジャータカである。所有欲以外の煩悩を戒める初期仏教のジャータカとしては「長寿王の物語」がある。これは、父を殺された息子が恨みを捨てることで幸せになるという、瞋怒から離れることを勧める物語となっている。他に、父親の頭にいる蚊を追い払おうと大鉈を振るったために父親の頭を割ってしまったという息子の話や、占いを信じたばかりに不幸になった人の話など、その内容は多義に渡るが、初期仏教のジャータカ全体としては自己犠牲を伴う布施を勧めるものが最も多い。
 これらのジャータカはアジアの仏教圏だけではなく、ギリシャの『イソップ物語』やアラビアの物語にも取り入れられてい。

3. 戯曲による布教   - 吟遊詩人僧アシヴァゴーシャ(馬鳴) -

 釈迦以来、仏教教団は出家者の音楽や歌を戒律で禁じていた。この戒律を破り、叙事詩や抒情詩、戯曲の形式の作品を作ることで、一般の人々に仏教を広めたのがアシヴァゴーシャ(80~150年頃)である。
 アシヴァゴーシャはコーサラ国のバラモン階級に生まれ、バラモンに必要なヴェーダや処世学、愛欲学などを学んでいる。バラモンの学僧であったアシヴァゴーシャは、当時仏教界の長老であった脇尊者と出会い仏教に改宗したとされている。アシヴァゴーシャは大乗仏教の創始者の一人と伝えられていたが、近年の学説では説一切有部の僧侶であったと推定されている。またアシヴァゴーシャの作品からは、多聞部の『成実論』との類似も指定されている。当時、西北インドに侵攻していた月氏国のカニシカ王は中央インドにまで勢力を拡大させていた。アシヴァゴーシャは、このカニシカ王の下で、西北インドに仏教を広めている。その説法は、聴聞者すべてを悟らしめたばかりでなく、馬までもがその説法に感激したことから「馬鳴菩薩」とも呼ばれたていた。これはアシヴァゴーシャが音楽に乗せた分かりやすい説法をしたことから生まれた説話であると考えられる。
 アシヴァゴーシャの著作とされているものは多く、伝統的には三十七作品とされている。しかしそのすべてがアシヴァゴーシャの作であるとは考えれていない。間違えなくアシヴァゴーシャの作であろうといわれているものの中で、最も知られているのが『ブッダチャリタ』(『仏所行讃』)である。釈迦の誕生から入滅までを詠ったこの作品は二十八章からなる大作である。現在、一般に知られている神格化された釈迦の伝説は、この作品によるところが大きい。『サウンダラナンダ・カーヴィヤ』は釈迦の異母弟であるナンダを主人公とした物語である。釈迦が新婚であったナンダを無理やり出家させたため、ナンダは美しき妻スンダリーを忘れることができずに苦しんでいた。そこで釈迦はナンダを天界に連れていき、美しい天女を見せ、この天女でさえも老いていくことを知らしめる、という内容である。『シャーリプトラ・プラカラナ』は釈迦の高弟であるサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)が釈迦に帰依するに至るまでの物語である。この他に、師と弟子のあるべき姿を説いた『師に遣える五十の詩句』がある。これ以外の作品はアシヴァゴーシャの作と断言することができないものばかりである。しかし、アシヴァゴーシャが作ったとされる作品によって、多くの仏教信徒が生まれたことは間違いない。教義そのものよりも、寓話として釈迦の教えを広げようとしたのはジャータカと同じであるが、さらに戯曲化することでより多くの人々に受け入れられていった。一方で、これらの寓話によって釈迦は神々をも超える存在へと変化し、釈迦その人が礼拝の対象となった。このような釈迦にたいする理解と、経典の寓話化が大乗仏教経典編纂の下地となった。

資料1、ヴェッサンタラ太子の物語

 お釈迦様がカピラ城に程近いアコウの林におられた時のお話です。お釈迦様が悟りを開かれてから、故郷であるカピラ城に戻られるのはこれが初めてでした。二万人の阿羅漢を伴なって帰られたお釈迦様を向えようと、釈迦族の王たちは手にお香や花を持ってアコウの林に向かいました。しかし、釈迦族の者は皆高慢で不遜であったため、自分より年下のお釈迦様に頭を下げようとはしませんでした。これを見たお釈迦様は、空中に浮かび上がると、マンゴーの種を一瞬にして巨木にしてみせたのです。これを見たお釈迦様の父である浄飯王は、息子であるお釈迦様に礼拝しました。これに倣って釈迦族の王たちも皆お釈迦様に礼拝しました。すると、大きな雲がわきおこり、赤銅色の蓮雨が音を立てて降ってきました。この雨は、濡れたいと思う者は濡らしましたが、濡れたく無いと思った者の身体には一滴もかかりませんでした。このふしぎな光景に心を奪われている修行僧たちに向って、お釈迦様は「修行僧たちよ、今回が初めてではなく、過去世においても、大きな雲が、私の親族の者たちに蓮雨を降らせたことがある」と言うと、過去の話を述べられました。
 シヴィ大王の息子サンジャヤとプサティーが結婚しました。実は過去にプサティーは帝釈天と十の願いを叶えてくれる約束をしていたのです。それはシヴィ王の宮殿に住みたいということ、黒いまなこと眉と瞳をもつこと、プサティー(ふりまき姫)という名前になりたいということ、素晴らしい王子を身籠ること、妊娠しても腰が太らないこと、お腹が張らないこと、歳をとっても乳房が垂れないこと、白髪が生えないこと、体にほこりが付かないこと、死刑囚をも救うことが出来るということでした。この願いによってプサティーはサンジャヤと結ばれたのです。帝釈天は素晴らしい王子を身籠るという願に応えるために、三十三天にいたお釈迦様にプサティーの胎内に宿るように請いました。
 胎内にお釈迦様を宿したプサティーは、無性に布施がしたくてたまらなくなりました。そこで、城の中に六ケ所の慈善施設を作らせ、毎日六十万ルピーの布施をしました。やがて十ヶ月が満ちると、町の様子が見たくなり、馬車で右回りに都の中を巡り始めました。ちょうど下町にさしかかった時に陣痛がおきたので、そこに産屋を作らせました。お釈迦様は眼を見開いて母親のお腹から出ながら手を差しのべると「お母様、布施をしたいのですがなにかありませんか」と尋ねました。そこでプサティーはその手にお金の入った袋を乗せてあげました。下町(ヴェッサ)で生まれたので彼はヴェッサンタラと名づけられました。彼が生まれた日に、空飛ぶメスの象が、幸せをもたらすという白い象の子を王のもとへ連れて来ました。この象はお釈迦様を縁(パッチャヤ)として現れたのでパッチャヤと名づけられました。
 ヴェッサンタラが八才の時、乞う者の願いに従って、たとえそれが我が身であろうとも、求められれば与えようと考えました。彼がこのように考えた時、大地が震え動きました。
 あるときカーリンガ国の婆羅門が太子のもとを訪ね、雨が降らず大飢饉となってしまった国を救うために、太子の幸せをもたらすという白い象を譲ってくれるように頼みました。太子は婆羅門の求めに応じて白い像を与えましたが、このことに怒った国民はヴァンカの山へと王子を追放してしまいます。このようなことをされたにもかかわらず、太子は都を去る時、国民に自分が所有していた象・馬・車・奴・婢・牛・財をすべて施したのです。
 ヴァンカ山の林中で、ヴェッサンタラ太子はマッジー妃と、息子のジャーリー、娘のカンハーヂナーと共に果実を拾って暮らすようになりました。そこへ旅の婆羅門が現れ、二の子供を奴隷とするために求めてきました。太子はその願いに喜んで応えました。次に帝釈天が婆羅門に姿を変えて妃を求めてきました。大使はこれにも喜んで応えたのです。太子は、ひたすら一切智を求めるために愛する妻子までも、求める者に与えたのでした。太子の心に偽りのないことを知った帝釈天は、失ったすべてのものを太子に返しました。この時、大きな雲がわきおこり、赤銅色の蓮雨が音を立てて降ってきたのです。


資料2、シヴィ王 前生物語 

 お釈迦様がシヴィ王の姿として、菩薩の行をしていた時のお話です。
帝釈天はシヴィ王の布施行が本当に定まったものであるかどうかを確かめようと思いました。そこで、帝釈天は鷹の姿となり鳩を追いかけてシヴィ王のもとへ行きました。鷹から逃れようとした鳩は、シヴィ王の脇の下に隠れました。慈悲深い王は迷うことなく鳩を匿い鷹から守ってやりました(「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」という諺はここからきています)。
 そこで帝釈天である鷹は「鳩は自分の食べ物なのだから渡してもらいたい」と王に言いました。しかし王は「わたしはかねがねすべての人たちのために尽くそう、一切の衆生のために尽くそうという誓を立てて、菩薩の行に励んでいる。そのような私を頼って救いを求めてきた鳩にも、当然慈悲の心を持って接したいと思う。あなたに渡すわけにはいかない」といって断りました。すると鷹は「あなたは私の食べ物である鳩を取り上げようとしている。あなたは一切衆生のために尽と言っているが、その中に私は入っていないのか」と王に詰め寄りました。シヴィ王はどうしたら良いのか悩んだ末に「では鳩の代わりに、あなたが望むものをなんでもあげましょう」と言いました。すると鷹は「殺したての、まだ暖かい肉が欲しい」と答えたのです。これに応えようとすると、王は他の生き物を殺さなければなりません。
 決心を固めた王は、自分に向って言いました。「この私の身体は、常に老いと病と死につきまとわれている。そして、いずれは朽ち果てるものでしかない。鷹が温かな肉を必要としているのであれば、喜んで私の身体を役立ててあげよう」。王は家来に自分の肉を切り取らせ、鷹に差し出したのです。
 ところが鷹は、鳩と同じ重さの肉でなければ承知しないと言いました。そこで王は両股の肉を秤にかけて鳩とつり合わせようとしましたが、重さが足りませんでした。さらに体のあちこちの肉を切り取ってようやく同じ重さになりました。王の姿は見に忍びないものとなってしまったので、家来たちは幕を張って王の姿が皆に見えないようにしたいと言いました。ところが王は「いや、そのようなことはするな。人々の視界をさえぎってはならない」と言い、さらに次のように言いました。「天も人も阿修羅も、今の私の姿を見るがいい。私は大きな心と無上の志を持って、仏道を成就しようと願っている。仏の悟りを求めるならば、このような大きな苦しみであっても耐え忍ぶべきである。もしこのように固い決心が出来ないならば、仏に成ろうという思いは捨てるべきである」。そして力尽きそうになりながら、自分に向かって言いました。「汝は自身の意思を堅固にすべきである。決断に迷ったり、苦しみに悶えたりしてはいけない。一切の衆生は憂いと苦しみの大海の中にいる。汝ひとりだけが誓を立てて、そのすべてを救おうと願っている。怠けたり悶えたりしている場合ではない。この世界で受ける苦しみは、地獄の苦しみに比べれば無いにも等しいものでしかない。それは十六分の一にも満たないのである。私は今、智慧・精進・持戒・禅定をそなえながら、この苦しみを味わっている。であれば地獄に落ちた智慧の無い人の苦しみはどれほどのものであろうか。それを思えば、この苦しみは耐えるに易いものでしかない」
 この言葉を聞いた帝釈天は「あなたは体を切り刻まれるほどの苦しみを受けて、悩むことは無かったのか」と王に尋ねました。すると王は「私の心は歓喜しています。悩むことも欲を持つここともありません。心が折れることなどあるはずもありません」と答えました。そして菩薩である王は次のような誓願を立てました。「私は肉を割き血を流しても、怒ることも悩むこともありませんでした。苦しみに悶えることなく、一心に仏道を求めました。私のこの言葉に偽りが無ければ、私の体は元に戻るでしょう」
 この誓いの言葉を口にすると、たちどころに切り刻まれ血だらけになっていた王の体は元通りに直ったのでした。






徳法寺 〒921-8031 金沢市野町2丁目32-4 © Copyright 2013 Tokuhouji. All Rights Reserved.