|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史10

‐仏教の変遷2 原始教義の形成1‐

- 2019年11月27日
1. 教義の否定から歩むべき「道」としての教義の形成

 釈迦は正しきバラモンであろうとした。そのバラモンとはあらゆる束縛から解き放たれた者である。このため、自らを束縛する教義や戒律を否定した。当時、多くの哲学的な教えが、互いに自分たちの教えこそ絶対真理であることを主張し、他の教えを否定していた。自分の教えに対する執着は他の教えに対する偏見を生む。釈迦は自分の考えが真実であると思うことの危険性を熟知していた。このことは、次の言葉に表れている。

 ナンダよ。世の中で、真理に達した人たちは、〔哲学的〕見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとはいわない。〔煩悩の魔〕軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、―かれらこそ聖者である、とわたくしはいう。
 ナンダよ。これらの〈道の人〉・バラモンたちはすべて、〔哲学的〕見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になると説く。〔そのほか〕種々のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても、生と老衰とを乗り超えたのではない、とわたくしはいう。
 ナンダよ。わたくしは〈すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている〉と説くのではない。この世において見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々―かれらはじつに〈煩悩の激流を乗り超えた人々である〉と、わたくしは説くのである。

 釈迦は論争しあっている者たちを「自己の見解に耽溺(たんでき)して汚れに染まっている」者とし、真の聖者を次のように述べている。

 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。知慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、たがいに衝突しながら、世の中をうろつく。
 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものお)しみもかれを汚すことがない。たとえば〔蓮の〕葉の上の水が汚されないようなものである。たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでもとくに執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれらは貪らず、また嫌うこともない。

 釈迦は教義や戒律を避けるだけではなく、いくつかの質問には答えることをしなかった。その質問を「無記」という。そのもっとも古い形態である「四無記」は次の四つである。

1) 我および世界は常住であるか、あるいは常住ならざるものである。
2) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか。
3) 身体と霊魂とはひとつであるか、あるいは別の物であるか。
4) 人格完成者は死後に生存するか、あるいは生存しないか。

 これらの質問に釈迦が答えなかったのは、無意義な議論や確実な根拠を持たない議論を避けるためである。原則として、釈迦は経験によって確かめられるものしか信じないという考え方であった。伝統的な儀式の多くを否定したのは、その真偽を確かめることができないからである。否定はしても対立する教義を説かないため、他の思想との間に勝劣が成立しない。このため、仏教は他の教えを超えていると表現された。他の思想から非難されても敵対的な応答をすることもなかった。仏教の求めるものが「他者からの勝利」ではなく「心の平安」であるからである。このためには争わないことが重要である。これは次のような言葉で語られている。

 もろもろの出家修行者やいろいろいいたてる世俗人に辱められ、その〔不快な〕ことばを多く聞いても、あらあらしいことばをもって答えてはならない。りっぱな人々は敵対的な返答をしないからである。
修行者はこの道理を知って、よくわきまえて、つねに気をつけて学べ。もろもろの煩悩の消滅した状態が〈やすらぎ〉であることを知って、ゴータマの教えにおいて怠ってはならない。
 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々―、かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて〔一部の人々から〕称讃を博するだけである。〔たとい称讃を得たとしても〕それはわずかなものであって、平安を得ることではできない。論争の結果は〔称讃と非難との〕二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
非難されるのは、欲せざることである。称讃されても、心の平安を得ることにはならない。
 修行僧らよ、われは世間と争わない。しかし世間がわれと争う。法を語る人は、世間のなんびととも争わない。世間のもろもろの賢者が「なし」と承認したことを、われもまた「なし」と語る。世間のもろもろの賢者が「あり」と承認したことを、われもまた「あり」と語る。
 世間には世間のことがら(法)がある。如来はそれを覚り、現観し、覚りおわり現観しおわってから説明し、説示し、仮りにたて、安立せしめ、開示し、分析し、明白ならしめる。

 仏教の修行者は「たえ忍ぶことを説き」「不抗争を称讃する者」と呼ばれていた。元々、釈迦は新しい宗教や思想を主張しようとしたのではなく、束縛や執著から離れて自然の法に則した人間として生きる「道」を示したかったのである。釈迦の頃から今日に至るまで、多くの仏教宗派は従来の宗教を捨てることを求めていない。その地域の宗教用語や概念を用いながら、その意義内容を束縛の少ないものにするという方便的な教化を行っている。このように相手によって説き方を変えることを対機説法という。この教化方法により、仏教はその地域の思想を取り入れることで、より深い宗教性を持つことになった。仏教では教えを彼岸に渡るための筏に例えるが、これは彼岸に渡ってしまえば筏が必要なくなるものであることも示唆している。どのような教えも方便でしかないということである。大切なのは教えではなくで、人間が束縛から放たれることなのである。
 逆に、世間一般で言われている善行によってその人の価値を評価することは否定した。

 魚肉・獣肉〔を食わないこと〕も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみれることも、粗い鹿の皮〔を着ること〕も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中のなされるような、不死を得るための苦行も、〔ヴェーダの〕呪文も、供儀も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。
この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な物事に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。

 一方で「人間として正しい道を歩むための心得」という形で、最初期の経典の頃から教義的なものが示されている。

2. 護るべき道徳(戒)

  「人間として正しい道を歩むための心得」としての教えは、後に「戒律」として整理されることになる。それ以前は「守るべき道徳」として、次のようなことが説かれている。

1) 殺すなかれ
 仏教の僧や信徒も肉食をしていたので、まったく殺すなということではない。節度を保つことを求めるものである。
2) 盗むなかれ
 原語では「自分に与えられていないものは取ってはならぬ」となっている。
3) 邪婬を行うことなかれ
 男女間の道を乱してはならないという意味。
4) 言葉に関する教え
 言葉を慎め・偽るなかれ・悪口をいうな・粗暴なことば発するな・むだ口をきくな・民衆の理解できることばで説け、など言葉に関しては細心の注意を求めている。
5) 酒を飲むなかれ
 最初期は飲みすぎるなということであったが、徐々に厳しくなった。これは修行僧の間で酒による失敗が多々見られたためである。また、信徒の間でも酒により身を亡ぼすものが少なくなかったため酒を禁止するようになった。飲酒と共に賭博も禁止している。
6) 注意深くあれ 
7) 足るを知れ
8) 怠けるな
9) 惰眠をむさぼるな
10) 心をとり乱すな
11) 不運にくじけるな
12) 健康に心がけよ
13) 音楽・舞踊・歌謡を楽しんではならない
14) 恥を知れ
15) 愚を知れ
16) 反省のこころを持て
17) 思いやりの心を持て
18) 恩を忘れるな
19) 耐え忍ぶこと
20) 他人からのそしりにこだわるな
21) 羨むな
22) この世に無駄なものは存在しない
23) 施与を行え
24) 人のために尽くせ(奉仕)
25) 法にかなった事柄には協力せよ

 これが原始仏教の発展とともに整理され、不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒という「五戒」が成立した。これに、不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見を加え、不飲酒を除くと「十善戒」となる。肯定的なものとしては、施与・戒め・出離・知慧・努力精励・忍耐・真実・決意・慈しみ・平等が「十の完全な徳」(十波羅蜜)とされた。

3. 汚れ(煩悩)

 抑制すべき心の汚れとして説かれている。後に煩悩として整理されるが、最初期の仏教では、まだ分類や体系化されていない。偽り、満身、貪欲、笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、詐欺、高慢、激昂、粗暴なことば、汚濁、耽溺(たんでき)、異性に対する欲望、自己の愛執、生老死に対する無知、財産への執着、妄愛、慢心、邪見、十二処(眼・耳・鼻・舌・身・意という主観的機能(六根)と、色(かたち)・声・香・味・触(触れられるもの)・法(思考されるもの)という客観的な対象(六境))などが挙げられている。

4. 知慧

 仏教でいう知慧とは、想いや哲学的見解とは区別され、実践的認識であるとされる。

 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。知慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、たがいに衝突しながら、世の中をうろつく。

 あらゆる偏見をはなれて、自然現象や人間の姿をあるがままの姿を認識することが知慧である(如実知見)。

5. 慈悲

 慈悲とは、欲を捨てたところに現れる心である。「慈」は「真実の友情」「純粋の親愛の念」、「悲」は「哀憐」「同情」「やさしさ」を意味する。最初期の仏教において人間の宗教的実践の基本的原理として特に強調された。不殺生と非暴力が基本であるが、「母の慈悲」に例えられることが多い。

 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の〔慈しみの〕こころを起こすべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき〔慈しみを行うべし〕。立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥しつつも、眠らないでいるかぎりは、この〔慈しみの〕心づかいをしっかりと保て。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

6. 解脱

 解脱とは、生理的・心理的現象としての苦痛がなくなることではない。真理に気づき妄執を離れることで、精神的肉体的な活動作用にとらわれなくなるということである。老いを気に病んでいた人が、老いを受け入れることができた状態を「老いがなくなった」という。これは次の釈迦と学生トーディアとの対話にも表れている。

トーディア:もろもろの欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、もろもろの疑惑を超えた人、―かれはどのような解脱をもとめたらよろしいのですか。
釈迦:トーディアよ。もろもろの欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、もろもろの疑惑を超えた人、―かれには別に解脱は存在しない。
トーディア:かれは願のない人なのでしょうか。あるいはなにかを希望しているのでしょうか。。かれは知慧があるのでしょうか。あるいは知慧を得ようとはからいをする人なのでしょうか。シャカ族の方よ。かれが聖者であることをわたしが知り得るように、そのことをわたしに説明してください。あまねく見る方よ。
釈迦:かれは願のない人である。かれはなにものをも希望していない。かれは知慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。トーディアよ。聖者はこのような人であると知れ。かれはなにものをも所有せず、欲望の生存に執著していない。

 このように欲望を持たなくなった状態が解脱、もしくはニルヴァーナ(涅槃)と呼ばれていた。こには死後のことは問題とされていない。このような境地に至るために、やがて種々の「戒律」が成立することになる。「律」の原語は「人間の欲望を制する」という意味である。これは感情を抑圧するという意味でも、欲望を持たないように努力するということでもない。

 〔真の〕バラモンは〔煩悩の〕範囲をのり超えてる。かれがなにものかを知りあるいは見ても、執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは「この世でこれが最上のものである」と固執することもない。
 一切の戒律や誓いをも捨て、〔世間の〕罪過ありあるいは罪過なきこの〔宗教的〕行為をも捨て、「清浄である」とか、「不浄である」とかいってねがいを求めることもなく、それらにとらわれずに行え。―安らぎを固執することもなく。
 世間では、人はもろもろの見解のうちですぐれているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それゆえにかれ(=世間の思想家)はもろもろの論争を超えることができない。かれは、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらないものであると見なす。人が何かあるものに依処して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それはじつにこだわりである、と〈心理に達した人〉は語る。それゆえに修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。知慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、あるいは「すぐれている」とか考えてはならない。かれは、すでに得た〔見解〕を捨て去って執著することなく、学識に関してもとくに依処することをしない。人々は〔種々異なった見解に〕分かれているが、かれはじつに党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信じることがない。かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。もろもろの事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

 この認識には、自分の思考しうる限界を知り、その限界を逸脱してはならないという客観的な謙虚さが表れている。
7. 信

 最初期の仏教は「信仰を捨てよ」と説いていた。

 快いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信じることなく、なにかを嫌うこともない。

 これは伝統的な宗教権威を否認していたためである。ところが仏教教団が発展してくると「この世では信仰が人間の最上の富である」と〈信〉が強調されるようになる。師に対する信頼がなければ、教えとして成立しないからである。ただし、自己を問題としない信仰に対しては批判的であったため、後には「信仰」に代わり「信心」(さとりの心と一つになる)や「帰依」(仏または法を信じ遵奉する)「信楽」(信によって清らかな澄んだ心になった状態)という言葉が使われるようになる。

8. 愚者と賢者(聖者)

 仏教は愚者の状態から脱して賢者(聖者)となることを目指した。では愚者や賢者とはどのような存在を指したのか。

 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、「自分は勝れたものである」とも、「自分は等しいものである」とも、「自分は劣ったものである」とも論じることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
 自己を表すこと、あたかも鈍き者または愚者のごとくであれ、賢明なる人は、つどい(サンガ)のなかでやたらにしゃべってはならない。
 もしも愚者がみずから愚者であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だといわれる。
 愚かな者は、じつにそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権威を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきこととなすべからざることとについては、わたしの意に従え」―愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢とがたかまる。一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行者はこのことわりを知って、名誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。

9. 三宝

 さとれる者(仏)、真理のことわり(法)、聖者の集い(僧)に対する信を「三宝」という。
 釈迦は「覚った人」あるいは「目覚めた人」を意味する「ブッダ」と呼ばれた。釈迦の弟子たちは、釈迦を師として仰いでいたが、釈迦自身が他者に対する「信仰」を禁じていたため「釈迦を信じる」という表現は、当初無かった。しかし、時間とともに釈迦に対して批判的な態度をとる弟子たちも現れてくるようになる。そこで、釈迦を尊敬されるべき人であり、従順であり愛情を注ぐべきであるという教えが登場することになる。更に釈迦の後継者に対しても信ずることが求められるようになり、これが自分の師に対する信を求めることになる。そして出家自体が「信」によるものでなければならないという考え方が一般的となる。
 「ダルマ」という言葉が「法」もしくは「道」と訳された。これは「人を人として保つもの」という意味である。これは普遍的なものであり、永遠に通用するものであるが、一人一人の人間に即して説かれるものであるため、固定した言葉や思想で語ることのできないものである。これは教えが無限に発展する可能性を持っているとも意味している。このため、「法」は教義として説かれるべきものではない。一見教義として説かれているように思えるものは、すべて「方便」である。仏が尊敬されるのも、この「法」を説くからである。これにより「法」そのものも「信」の対象となった。
 釈迦は孤独での修行を勧めていたが、次第に師の指導の下での集団生活が主流となってくる。その集団は「つどい」という意味の「サンガ」と呼ばれ「僧伽」と音写された。本来仏教限定の言葉ではなかったため「集団」「集会」「会議」「組合」「国家」「連合」「同盟」なども「サンガ」と呼ばれることがある。仏教では徐々に「サンガ」に神聖な意味を持たせるようになり「サンガ」そのものも「信」の対象となる。ただし「サンガ」それ自体に絶対的意義を認める傾向は強くはなかった。このため他の宗教に比べると、今に至るまで各仏教教団とも緩やかな人間関係の教団となっている。






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