|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史7

‐釈迦伝説4 釈迦と信徒たち‐

- 2018年12月13日

1. ビンビサーラ王の帰依



 出家後すぐにマカダ国のビンビサーラ王に会いに行った釈迦は、さとりを開いたならば再び訪ねて来るようにと王から言われていた。約束通り、釈迦は三人のカッサパとその弟子たちを伴って、マカダ国に向かっている。
 マカダ国の首都ラージャガハ(王舎城)郊外に〈杖(ラッティ)の林園〉と呼ばれる林があり、そこに善住(スパティッタ)という霊樹(チェーティヤ)が木陰をつくっていた。そこに滞在していた釈迦を、ビンビサーラ王は十二万人のバラモンと資産家を伴って訪ねたという。この時の様子を『律蔵』は次のように記している。
 かれらマカダ国の十二万のバラモン・資産家たちも、あるものどもは尊師に敬礼して一隅にすわり、あるものどもは尊師と挨拶を交わし、親しみあり礼儀正しいことばをかけて一隅にすわり、あるものどもは尊師がおられるところに合掌を捧げて一隅にすわり、あるものどもは尊師の前で姓名を名のって一隅にすわり、あるものどもは沈黙したままで一隅にすわった。
 この記述から、ビンビサーラ王が連れてきた人々すべてが釈迦を快く思っていたわけではないことが分かる。出家者としては無名の釈迦に対して、三人のカッサパの中でも特に長男とされるウルヴェーラ・カッサパの名前は広く知れ渡っていた。そこで、十二万人のバラモンと資産家たちに次のような疑問が起こったという。

 いったい大修行者(釈迦)がウルヴェーラ・カッサパのもとで清らかな修行を行っているのであるか、あるいはまたウルヴェーラ・カッサパが大修行者のもとで修行を行っているのであるか?
 そこで釈迦は十二万人のバラモンと資産家の前で、ウルヴェーラ・カッサパと問答をしている。
 釈迦:ウルヴェーラの住人よ。〈〔苦行によって〕痩せた人〉と秩(ちつ)するあなたは、なにを見て聖火を捨てたのですか?カッサパよ。わたしはあなたにそのわけを聞きたい。なぜあなたは聖火を捨てたのですか?
 カッサパ:祭祀は色形も声も味もまた愛欲や女も説きます。生存の制約であるこれらいずれの要素についても、それは汚れであると知ったからでして、祭りをも供犠をも楽しまなくなったのです。
 釈迦:カッサパよ。ここであなたの心は、色形にも声にも味にも楽しみませんでした。ではカッサパよ。神々と人間との世界においてあなたの心が楽しんでいるのはなぜなのか、わたしにそれを語ってください。
 カッサパ:静けさの境地 ― こだわりなく、無一物で、欲望にとらわれた状態に執着せず、変異せず、変異させられることもない、 ― を見おわって、それゆえにわたしは祭祀をも供犠をも楽しまなくなったのです。

 この問答を終えると、ウルヴェーラ・カッサパは、上衣を一肩につけて、釈迦の足に頭面をつけて礼拝し「尊い方よ、世尊はわたしの師であり、わたしは弟子でございます」と告げたのである。これによって、その場にいたすべての人が釈迦を偉大な指導者であると認めることになった。釈迦は十二万人を前にして教えを説き、その場にいたすべての人に「塵なく汚れのなくなった真理を見る眼が生じた」という。ビンビサーラ王は、在家信者となる許しを釈迦に願い出ると同時に、朝の食事を受けてもらえないかと告げた。釈迦はこれを沈黙によって承諾した。そこで王は「村から遠からず、近すぎず、往来に便利であって、すべて希望する人々が往きやすく、昼は喧騒少なく、夜は音声少なく、人跡絶え、人に煩わされることなく、瞑想に適しているところがよい」と、ラージャガハの北側の池の傍らにあった「竹林園」を釈迦に寄進した。これが釈迦教団の拠点となった「竹林精舎」である。さらに、ビンビサーラ王は八万の村の村長に釈迦の教えを聞くよう命令した。ビンビサーラ王は後に子供であるアジャータサットゥに殺されるが、父殺しの罪悪感に苦しんだアジャータサットゥも釈迦に救われ熱心な支持者となる。

2. シャカ族の帰依


 釈迦はこの後、故郷のカピラヴァットゥに帰っている。ここで父や義母、息子、義弟たちと再会してるが、古い経典にはこの出会いに関しては書かれていない。また、さとりを開いてから何年後に故郷に帰ったのかも、仏典により二年後、六年後、十二年後と異なっているためはっきりしていない。親族をはじめ、多くのシャカ族が弟子入りし、また在家信者となっていることからも、さとりを開いた釈迦を歓迎していたことは間違いないが、すべてのシャカ族がそうであったわけではない。シャカ族のコーマドゥッサ村を早朝の托鉢に訪れた釈迦に対して、この村の公会堂に集まっていたバラモンと資産家たちは「あの禿げ頭の修行者はだれだい。公会堂の決まりを知っているのだろうか?」といったという。公会堂の決まりとは、公会堂で集会が行われているときには、邪魔にならないように正面から入らないということである。この言葉は、釈迦を快く思っていなかった人たちがいたということと同時に、釈迦が「社会的な決まり」を守る意思がなかったということを表している。ちなみに、この時釈迦は公会堂の中にいたバラモンと資産家に対して、次のように呼びかけたという。

 善き人々のいないところは集会ではない。法を語らない人々は〈善き人々〉ではない。貪欲と怒りと迷いを除いて法を語る人々こそ〈善き人々〉なのである。

 ちなみに、カピラヴァットゥのシャカ族は新しく建てた公会堂を釈迦のために提供している。釈迦や弟子たちが、雨期である安居の時以外に建物を居住とすることは珍しかった。シャカ族の近くに住んでいたマッラ族も、同様に新しく建てた公会堂を釈迦に提供している。この公会堂が漢訳され「講堂」となる。
 釈迦が一人息子であるラーフラを出家させたことが、後に教団外から非難され、教団内でも問題視されることになる。ラーフラとその母、釈迦の父がラーフラの出家を望んでいなかったにもかかわらず、釈迦は出家させてしまう。さらに、ただ一人の義弟であるナンダまでも出家させたため、血縁が切れてしまうことになった。このことから、後の仏教教団には「父母が許さなければ、子を出家させてはならない」という規定ができることになる。
 故郷を離れた釈迦はラージャガハに帰るが、この時滞在したのはラージャガハ郊外の「寒林」であったとされる。「寒林」とは、墓標がある遺体置き場である。

3. コーサラ国の在家信者


 釈迦がさとりを開いた年に即位したコーサラ国のパセーナディ(波斯匿)王は、年齢も釈迦と同じであった。マカダ国のビンビサーラ王の妃コーサラ・デーヴィー(韋提希夫人)は、この王の実妹とされている。パセーナディ王も釈迦の有力な在家信者となっている。王には複数の妃がいたが、その一人が造園師の娘マッリカー(末利、勝鬘)夫人である。聖徳太子が講義をした『勝鬘経』はこの夫人が釈迦の代わりに教えを説いているという経典である。この経典は後に創作されたものであるが、彼女が熱心な釈迦の信徒であったことは事実と思われる。王とこの妃との間に生まれたヴァジラーという娘は、後にマカダ国のアジャータサットゥ(阿闍世)王に嫁している。また、ヴァーサバ・カッティヤー夫人はシャカ族であるが、母親が奴隷であったとされる。彼女の子であるヴィドゥーダバは後に父であるパセーナディ王が釈迦と懇談している間に王位を奪ってコーサラ王となり、父をマカダ国に追放すると、シャカ族をも滅ぼすことになる。
 釈迦には、多くの資産家が信徒となっていたが、その中でも知られているのがコーサラ国の首都サーヴァッティー(舎衛城)のスダッタ(須達多)である。スダッタとは「よく施した人」という意味である。「孤独な人々に食を給する人」を意味するアナータピンディカとも呼ばれ、漢訳では「給孤独長者」とされている。古い伝説では、マカダ国のラージャガハに商用で出かけた際に釈迦の教団を見かけ、その崇高な姿に心を打たれて帰依したスダッタが、釈迦をコーサラ国に招いたとされている。スダッタは、パセーナディ王の太子であるジェータ(祇陀)が所有していた二万坪もの「ジェータの園林」(祇陀園)を買い取り釈迦に寄進した。この時、土地の買取を望んだスダッタに対して、ジェータは「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と戯れで言ったところ、スダッタが本当に金貨を敷き詰め始めたため、ジェータ太子は驚いて、そのまま土地を譲渡し更に自らも樹木を寄付したという。そのため、この土地はジェータ太子とスダッタの名から「祇樹給孤独園」と呼ばれ、そこに建てられた精舎を「祇樹給孤独園精舎」という。日本でも「祇園精舎」として知られている。 サーヴァッティーは北インドの交通の要所であることから、竹林精舎と並んで釈迦が長く滞在した場所でもある。特に雨期の安居は大半ここで過ごしている。現在は荒廃しているが、十二世紀までは存続していた。
 スダッタの妻はスジャーターといい、彼女の姉が「鹿子母」という別名でも呼ばれるヴィサーカー(毘舎佉)である。わがままであったヴィサーカーのために釈迦が説いた『玉耶経』は、心の美しい女性になることを勧める経典で、江戸時代までは良家の娘が嫁ぐときに持たされていた。彼女が釈迦に寄進したとされる鹿子母講堂は、釈迦が説法をする講堂の他に、一階と二階それぞれに五百もの部屋があったといい、安居に使われたとされている。
 『摩訶僧祇律』という経典には次の様な物語も説かれている。釈迦の弟子を襲った五百人の盗賊が捕らえられ処刑されることになった。これを聞いた釈迦は国王に「国王は、民を慈しむこと子に対するがごとくであらねばならぬのに、どうして五百人も殺すのか」と伝えるようにアーナンダに告げたという。これを聞いた王は「人を殺すことがよくないことは知っているが、彼らは国内の村を襲い掠奪していたのである。もし、お釈迦さまが、二度とこのような行いをしないと保証するならば釈放します」と答えた。そこで、釈迦は彼らを弟子とし、出家させたという。これが事実であるのかは分からないが、玄奘がインドを訪れた時、この物語の場所は「得眼林」として残されていたという。『律蔵』では盗賊が出家することを禁じているが、釈迦の頃には凶賊アングリマーラまでも弟子としていることから、誇張された部分があったにせよ、このようなことがあったとしてもおかしくはない。
 コーサラ国出身の比丘や比丘尼、信者が非常に多かったことは経典にも記されているが、その多くがバラモンとバイシャの者であり、クシャトリヤやシュードラは少ない。コーサラ国周辺はバラモンの本拠地であり、これを意識して釈迦はあえて四姓平等を説いた。このため、バラモンからの強い抗議を受けたが、このことが逆に多くのバラモンを仏教に改宗させる結果となったのである。また、大都市では商人が力をつけてきていたことから、長者と呼ばれるバイシャ階級の富裕層の支持を得ることも重要であった。一方、人口で多数を占める農民層であるシュードラには広まらなかった。このことが、後の仏教衰退につながる。また、釈迦自身がクシャトリヤ出身であるにもかかわらず、王族以外のクシャトリヤの支持も得ることができていない。多くのクシャトリヤが四姓に対して強いこだわりを持っていたことと、非暴力の教えが受け入れがたかったことが理由として考えられる。
 仏教が勢力を持ってくると、これをねたむ者も多くあらわれた。チンチャ・マーナヴィカーという女性遍歴行者は、釈迦をねたむ修行者達から頼まれ、釈迦と夜をともにし子供を身ごもったといって腹に丸い板を結びつけて釈迦を陥れようとしたが、風が吹き丸い板が落ちてしまったために嘘がばれてしまったという。スンダリーという女性遍歴行者は仲間と共に祇園精舎に赴いたところ、仲間から殺されてしまった。釈迦を陥れようとした修行者たちは、彼女が釈迦の教団の者に強姦され殺されたと流布したが、これもすぐにその嘘がばれてしまったという。

4. その他の地域の信徒


 マカダ国とコーサラ国が釈迦の主な活動地域であるが、これ以外の地域にも釈迦の信徒はいた。
 ヴァンサ(Vatsa)国の首都コーサンビーでは、王と妃が釈迦に帰依し、仏教以外の宗教を駆逐している。ヴァッジ(Vrijji)族が住んでいたヴァッグムダー川のほとりに住んでいた漁師五百人を帰依させ、出家させたという話を伝えている古い経典もある。後の仏伝では、釈迦がガンダーラから南インドまで教化したとされるが、これを事実と受け取ることは難しい。ただし、古い経典の中に南インドのバラモンが釈迦に帰依したという記述があることから、釈迦が訪れていないガンダーラや南インドにも、仏教が伝わっていた可能性は否定できない。







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