|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史8

‐釈迦伝説5 釈迦最後の旅‐

- 2018年12月13日
1. 釈迦最後の旅の記録


 原始仏教経典は、仏弟子のためにつくられたものであるため、暗唱しやすい様に釈迦の教えの部分だけを短く編集したものが多い。釈迦最後の旅を記録した『大パリニッバーナ(大いなる死)経』とこれに対応している経典群は、釈迦の日常をうかがい知ることができる希少な経典である。
 この時、釈迦は八十歳であった。当時のインドでの平均寿命を知ることはできないが、縄文人の平均寿命が十四歳、室町時代は二十四歳、江戸時代は三十五~四十一歳、明治二十五年時点でさえも四十三歳であったことを考えれば、かなりの高齢であるといえる。この数年前には、釈迦の教団を束ねていたサーリプッタとモッガラーナが相次いで自らの故郷で死去している。マカダ国の首都ラージャガハの北東にある〈鷲の峯〉(霊鷲山)に滞在していた釈迦は、二人の弟子と同じように自分の故郷である故郷カピラヴァットゥへの旅を始めた。しかし三百㌔以上にも及ぶ無謀とも思える旅の途中、釈迦は故郷にたどり着くことなくクシナ―ラーという村で死を迎えている。これが釈迦最後の旅となった。経典には多くの修行僧を伴って旅をしたとあるが、釈迦の身の回りの世話をしていたアーナンダ以外の名前が出てこないことから、実際には二人での旅であったと思われる。これは釈迦が隠居の身であったことを示している。

2. 組織を継続させるための七箇条


 旅立ちの前に、釈迦はマカダ国のアジャータサットゥ王からの「ヴァッジ族を攻めてよいか」という相談に答えている。ヴァッジ族は小国であったが、共和制の自由主義都市国家として栄えていた。王の使いとして釈迦のもとを訪れた大臣に対して、釈迦はこの問いに直接答えることなく、アーナンダに次の七箇条をヴァッジ人が守っていることを確認している。

① ヴァッジ人は、しばしば会議を開き、会議には多数の人々が参集する。
② ヴァッジ人は、協同して集合し、協同して行動し、協同してヴァッジ族としてなすべきことをなす。
③ ヴァッジ人は、いまだ定められていないことを定めず、すでに定められたことを破らず、往昔に定められたヴァッジ人の旧来の法に従って行動する。
④ ヴァッジ人は、ヴァッジ族のうちの古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうしてかれらの言を聴くべきものだと考えている。
⑤ ヴァッジ人は、良家の婦女・少女をば暴力をもって連れだし拘え留めることをなさない。
⑥ ヴァッジ人は、内外のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前になされた、法に適ったかれらの供物を廃することがない。
⑦ ヴァッジ人は、真人たちに、正当の保護と防禦と支持とを与えてよく備え、いまだこない真人たちが、この領土に到来するであることを、またすでにきた真人たちが、領土のうちに安らかに住まうであろうことをねがう。

 この七箇条は、かつて、釈迦がヴァッジ人に国が衰亡しないために説いた法であるという。アーナンダは現在もこれらの法が守られていと釈迦に答えた。これを聞いた大臣は、自らの判断でヴァッジ族に攻め込まないことを決めている。このように、相手の質問に直接答えることなく、原則や事実を述べることによって、自分で答えを見出させるという教示法は、今でも仏教で広く行われている。また、この七箇条の内容は、個々の立場や伝統を尊重することを勧めているものとなっている。この七箇条が、漢訳されると中国の社会習慣に合うように変更される。例えば、②は「臣君は和順し、上下は相い敬う」となり、③は「禁戒を護持し、および礼節を持つ」、④は「父母に孝にして事え、師長を敬い順う」、⑥の「霊域」は「宗廟」となり、⑤にいたっては全く違う内容に変えられている。

3. 旅先での説法


 旅に出た釈迦は、訪れた先々で歓迎され、招待してくれた信徒たちに説法をしている。最初に立ち寄ったパータリ村では、戒めを守らないことによって受ける禍と、戒めを守ることによって得られる利益を話している。戒めの具体的内容は残されていないが、ヴァッジ人に説いた内容と同じようなものであると推測される。少なくとも、後の仏教の「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」という五戒のような整理されたものではなく、その村の人々に合わせて説かれたものであったと思われる。
 パータリ村を出てから、釈迦はガンジス川を渡っている。この時、釈迦が「沼地に触れないで、橋をかけて、〔広く深い〕海や湖を渡る人々もある。〔木切れや蔓草を〕結びつけて筏をつくって渡る人々もある。聡明な人々は、すでに渡り終わっている。」とひとりつぶやいたという。仏教がさとりの境地を「彼岸」に例えるのは、この言葉によるとされている。
 川を渡った釈迦は、コーティ村、ナーディカ村を通って商業都市ヴァイシャーリーに入っている。この都市はヴリジ族の一部族であるリッチャヴィ族の首都である。一説では、リッチャヴィ族の先祖はペルシャ人や蒙古人の流れをくんでいたとされている。これは、彼らが階級的秩序を全面的に否定するなどの特殊な習俗を持っていたからである。小国でありながらその生活は豪華を極め、様々な人種が住んでいたヴァイシャーリーには金塔を持つ七千の家と、銀塔を持つ一万四千の家と、銅塔を持つ二万一千の家があったという。地上の天国とも言われたこの国は、大国であるマカダ国と幾度も戦を交えている。釈迦の弟子の中でも異色を放つ遊女アンバパーリー女(マンゴーの樹林を守る女)はこの町の住人である。この時、釈迦はアンバパーリーのマンゴー林に滞在している。リッチャヴィ族の貴族がアンバパーリーに釈迦の滞在先を譲るように迫ったが、アンバパーリーは貴族の車に自分の車をぶつけて阻止したという。釈迦を自分の土地に滞在させるということは、それほど名誉なことであった。その滞在先として遊女の所有する林を選んだということは、釈迦が社会的な職業の貴賤を問題としていなかったことを表している。ここで釈迦は戒律に関する説法を行っているが、これは彼女の職業と矛盾しているようにも思われる。後の仏教が不邪淫を戒律の一つに数えているが、この当時、遊女の行為は戒律に触れるとは考えられていなかったのである。この林に二日間滞在して釈迦はベールヴァ村に向かった。
4. 瀕死の病とその後の釈迦の教え


 釈迦は、このベールヴァ村で雨期を過ごしている。仏教に限らず、インドでは雨期の間、修行者は旅に出ることはもちろん外出することもせず、家の中に閉じこもるのが習慣でった。これにならい、釈迦はアーナンダと二人でこの村のバラモンの家で供養を受けている。この時、釈迦は病にかかり死ぬほどの激痛に襲われた。病からは回復したものの体力を失った釈迦は、自らの死期が近いことを知る。そこで、アーナンダは釈迦に最後の説法を懇請した。その一部が次の言葉である。

 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた車が靴紐の助けによってやっと動いていくように、おそらくわたくしの身体も靴紐の助けによってもっているのだ。しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく若干の感受を滅ぼしたことによって、相のない心の統一に入って止まるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。それゆえに、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな。

 最後の一文が「自灯明法灯明」の原文である。この説法の結論もこの言葉によって終わっている。

 アーナンダよ。いまでも、またわたくしの死後にでも、だれでも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう―だれでも学ぼうと望む人々は―。

 雨期が終わると、釈迦は一旦ヴァイシャーリーに帰っている。ここでチャーパーラ霊樹のもとで休息した釈迦は次のようにアーナンダに告げている。

 ヴリジ族の土地・ヴァイシャーリーは楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。七本のマンゴー樹のある霊樹の地は楽しい。葉の繁った霊樹の地は楽しい。ガウタマと名づけるパニヤン樹は楽しい。サーラ(沙羅)樹の林は楽しい。〈マッラ族の荷をおろしたところ〉という霊樹の地は楽しい。〈猿池の堤〉という霊樹の地は楽しい。世界は美しいもので、人間の生命は甘美なものだ。

 仏教では人生を「一切皆苦」と認識するとされているが、釈迦はここで「世界は美しもので、人間の生命は甘美なものだ」と語っている。
 チャーパーラ霊樹に滞在している時に、悪魔が釈迦に入滅をすすめ、釈迦はこれを受け入れ、三ヶ月後に入滅することを悪魔に約束したと経典に書かれている。さらに、釈迦が入滅を約束したために、大地震が起きたという。釈迦が神格化された原始仏教の段階で、神にも等しい存在である釈迦の死を説明することが難しくなったために、このような一文が付け加えられたのであろう。
 釈迦はヴァイシャーリーを出るとバンダ村に向かった。ここで修行僧たちに、戒律と精神統一と智慧と解脱が重要であることを説いている。バンダ村を出ると商業都市であったボーガ市におもむき、やはり戒律などの重要性を説いている。出家僧や在家を問わず、相手に合わせた戒律を守るということが、釈迦の教えの基本であった。

5. チュンダと釈迦の下痢


 ボーガ市の次に釈迦が訪れたのがパーヴァーである。ここで鍛冶工の子であるチュンダのマンゴー林に滞在する。自分のマンゴー林に釈迦が滞在していることを知ったチュンダは、釈迦のもとを訪れ説法を受けている。この教えに「諭され、激励され、喜ばされ」たチュンダは、翌朝の食事を受けてくれるように釈迦に願い出ている。釈迦がこれを受け入れると、チュンダは夜の間に「美味なる噛む食物・柔らかい食物と多くのきのこ料理」を用意した。翌朝、アーナンダとともにチュンダの家を訪れた釈迦は次のようにチュンダにいわれたという。

 「チュンダよ。あなたの用意したきのこ料理をわたしにください。また用意された他の噛む食物・柔らかい食物を修行僧らにあげてください」と。「かしこまりました」と、鍛冶工の子チュンダは尊師に答えて、用意したきのこ料理を尊師にさしあげ、用意した他の噛む食物・柔らかい食物を修行僧らにさしあげた。そこで尊師は、鍛冶工の子チュンダに告げられた。「チュンダよ。残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンのあいだでも、また神々・人間を含む生きもののあいだでも、世の中で、修行完成者(如来)のほかには、それを食して完全に消化し得る人を、見出しません」と。

 この後、釈迦はチュンダに修行者には四種類あるという説法をしている。

① 道による勝者  疑いを超え、苦悩を離れ、安らぎを楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人
② 道を説く者  この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを断ち欲念に動かされない聖者
③ 道によって生きる者  みごとに説かれた〈理法にかなったことば〉である〈道〉に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人
④ 道を汚す者  よく誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心がなく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者

 これは在家信者が修行者を判別するための教えである。鍛冶工はシュードラに属する身分であるが、遊女アンバパーリーと同様に、マンゴー林を持つほどの財力を持っていたことが分かる。一方で、財力は持っていても、十分な教育を受けていなかったことも確かである。このような遊女や鍛冶工のような人々にも、釈迦は相手に合わせて説法を行っていた。
 説法を行った後、釈迦はきのこ料理の毒に当たって鮮血を伴う激しい下痢に襲われている。この状態で釈迦はアーナンダと共にクシナーラーへ向かっている。これはかなり無理な旅であったようで、途中、アーナンダに外衣を四つ折りにして木の根元に敷かせると、そこに座り込んでしまってる。その座っている姿のあまりの美しさに、通りかかったマッラ人のプックサは思わず足を止めて釈迦に語りかけた。プックサは、釈迦の師の一人であるアーラーラ・カーラーマの弟子であり、マッラの大臣でもあった。プックサは釈迦の座っている姿がアーラーラ・カーラーマと同じであると釈迦に語りかけ、釈迦もプックサに「友よ」と呼びかけ瞑想の境地を伝えた。これを聞いたプックサは釈迦の弟子となることを申し出ると、金色の衣を釈迦に寄進した。
 この後、カクッター河に着いた釈迦は河の中を歩いて渡っている。ただし、河に入る前と河を渡った後に、外衣を敷いてもらって横になっている。経典は「獅子のように臥し」たと伝えているが、かなり衰弱していたことが見て取れる。


6. 釈迦最後の場所

 
 クシナーラーに着いた釈迦はアーナンダに次のように告げたという。

 さあ、アーナンダよ。わたくしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)のあいだに、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたくしは疲れた。横になりたい。

 この時、にわかに沙羅双樹に花が咲いたという伝説があるが、これは後の脚色である。釈迦の死が近いことを知ったアーナンダは涙を流して泣いたという。これを見た釈迦は次のような言葉をアーナンダにかけた。

 やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。わたくしは、あらかじめこのように説いたではないか、―すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるにいたるということを。およそ生じ、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破壊しないように、ということが、どうしてあり得ようか。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。おまえは、長いあいだ、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころの行為によって、向上し来たれる人(釈迦)に仕えてくれた。アーナンダよ、おまえはよいことをしてくれた。勤めはげんで修行せよ。速やかに汚れのない者となるだろう。

 この釈迦のことばを聞いた後、アーナンダは伏せている釈迦のもとに集まってきたマッラ族の人々に対して「尊師に敬礼せしめた」という。しかし、次々と訪れるマッラ族の人々一人ずつを釈迦に合わせていてはきりがないため、家族ごとにまとめて釈迦に敬礼させた。まさに釈迦が最後の時を迎えようとしている時、遍歴行者のスバッタという者が釈迦に面会を求めてきた。しかし、アーナンダはこれを三度拒否している。これはスバッタが興味本位で釈迦に会いたがっていると気づいたからである。しかし釈迦はスバッタに面会を許可している。スバッタは釈迦に六師外道などの諸師たちの教義を知っているのかという質問をした。これに対して釈迦はそのような知的関心でしかない質問は答えるに値しないと言って、自分が何を求めて出家し、どのような歩みをしてきたのかを説いたという。他人を言いくるめるための教えではなく、いかに正しく生きるかが大切であることを説いたのである。これを聞いたスバッタは感激し、死にゆく釈迦に弟子となることを求めた。ここにスバッタは釈迦最後の弟子となったのである。
 釈迦最後の言葉とされるものには次の様なものがある。

① アーナンダよ。あるいは後におまえたちはこのように思うかもしれない。『教えを説かれた師はましまさぬ。もはやわれわれの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。おまえたちのためにわたくしが説いた教え(ダンマ)とわたくしの制定した戒律(ヴィナヤ)とが、わたくしの死後のおまえたちの師となるのである。
② さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』。

 二通りの最後の言葉が残されているのは、釈迦の弟子の中にもいくつかの見解があったことをあらわしている。この後釈迦は息を引き取るが、釈迦が瞑想状態から徐々に涅槃に入っていったとされるのは、後に付け加えられたものである。
 釈迦が亡くなった日時は記録に残っていない。ただ『遊行経』では、釈迦の誕生日も出家の日もさとりを開いた日も亡くなった日も、すべてインド歴の二月八日としているため、南伝仏教ではこの日を盛大に祝っている。日本では仏教の影響で命日を大切にする習慣があるが、インドでは仏教とジャイナ教だけが命日を大切にしており、ヒンズー教にはこのような習慣はない。

7. 火葬と遺骨の分配


 クシナーラーの住民であるマッラ族の人々によって釈迦の葬儀は行われた。マッラ族の人々は、釈迦の遺体の前に天幕を張り、そこで踊り、歌い、音楽を奏で、花輪を捧げ、香料を捧げた。このような葬儀は日本では見ることはないが、今でもインドで見ることができる。このような葬儀を七日間行った後、釈迦の遺体は新しい布で包まれ、その上から綿によって包まれ、更にその上から新しい布で包まれた。古い経典には、このようにして五百重の布で包まれたと書かれている。このように布にくるまれた釈迦の遺体は、油を満たした鉄の棺に入れられ、あらゆる香料を含む薪の上に載せられた。釈迦の火葬に立ち会った弟子は、アーナンダの他に、釈迦の臨終に間にあったアヌルッダ(阿那律、十大弟子の一人で天眼第一とされる。釈迦の従弟)と、火葬に駆け付けた大カッサパ(大迦葉または摩訶迦葉。十大弟子の一人で頭陀第一とされる。釈迦の死後教団を継承したため仏教の第二祖とも言われる)の三人だけである。火葬の後、釈迦の遺骨はマッラ族の公会堂に安置され、踊りと歌と音楽と花環と香料によって供養された。
 釈迦の死を知った、マカダ国のアジャータサットゥ王、ヴァイシャーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァットゥのシャカ族、アッラカッパのブリ族、ラーマ村のコーリャ族、ヴェータ島のバラモン、パーヴァーのマッラ族は、クシナーラーのマッラ族のもとに使者を送り、遺骨の分配を求めた。しかし。クシナーラーのマッラ族は、自分たちが火葬を行ったのであるとしてこれを拒否した。これを、ドーナというバラモンが、釈迦が争うことを望むはずはないといって仲裁し、遺骨を八等分し、ドーナ自身は遺骨が納められていた瓶を受け取ることになった。この後、ピッパリ林にいるモーリヤ族が遺骨を分けてもらいに来たが、既に分配が終わっていたため、灰を持ち去ったという。これによって八つの仏舎利塔、瓶塔、灰塔がそれぞれの地につくられた。この仏舎利を後にアショーカ王が掘り出して、八万四千に分けてインド全土に仏舎利塔を建てたといわれている。この内の一つと思われる仏舎利が一八九八年にネパールとの国境に近いインド領のプラーワー古墳から発見され、タイの王室に譲渡されている。この一部が明治三十三年に日本に送られ、名古屋の覚王山日泰寺に納められており、現在では十九宗派の管長が交代で管理している。






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