|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史11

‐仏教の変遷3 原始教義の形成2‐

- 2019年11月27日
1. 八正道(八聖道、八つの部分よりなる正しい道)

 最初期の仏教は、悪い行いをすることなく善い行いをせよ、という極めて倫理的・道徳的な教えであった。ここで、何が悪で何が善であるのかということが問題となるが、行いに対する執著を離れるために敢えて善悪の基準を明確にしなかった。一方で、行いそのものについては「身体で行った行為」と「言葉で語った行為」と「心に思い浮かべた行為」(身口意三業)の三つに分類し、特に「心に思い浮かべた行為」を重要視した。これは次のように述べられている。

 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

 「心に思い浮かべた行為」によって他の行為が生まれ、無明によって邪な心が生まれると説いている。

 無明のうちにあり、無知なる者には邪な見解が起こる。邪な見解のある者には邪な思惟が起こる。邪な思惟のある者には邪なことばが起こる。邪なことばを発する者には邪な行為が起こる。邪な行為をなす者には邪な生活が起こる。邪な生活をなす者には邪な努力が起こる。邪な努力をなす者には邪な念いが起こる。邪な念いをなす者には邪な精神統一が起こる。

 無明を脱して知慧を得るためには執著を離れる必要がある。仏教が求めた善とは、執著から離れた状態で初めて認識されるものである。仏教が求める「正しい行為」も執著から離れた状態での行為であり、世間一般で言われる「正しい行為」とは意味が異なっている。この仏教が求める「正しい行為」が次第に整理され「八正道」となる。それは次の八つである。

① 正しい見解(正見)
 当初は「真理の知識」といった漠然とした意味合いであったが、後に「苦しみに関する智」「苦しみの生起の原因に関する智」「苦しみ消滅に関する智」「苦しみの消滅に導く道に関する智」という「四つの真理」を意味するようになる。
② 正しいおもい(正思)
 「正しい思考」もしくは「正しい意欲」という意味。
③ 正しいことば(正語)
 「ことば」とは自分が発する言葉ではなく、仏教の教え(仏語)。
④ 正しい行ない(正業)
 「行ない」には身口意の三業すべてが含まれる。
⑤ 正しい生活(正命)
 求められる「生活」の内容は出家者と在家者で異なっている。ただし、他人を傷つけることなく思いやりをもって生きることは、出家在家に関わりなく求められている。
⑥ 正しい努力(正精進・正方便)
 この「努力」とは、自分自身を律し煩悩を静め、さとりを得るためのものである。
⑦ 正しい気づかい(正念)
 「気づかい」の具体的内容は次のように説かれている。

 修行僧が行き、もどり、眺め、見廻し、手足をのばしちぢめ、上衣下衣を着け、鉢を持し、食い飲み噛み呑みこみ、大便小便をし、行き、とどまり、坐し、眠り、目ざめ、語り、沈黙しているときに、十分に意識して(気をつけて)行為すること。

 これが後には「身体を不浄である」(身観)、「感受を苦痛である」(受観)、「心を無我である」(心観)、「もろもろの考えられる対象を無事である」(法観)という四つの観じかた(四念処・四念住)を意味するようになる。

⑧ 正しい精神統一(正定)
 心を落ち着かせることで、禅定・ヨーガ・三昧とも呼ばれ、次のように説かれている。

 修行者は心の内が平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には固執されたものは存在しない。
修行僧は、身も静か、語も静か、心も静かで、よく精神統一をなし世俗の享楽物を吐きすてたならば、〈安らぎに帰した人〉と呼ばれる。

 最初期の段階では、精神統一が目的であるのか手段であるのか明確ではなかったが、後に手段であるとされるようになる。「禅定」の「禅」は「強く念じて注意を払う」「定」は「心を定め落ち着かせる」という意味。この禅定が後にさとりに至る四段階に分けられ「四禅」(初禅(諸欲・諸不善は離れたが、伴尋伴伺、共喜共楽の状態)、第二禅(共喜共楽の状態)、第三禅 (不喜共楽の状態)、第四禅(不苦不楽の状態))となる。

2. 四諦(四聖諦、四つの句)

 最初期の仏教では、苦しみとさとりの関係は次のように述べられていた。

 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、かれらは心の解脱を欠き、また知慧の解脱を欠く。かれらは〔輪廻を〕終滅させることができない。かれらはじつに生と老いとを受ける。しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、かれらは、心の解脱を具現し、また知慧の解脱を具現する。かれらは〔輪廻を〕終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

 これが原始仏教では根本説と見なされるようになり、苦しみ(苦諦)、苦しみの成り立ち(集諦)、苦しみの超克(滅諦)、苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(道諦、八正道)という四つに定型句(四諦)として整理される。この四諦と前回に取り上げた三宝の関係は次のように述べられている。

 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者のつどい(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い心理を見る。すなわち苦しみと、苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八正道)とを(見る)。

 「苦しみ」は次のように説かれている。

 じつに尊い真理である〈苦しみ〉とは次のごとくである。生まれることも苦しみであり、老いることも苦しみであり、病も苦しみであり、死も苦しみである。憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えもまた苦しみである。憎い者に会うのは苦しみであり、愛する者に別れるのも苦しみである。求めるものを得られないことも苦しみである。要するに、執著の素因としての五つのわだかまり(五取蘊、五受陰、身体(色)・感覚(受)・概念(想)・心で決めたこと(行)・記憶(識)という五つが煩悩に染まっていること)はすべて苦しみである。

 「苦しみの成り立ち」は次のように説かれている

 じつに尊い真理である〈苦しみの生起の原因〉は次のごとくである。それはすなわち、ふたたび迷いの生存をもたらし、喜びと貪りとをともない、ここかしこに愛着して歓喜を求めることの妄執(渇愛)である。それはすなわち享楽的欲望を求める妄執と個体の生存を貪る妄執と生存の滅無を望む妄執とである。

 「苦しみの消滅」は次のように説かれている。

 じつに尊い真理である〈苦しみの消滅〉は次のごとくである。それはすなわち、その妄執を完全に離れ去った消滅であり、捨て去ることであり、放棄であり、解脱であり、こだわりのなくなることである。

 ここにある「消滅」という言葉の原語は「せきとめる」という意味であることから「なくする」というよりは「抑制する」という方が本来の意味に近い。

3. 三法印

 古くは「無常」「非我」「解脱」の三つであったが、後に「一切の形成されたものは無常である(諸行無常)」「一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)」「一切の事物は我ならざるものである(諸法非我、後に諸法無我となる)」の三つとなる。これに「一切の形成されたものは空である(一切皆空)」を加えている経典もある。これがさらに整理され「一切行無常」「一切法無我」「涅槃寂静」が三法印とされるようになり、これに「一切皆苦」を加えて四法印となる。

4. 四苦八苦

 初期経典では生・老・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えなどとしていたが、後に生・老・病・死の四苦と、愛さない者と会うこと(怨憎会苦)・愛する者と離別すること(愛別離苦)・欲するものを得ないこと(求不得苦)・五種の執著の素因(五成陰苦、五蘊盛苦)を加えた八苦に整理された。

5. 空

 大乗仏教で説かれる「空」も解脱の内容として初期の頃から説かれている。

 色かたちは泡沫のごとくである。感受作用は水泡のごとくである。表象作用はかげろうのごとくである。形成作用は芭蕉のごとくである。識別作用は幻のごとくである。と日のみ子(釈迦)は説きたもうた。瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく、空虚である。
 物質的なかたちの想いを離れ、身体をすべて捨て去り、内にも外にも〈なにものも存在しない〉と観ずる人の智。

6. 無我

 本来の「無我」は「わがもの」「われの所有である」という我執から離れること(無所有)を意味していた。これは本来私に属していないものを、属しているかのように思い込んでしまっていることに気づくということである。本来私に属していないものとは、家族・財産・地位の他に身体も含んでいる。「我」(アートマン)は、煩悩の基体であり滅すべき「我」と、完成されるべき理想の「我」の二種類が考えられていた。後者の「我」は他者を救うことが求められる「我」であり、同時に「この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして〔自分の〕主であろうか」と説かれているように、主体と責任をすべて背負った「我」でもある。このような「自己」を知ることが仏教の目的でもある。後に「アートマンは存在しない」という意味の「無我説」も登場する。本来仏教は、霊魂の想定自体を拒否していたが「霊魂=我(アートマン)」とは考えていなかった。ところが、バラモン教など他の宗教が輪廻の主体としてのアートマンを主張してきたため「我」を否定する必要が生まれた。このように、仏教でも時代によって「無我」の内容は変化している。一部には霊魂を肯定し輪廻転生を肯定的に説いている経典もつくられた。これは仏教教団の中に様々な思想グループがあったことを示唆している。

7. ニルヴァーナ(涅槃)

 「ニルヴァーナ」とは「炎が消えてなくなった状態」という意味であり、釈迦の頃には「死」を表す言葉として用いられていた。これが「煩悩が消えてなくなった状態」という意味に変わってくる。それでも「やすらぎ」という程度の意味で「深遠な真理」という境地ではなかった。しかし後には、「さとり」そのものを意味するようになる。

8. 中道

 相互に対立し矛盾する二つの極端な概念のうち、そのどちらにも偏らない修行や認識のあり方。「中」は「中間」ではなく「かなめ」を意味しており「中道」は「最も適切な道」という意味である。

 賢者は両極端に対する欲望を制する。
 〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人―、かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。
かれは両極端を知りつくして、よく考えて、〔両極端にも〕中間にも汚されない。かれを、わたくしは〈偉大な人〉と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。

 苦・楽のふたつ(二受。苦行主義と快楽主義)と、有・無の見解(二辺。一切が存在するとする認識とすべてのものは存在しないという認識)が代表的な中道の例え。いかなる偏見にもとらわれず平静な心理状態を保つ生活を「道」として表している。

9. 十二支縁起(十二因縁、十二縁起、十二支因縁)

 最古の聖句の一つに「人々は妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを見る。ゆえに汝は怠ることなく妄執を捨てて、ふたたび生存状態にいたらせないようにせよ。」とある。これが縁起の骨格となった。「縁起」とは「業とその果報との関係の理法」を意味している。

 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは演技を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生けるものは業(行為)に束縛されている。進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。

 釈迦のさとりとは、何ものにも執著しないことであるが、その内容を言葉で説明することは難しかった。そこで、この「縁起」そのものがさとりとして用いられるようなある。

 縁起を見るものは、法を見る。法を見るものは、縁起を見る。
それ(=仏教の修学)は、業を業であると知り、報いを報いであると知り、縁によって起こった諸事象をあるがままに照らして見るものであり、大いなる安穏にみちびき、静まっていて、最後には幸せとなるものである。

 苦しみの原因は誤った見解に対する執著であるから、縁起の道理を知ることによってありのままに観る知慧を得たならば、さとりが得られるということである。
 この縁起が十二支縁起として整理される。十二とは、真実相の無知(無明)・潜在的形成力(行)・認識作用(識)・名称と形態(名色)・六つの領域(六入)・接触(触)・感受(受)・妄執(渇愛)・執著(取)・生存(有)・生まれること(生)・老いと死ぬこと(老死)である。
 「老いと死ぬこと」とは「諸行無常」とほぼ同じ意味であり、あらゆる「苦」を象徴している。これらの「苦」は「生まれること」によって生じる。「生まれること」が「苦」として認識されるのは、迷いながら「生存」しているからである。迷いながら「生存」しているのは「執著」があるからである。「執著」は「固執」とも訳されるが「こだわり」という意味である。この「執著」の原因が「妄執」である。「妄執」とは「渇き」とも訳されるが「本能的な盲目的衝動」という意味で「再生をひき起こすものであり、喜びと貪りをともない、いたるところに喜びを求めているもの」とされる。この「妄執」は「六識に対する妄執」「欲望に向かう妄執」「生存を貪ろうとする妄執」「生存の滅無になることを欲する妄執」に分類される。「妄執」の原因として、古くは「耽溺(たんでき)」が挙げられており、これを「苦」の根本原因としていた。後に「無明」をこの原因とするものがあらわれるが「十二支縁起」では「妄執」の根源に「感受」を見出している。この「感受」とは「苦楽などの印象感覚を受ける」という意味である。様々な縁によって受ける印象が「妄執」を起こすということである。この「感受」も究極の原因とみられていた時期があったが「感受」の原因として「接触」が考えられるようになる。「接触」無くしては「感受」は起こらないからである。この「接触」の原因として「六つの領域」が挙げられている。もともとこの「六つの領域」は十二支縁起とは別の縁起説として考えられていた。それは「色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものと、ひとえに思考の対象たるもの」という「六つの領域」に執著することから「苦」が生まれるというものであった。これが十二支縁起に取り入れられ、この場所に入ることになる。つまり「接触」する器官としての「六つの領域」である。「六つの領域」が「接触」の原因となる前は「名称と形態」が「接触」の原因であった。「名称と形態」とは、インドでは「現象世界」そのものを意味する言葉であった。これが後の仏教では「人間存在の主観面と客観面」を表しているという解釈になる。いずれにせよ、六つの器官によって触れる対象がなければ触れることもできないからである。対象を感じさせるのが「認識(識別)作用」である。この十二支縁起における「識」は、単に対象を認識するというものではなく、執著を内含しているものであることから「識著」とも訳される。古い経典の中には、この「識」を苦の根底としているものもある。「認識作用」があらゆる存在を成り立たせているという考え方である。この「認識作用」の原因として「潜在的形成力」が挙げられている。これは「意思」とも訳されるが、認識を作り出す根本的な意欲ともいうべきものである。この「潜在的形成力」の元となっているのが「無明」である。「無明」は「無知」とも訳され、十二支縁起では苦の根本原因とされる。この「無知」とは真理を知らないということである。その真理の内容として「無常」や「真理に至る道」など様々な解釈が生まれてくる。この「無知」も、当初は単に「知らない」という意味であったが、後には「誤った認識」や「根源的な無知」を意味するようになる。この「知」は「見」と同じ意味で用いられる。ただ単に知識として知るということではなく、内観的もしくは直感的な頷きを伴うものである。この「知」を得ることが「苦」からの解放になるというのが十二支縁起である。
 「AがあるからBがあり、AがなければBがない」という縁起的な教義は、この十二支縁起以外にも多く説かれている。縁起説の一つの完成形がこの十二支縁起であるといえるが、さらに発展形ともいえる次のような縁起も説かれている。

 無明を縁として形成力がある。形成力を縁として識別作用がある。識別作用を縁として名称と形態とがある。名称と形態とを縁として六つの領域がある。六つの領域を縁として接触がある。接触を縁として感受がある。感受を縁として妄執がある。妄執を縁として執著がある。執著を縁として生存がある。生存を縁として生がある。生を縁として苦しみがある。苦しみを縁として信仰がある。信仰を縁として悦びがある。悦びを縁として喜びがある。喜びを縁として心身の軽やかさがある。軽やかさを縁として安楽がある。安楽を縁として精神統一がある。精神統一を縁として如実に知り見ることがある。如実に知り見ることを縁として厭離がある。厭離を縁として無欲がある。無欲を縁として解脱がある。解脱を縁として壊滅に関する智がある。

 この縁起は無明を縁として、最終的にさとりに至っている。つまり現実肯定の思想であり、一般的な仏教理解とは異なるものである。このような思想は原始仏教の主流とはならなかったが、一部に存在したことは間違えのない事実である。いずれにせよ、原始仏教では「縁によって起こる」という「縁起説」によって「有」と「無」、「自依」と「他依」と「無依」といった議論に対して「中道」という立場をとっていたのである。






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