|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史9

‐仏教の変遷1 原始仏教の形成‐

- 2019年11月27日
1. 最初期の仏教が目指したもの

 最初期の仏教は「最もバラモンらしいバラモン」となることを目指していた。バラモンとは「ヴェーダ読誦者の家に生まれヴェーダの文句に親しむ人」であり、そのバラモンの中でも「最もバラモンらしいバラモン」とは、次の5つの特徴を備えている者とされていた。

① 母方父方共に血統が清らかである。
② ヴェーダの奥義、語彙学、文字学、語源学、古伝説に精通している。
③ 容姿が端麗である。
④ 戒を保ち修めている。
⑤ 学者であり賢者である。

 本来、①にあるように、バラモンとは生まれによって決まるものである。血脈によって決まるカースト制度の中でも、最も高貴とされるバラモン階級は肌が白いとされ、それが③を意味している。これに対して釈迦は「バラモンは外に色があるのではない。バラモンは内に色がある。内に罪悪業のある者、―彼こそ〈黒色の者〉である」とし、バラモンの色とは肌の色ではなく行いによって決まるとしている。つまり、バラモンとは血脈によって決まるものではないとしているのである。また釈迦は、戒律や教義に固執することも、バラモン階級のようにヴェーダの読誦によって布施を得ることも禁じていた。つまり、②と④と⑤も否定しているのである。釈迦にとってのバラモンとは次のような存在であった。

① この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、―かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。
② 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、―かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。
③ 彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、―かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。
④ 障礙を滅して、目ざめた人。(後の「ブッダ」と同意語)

 つまり、釈迦は求めるべき聖者の在り方を「最もバラモンらしいバラモン」と呼ぶことで、出身階級としてのバラモンを否定したのである。ただし、バラモン教と対立し始めると「バラモン」ではなく「サマナ」(沙門)と呼ぶようになり、さらに「ブッダ」となっていった。

2. 最初期の仏教の生活形態

 仏弟子たちは、主として森や林に茅や木の葉で葺いた「庵」や洞窟の中で単独で生活していたため「隠遁者」や「仙人」と呼ばれていた。これはバラモンの修行者に倣ったものである。精舎(僧院)に仏弟子達が住むようになったのは、釈迦引退後の指導者であったサーリプッタが「さとりを得た者にとって住む場所がどこであろうが問題ではない」と主張したことに始まる。これによって釈迦の晩年には、いくつかの精舎に仏弟子が住むことになる。ただしこれはあくまでも住まいであって、後に仏弟子たちが修行するために造られた寺院のようなものではない。
 仏教には「仏となるための教え」という意味と「仏によって説かれた教え」という二つの意味がある。ただし、最初期の仏教では「仏によって説かれた教え」と「釈迦によって説かれた教え」は同じ意味ではない。釈迦が神格化される以前は、さとりを得た者はすべて「ブッダ」と呼ばれていた。このため、釈迦の弟子たちだけではなく、仏教以外の教えを説く聖者も、さとりを得たとされる者はすべて「ブッダ」と呼ばれていたのである。釈迦の下を離れ自らの教団を組織したデーヴァダッタも、その弟子たちから「ブッダ」と呼ばれていた。しかし、釈迦が神格化されて以降の仏教教団は、この世において釈迦以外の「ブッダ」を認めなくなり、仏教以外の宗教も「ブッダ」を用いなくなったため、「釈迦=ブッダ」となっていく。
 仏教の特徴は、内向的・内省的なものであるが、これはインド思想に共通するものである。この特徴は出来るだけ社会から離れ孤独になることを好む傾向をもたらす。特に仏教とジャイナ教は、人生の苦悩と絶望の表現が極度に昂揚され、厭世感が前面に現われていた。仏弟子の中に社会的に軽蔑された貧者、捨てられた孤独の女、子を失った母、遊女などが多くみられるのは、この傾向に同調しやすかったことが考えられる。もちろん社会的地位の高かった者も少なくないが、その多くが生きることに絶望した者であった。このような者たちにとって、この世のものすべてを捨て去って出家するということ自体が喜びであった。出家するということ自体は仏教独特のものではなかったが、仏教にとっての出家とは、老病死を常に意識し、どこまで行っても孤独な存在であるということを自覚することである。「善き友をもて」と、人との交わりを進める一方「真実のバラモンは人の来るのを喜ぶことなく、去るのを悲しむことなし」と、孤独であることを勧めている。このため、仏弟子たちは積極的に人々を遠ざけるようになり、結果、自然を楽しむようになる。しかし、教団が大きくなると、同じ方向性の仏弟子が共同生活するようになり、一般社会の人間関係を否定しながらも仏弟子同士でのルール作りが行われるようになる。さらに仏教が組織的な集団となっていくと、在家信者との間にも様々なルールが必要となってくる。つまり、仏教が出家者による集団から社会性を持った教団へと変化していったのである。ただし、最初期の仏弟子は積極的に布教を行うことをしない「隠者」であり、積極的に教えを説く「僧侶」ではなかった。


3. 教団の形成

 最初期において、釈迦のもとに集まった人々は「わが人」や、バラモンの学生を指す「マーナヴァ」、出家者である「仙人」、修行僧である「比丘」と呼ばれていた。また、在家出家を問わず「教えを聞く人」を意味する「サーヴァカ」(声聞)とも呼ばれていた。この時点では「仏弟子」という師弟関係は存在していない。教団が大きくなると修行者は「仏の実子」または「仏の実の娘」と呼ばれるようになるが、これは釈迦と弟子たちの関係が師弟関係というよりは家族のようなつながりであったことを示している。
 教団がさらに巨大化し祇園精舎のような建物が作られるようになると、各地を遍歴していた修行僧たちの一部は定住して集団生活をするようになる。これによって修行者と在家信者の間に社会における上下関係が生まれ、修行僧は「乞う人」・「道の人」(沙門、勤める人)・「出家者」、在家信者は「仕える人」と呼ばれるようになった。ただし仏教徒を指す固有の呼称はまだない。また、修行者が集団生活をすることで起こってきた様々な問題に対処するため、居住・衣食・行い・挙動・入団・追放に関する「律」が定められていった。数は少ないものの尼僧も存在したが、尼僧はたとえ年下の男僧であったとしても敬礼をしなければならないという「律」がみられることから、一般社会における習慣も引き継がれていたようである。釈迦の死後、尼僧は数を増し、一時は男僧に匹敵するほどにまでになる。
 教団(サンガ)が巨大化すると、修行者が共同生活することを肯定するための理由付けがされるようになる。一人で瞑想するよりも善き友と交わる方がよい、多くの修行僧が集まっていた方が在家信者にとって供養しやすい、釈迦の教えを一度に多くの者が聴くことができる、さらに、釈迦の死によって絶対的な指導者を失った仏教教団は、サンガそのものに権威を持たせるようになっていく。ただし、サンガには釈迦のように教えを立てる権限はなく、あくまでも釈迦が生前に説いていた教えを継承するものであった。このため、釈迦の死後に何かを決めなければならない時も、必ず釈迦が説いたということにするという決まりができる。
 アショーカ王の時代には「サンガ」は仏教教団を意味する固有名詞となる。このサンガは修行僧だけによって構成され、男僧と尼僧では別のサンガを構成していた。これにサンガを支える男性在家信者と女性在家信者を合せて「四衆」という。在家信者は修行僧に援助を与えるだけではなく、教えを聞くことにも努めていた。ただし、在家信者に今のような教団に対する帰属意識はなく、仏教以外の修行者にも援助を与えることが一般的であった。
 釈迦の教団に参加する人々の階級は様々であったが、教団内においては出家前の階級は否定されていた。代わりに重んじられたのは智慧と修養であった。修行者は互いに同行者と呼び、釈迦の死後は特定の師の下で受戒し師事するようになる。その師のことを親教師(和尚)または規範師という。教団に入るための年齢制限はなかったようであるが、最も若い者で七歳、最も高齢の者で百二十歳という記録がある。

4. 最初期の戒律

 最初期は「もろもろの教義を受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない」「バラモンは、他人に導かれるということがない。またもろもろのことがらについて断定をして固執することもない。それゆえに、もろもろの論争を超越している」として、あらゆる我執から離れること自体が教えであった。このことは、他の宗教が求める道徳的な行為の否定をも意味している。あらゆる執着から離れることの実践として、何も所有しないという「無一物」が理想とされた。「無一物」とはいっても全く何も持たないのではなく、衣と托鉢用の鉢は所有していた。尼僧はこれに加えて坐臥に敷く布と飲み水を漉すための水嚢も所持していた。
 常にあらゆる欲望を捨て去るために、心を制することを目的とした禅定と、独身禁欲の清浄行を実践することも求められた。ただし、禁欲とはいっても男僧が女性在家信者から布施を受けないわけにはいかなかった。後の仏教では、女人禁制の霊場もつくられたが、これは経済的な基盤を持っていたからであり、当時は托鉢による布施がなければ食を得ることはできなかった。そこで女性在家信者から布施を受ける時には、衣を正していなければならない、直接触れ合ってはならない、などの決まりが作られた。このように、一つ一つの行為に関する規定が定められ、これが後の「戒律」の基となるが、この頃はまだ体系化されていなかった。例えば次のようなものである。

① 盗みを行ってはならない。虚言を語ってはならない。弱いものでも強いものでも〔あらゆる生きものに〕慈しみをもって接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。
② 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いよいものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。
③ 知慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち克て。奥まった土地に臥す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。すなわち『わたしはなにを食べようか』『わたしはどこで食べようか』『〔昨夜は〕わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』―家を捨て道を学ぶ人は、これら〔四つの〕憂いに導く思慮を抑制せよ。
④ 適当な時に食物と衣服を得て、ここで〔少量に〕満足するために、〔衣食の〕量を知れ。かれは衣食に関しては恣ならず、慎んで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。
⑤ 〔生物を傷つけないように〕眼を下にむけて〔注視して歩み〕うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、おおいに目ざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ちきれ。
⑥ 他人からことばで警告されたときには、心を落ち着けて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならない。
⑦ またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
⑧ 愛欲があれば、〔汚いものでも〕清らかに見える。その〔美麗な〕外形を避けよ。〔身は〕不浄であると心に観じて、心を静かに統一せよ。
⑨ 他人を害(そこ)なう人は出家者ではない。他人を悩ます人は修行者ではない。
⑩ 眼で視ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間におけるなにものをも、わがものとみなして固執してはならない。苦痛を感じることがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄えてはならない。食物や飲料や硬い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらが得られないからとて心配してはならない。
⑪ 心を安定させよ。うろついてはならない。あとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならない。そうして修行者は閑静な座所に住まうべきである。
⑫ わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
⑬ 瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉兆の判断をともに捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。
⑭ 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称賛されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。
⑮ 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。
⑯ 虚言をなすことなかれ。知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても自分が他人よりすぐれていると思ってはならない。

 これらのことから、最初期の仏教でいう「解脱」とは、まったく揺るがない精神状態に到達したということではなく、生きているうえで起こる様々な場面において、その都度過ちを犯さないように気づかって生きることができる、ということであることが分かる。ただし、これらはバラモン教やジャイナ教でも説かれていることであり、世間で言われているものの中から、仏教に即しているものを選び取ったに過ぎない。どちらかといえば、仏教は戒律に固執することをきらっていた。それは「一切の戒律や誓いをも捨て、〔世間の〕罪過あり、あるいは罪過なきこの〔宗教的〕行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行なえ。安らぎを固執することもなく」という言葉から見て取ることができる。
 この頃から、修行者の食事は午前中に限られていた。ただし、自分のために調理された肉や魚でなければ食べることを禁じられていなかった。これはバラモン教とも共通している。当時のバラモン教で禁止されていた肉は、人肉・象肉・馬肉・犬肉・蛇肉・獅子肉・ハイエナの肉であり、今日禁止されている牛肉は含まれていない。ただし、食材に関わらず、美食や必要以上の食事を得ることは禁じられていた。
 衣類は、最初期の仏教ではボロ切れを集めて作った塵衣(補綴衣、糞掃衣)をまとっていた。これはカサーヤとも呼ばれ、袈裟と音写されていが「汚れたもの」「穢いもの」という意味で、最下層の賤民(チャンダーラ)や猟師が身につけていた衣服である。これは仏教独自のものではなく、バラモンをはじめ当時の出家修行者が身につけていたものを踏襲していたにすぎない。この布切れも貰うことを禁じており「ごみため、墓場、または街路」から拾ってきたものに限られてた。また、色に制限もなかった。しかし、釈迦が死亡し教団が勢力を拡大してくると、四角い立派な衣を用いるようになる。かなり初期の段階でも「三衣」と言われる重衣・上衣・内衣を持つように規定され、色もサフラン色のものを用いたらしい。托鉢の時は内衣を身につけ上衣と鉢を携えると決められていた。
 このように衣食住に関する修行を頭陀というが、後に整理された十八の頭陀行を見ると時間と共に衣食住が変化していったことが分かる。その十八とは以下の通りである。

① ボロ布でつづった衣を着る者
② 托鉢して食物を得る者
③ 三種の衣だけを所有する者
④ 家の貧富を選ばずに托鉢する者
⑤ ひとつの席で食事する者
⑥ 托鉢食だけを食べる者
⑦ 過食しない者
⑧ 森に住む者
⑨ 樹下に住む者
⑩ 戸外に住む者
⑪ 墓地に住む者
⑫ 指定された場所に満足して住む者
⑬ 坐ったままで横臥しない者
⑭ 欲の少ない者
⑮ 足ることを知る者
⑯ 遠離の生活を楽しむ者
⑰ 人々と交遊しない者
⑱ 精進努力する者

 ここにあるように、最初期は洞窟や森に住んでいたが、次第に精舎と言われる建物に住むようになり、在家信者に精舎の寄進を求めるようになってきた。ただし、修行者を身分によって限定せずすべての人に門戸を開くという姿勢は保持された。これを「四方の人」というが、唐招提寺の「招提」はこの「四方の人」を意味している。
5. 教団の発展と変容

 教団が巨大化すると様々な問題が起こってきた。まず、初期の段階から問題となったのが、修行者の中に好ましからざる者がいたことである。それは「荒々しいことばを語る」「論争を楽しむ」者であった。その様な者を「籾殻を吹き払うように除き去るように」教団から排除することを勧めている。釈迦の死後、教団内の乱れは大きくなっていった。「だらけた人々」として非難されたのが「うわついていて、心騒がしく、ざわざわしていて、おしゃべりで、べちゃべちゃしゃべくり、心の落ち着きがなく、しっかりと気をつけていないで、心の統一もなく、心が散乱し、だらけていた」修行者である。かれらは「食べては、食べては、横になり、他人の家の富に心奪われ」ていたという。他にも、修行者の堕落した様子は次のように述べられている。

① 腹がふくれるほどに食べて、背を下にして臥している。
② 雑談をする。
③ 修行者であるにも拘らず職人の技術を習得する。
④ 様々なものを在家者に渡して返礼を求める。
⑤ 修行者以外の者のようにふるまう。
⑥ 様々な手立てによって財を蓄える。
⑦ 業務を作りだすために会議を開く。
⑧ 自分の利益のために法を説く。
⑨ 他人からの利得によって生活していながら恥じることがない。
⑩ 修行もしないで、利得や供養を得ることにうつつをぬかし、尊敬されることだけを求めている。

 釈迦の死後、仏教教団は次第に巨大になり、全盛期には大国の王族に匹敵するほどの勢力を誇っていたという。この頃になると、生活のために教団に入る者さえ現れた。教団も教団維持のために利益を追求するようになる。このような風潮に心痛める者も多かった。かれらは教団を次のように伝えている。

① 怒り、また恨み、〔己の悪を〕覆い、強情で、偽り、嫉妬し、異なった言語を語る者が多い。
② 会議に際しては、たとい徳がなくとも、巧みにいいまくる饒舌無学の輩が有力となる。
③ 智慧劣った輩は金・銀・田地・宅地・山羊・羊・奴婢を愛好する。
④ 愚かで、怒りやすく、戒行に専念せず、傲慢で、争闘を楽しみとする獣〔のごとき輩〕が横行する。
⑤ 詐りの心あり、無情冷酷で、しかも弁舌巧みに交際のうまい者が、貴人のごとくに闊歩する。

 このような声が起こる中で、教団は修行者の所行を反省するよりも、在家信者に対して「僧侶を尊崇せよ」と信仰と尊敬を強要していった。教団の発展維持のためには経済的な基盤を強化することの方が大切だったのである。僧侶に対する反発を抑えるために「僧侶を害すると地獄に堕ちる」という脅しが使われるようにまでなる。このような権威主義は教団内部での対立を生むが、一方で分派に対しては否定的な意見が強かった。それは、釈迦存命中に起こったデーヴァダッタによる教団分派があったからである。
 アーナンダの兄弟とも釈迦の義弟と伝えられているデーヴァダッタが釈迦を害そうとしたというのは後につくられた話である。釈迦の最晩年、教団がますます巨大化していく中、サーリプッタやモッガラーナも高齢のため引退し、アーナンダが指導者となっていた。この時、仏弟子達の集会でデーヴァダッタが五ヵ条の要求をし、アーナンダに決議を求めた。この五ヵ条の内容は経典によって異なっているが、古い経典である『四分律』には次のように書かれている。

① 修行者は林に住み村に入らないこと。
② 乞食行者であり続けること。
③ 塵衣だけを纏うこと。
④ 樹木の根を住処とし屋根のあるところに住まないこと。
⑤ 肉や魚を食べないこと。

 これらは「過去の諸仏が讃嘆し、聴した」とされている伝統的な戒律である。これをデーヴァダッタが求めたということは、この頃の仏教が「在家信者が寄進した布を着けること」「乞食以外に招待された食事をすること」「精舎のような家の中に住むこと」「見・聞・疑の肉以外は食べてもかまわない」としていたためである。採決ではデーヴァダッタが多くの支持を集めたが、アーナンダはこれを拒否したという。そこでデーヴァダッタは自分に賛同した修行者達を連れて釈迦の下を離れて行ったため、釈迦の教団は分裂してしまった。釈迦が存命中とはいえ、引退して時間が経過すると、伝統的な宗教観を持った弟子たちの割合が増え、教団内の統一がとれなくなっていたと考えられる。
 釈迦の死後、この傾向は顕著になるが、分派による混乱を繰り返さないために、教団の維持・統制を目的とする多くの戒律がつくられていった。






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