|インド仏教史|仏教入門講座
インド仏教史12最終回
インド仏教の消滅と再生 
- 2014年8月13日

1、バラモン教の復興





 三世紀に入ると、カニシカ王など仏教を比護した王を生んだクシャーナ王朝は衰退し、幾つもの小国が割拠するようになります。これを統一したのがグプタ王朝です。グプタ王朝は、日常生活ではほぼ使われなくなっていた古い言語であるサンスクリット語を公用語とし、インド全土の言語を統一しようとします。サンスクリット語は、リグ=ヴェーダなどのバラモン経典に使われていますから、このことは、バラモン教を国教とて国民に浸透させることを目的としたものです。バラモン教の古い祭を復興し、社会秩序の基本としてバラモン教の経典が編集されました。バラモン教の教学も研鑽され

 サーンキャ学派(精紳と物質の交渉から現実世界の多様性が展開されていると説く)
 ヨーガ学派(散乱する心を統一し煩悩をなくする)
 ヴァイシェーシカ学派(徹底した合理主義の自然哲学)
 ニヤーヤ学派(論理学。因明として仏教に取り入れられている)
 ミーマーンサー学派(祭祀・儀礼を哲学的に解釈)
 ヴェーダーンタ学派(世界の根本原理としてブラフマンを想定する。インドでもっとも影響力をもつ)

の六派哲学が完成します。
 このころ、ヨーロッパではローマ帝国が衰退し、インドとの交易も少なくなって来ました。このことは、仏教やジャイナ教を支えてきた商人や手工業者が社会的な地位の低下につながります。パトロンを失った仏教は生き残りを図るために、それまでのパーリ語からサンスクリット語に変え、バラモン教の教義も一部受け入れるようになります。仏教の密教化(タントラ仏教)です。しかし時代の主流になることはありませんでした。代わって主流となったのはヒンドゥー教です。


2、ヒンドゥー教の台頭と仏教





1)ヒンドゥー教



 インド各地で信仰されていた様々な土着の宗教が、この時代にバラモン教の学問・神話・習俗と融合します。これがヒンドゥー教です。ですから、これは違う宗教というよりはバラモン教が民衆化したものであるといえます。基本的な教えは変わりませんが、わかりやすくなった分だけ厳格化されます。以前から、輪廻転生に基づいた階級秩序をおもんじていましたが、現在のようなカースト制度になったのはこの頃です。これは封建制度を維持するために適した教えでもありました。職業階級以外にも、国王と家臣の関係や、家長と家族、父と子、女性の地位なども厳しく規定されていきます。例えば「幼い時でも、老いても、女はどのようなことであっても自分の意思で行ってはならない。それは自分の家の中のことであっとも同様である。幼い時は父に従い、若い時には夫に、夫亡き後は子どもに従うべきである。女はけっして自分の意思を持ってはいけない。女は自らの意思で、父や夫、子どもから離れようと思ってはならない。もしそうなれば、女は両家から非難されることになるであろう。」とバラモン教の経典である『マヌ法典』にありますが、ヒンドゥー教ではこの教えから寡婦焚死の習慣が生まれ、女性の美徳としてグプタ王朝以後盛んに行われるようになります。仏教やジャイナ教はこれらに否定的であったため、さらに社会的地位を失うことになります。


2)ヒンドゥー教の教義



 習慣や教義としてもヒンドゥー教になって強調されるものがでてきます。その一つが四住期です。これは一生を四つの期間に分け、それぞれの時期における理想的なに生き方を定めたものです。ただし、この四住期は、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャの男性だけに課せられたものです。また、12歳までは一人前の男性として認められませんからこの四住期には入っていません。

ア)学生期 - 学問や、そのカーストに必要な技術を学ぶ期間です。
イ)家住期 –家業に就き結婚して家を担う期間です。男の子をもうけることが重視されます。性愛テクニックが書かれていることで有名な『カーマ・スートラ』は、この家住期を充実させるための経典になります。また、家を繁栄させるだけではなく、得た財産を喜捨することも求められています。
ウ)林住期 - 孫が生まれると、家を出て荒野や林に住み、質素で禁欲的な生活を営むことが勧められます。
エ)遊行期 – 最後には住まいを捨てて行者となって放浪し、解脱を目指します。

 この習慣は、バラモン教の時にも見られましたが、ヒンドゥー教になると広く求められるようになります。釈迦が男子の生まれた後に、29歳で城を出て王子の地位を捨て林間で修行をし、その後悟りを開いて布教の旅に出たのもこの習慣によるものです。
 教義としては不二一元論があります。ヴェーダーンタ学派の思想で、精神的実在であるブラフマン(梵)とアートマン(我)以外はすべて実体の無い幻であるという思想です。この思想の代表的な宗教者であるシャンカラ(700年 - 750年頃)は、ブラフマンが人格を持たないことを説き、無神論的なものとなりました。この教義は現在でもヒンドゥー教の正統派とされ、五つの僧院で代々「シャンカラ師」の名を継承する行者によって相続されています。
 さらに、5世紀から10世紀の南インドで「至高の神への絶対的帰依」、「自己犠牲をいとわない神への奉仕」を求めるバクティと呼ばれる信仰が強調され始めました。このバクティは、12世紀から13世紀にかけてヴェーダーンタ学派によって「ヴィシュヌ神」を崇拝する信仰として理論化され、現在は一般庶民の間で広く行われています。
 このようにヒンドゥー教とはいってもその中に、多神教的な一面と、シヴァやヴィシュヌだけを信仰する一神教的な面、不二一元論のような無神教的な面が混在しており、一つの概念で捕らえることはできません。これは仏教やキリスト教でも同じです。


3)イスラム教に滅ぼされた後にヒンドゥー教に飲み込まれた仏教



 7世紀にはインドにイスラム教は伝えられますが、本格的に広がるのは12世紀に入ってからです。それどころか、アフガニスタンにあったイスラム国家ゴール朝が12世紀に北インドを征服して以降、ムガル帝国がイギリスに滅ぼされるまで、インドの大半はイスラム教国家でした。多数派のヒンドゥー教はイスラム教と共存しましたが、少数派の仏教は勢力を徐々に失っていきます。熱心な仏教国であった北東インドのパーラ朝に仏教徒が集まりますが、イスラム教国であるセーナ朝によって1162年に滅ぼされます。1193年に竜樹が講義し、玄奘三蔵が学んだことでも知られるナーランダー寺院が破壊されると、1203年にはパーラ王朝によってつくられ、最盛期には100人を超える指導僧と1000人を超える学僧がいたインド最後の仏教寺院ヴィクラマシーラ寺院がセーナ朝によって破壊され、インドから教団としての仏教は消え去ることになりました。ちなみにこの大学で教えられていた仏教はタントラ仏教(密教)で、チベット仏教はここから伝えられたものです。 最後にパーラ朝があった場所は、現在のバングラデッシュです。セーナ朝に征服された後、多くの仏教徒はスードラ(奴隷)階級に落とされます。さらにこの後、イスラム系奴隷王朝(スードラ朝)が成立したため、仏教徒たちは差別から逃れるために、イスラムに改宗します。この結果、現在バングラデッシュはイスラム教国になっています。
 仏教の寺院や僧侶がいなくなっても、釈迦はヒンドゥー教の中に残りました。多くのヒンドゥー教諸派は、釈迦をヴェシュヌ神の化身として取り込んでいます。しかし、釈迦がヴェーダの権威を否定したことから、異端として見られることが多いようです。現代のインド憲法では仏教はシク教、ジャイナ教とともに、ヒンドゥー教から分派したと考えられており、広義のヒンドゥー教として扱われています。


3、ヒンドゥー教の衰退と再生





1)ヒンドゥー教の衰退



 イスラム教国家の統治下でも、数の上で多数を占めるヒンドゥー教は迫害を受けることなく勢力を維持していました。ところが、1600年にイギリスの東インド会社が設立されると、ヨーロッパの思想がインドに流れ込んで来ます。イギリスは、インド国内のフランス勢力を徐々に駆逐し、1849年にシク教徒を破って西インドを手に入れると、1857年にはインド大反乱とも呼ばれるセポイの反乱を鎮圧します。これは、最新式の銃に装填する薬莢の端に牛と豚の油を混ぜたものが使ってあったため、ヒンドゥー教とイスラム教のセポイ(傭兵)が抵抗したことがきっかけと言われます。1862年にムガル帝国を滅ぼしたイギリスは、1877年にヴィクトリア女王がインド女帝を兼任するかたちで植民地化を完成します。インド文化をヨーロッパ文明に塗り替えようとしたイギリスの植民地政策によって、インド人の間でもヨーロッパ志向が強まります。これによって、ヒンドゥー教も劣った宗教とみなされるようになり一気に衰退します。


2)ヒンドゥー教の再生



 これに危機感をおぼえたヒンドゥー教の中で、近代化が始まりました。先駆者として1828年に「ブラーフマ協会」を設立したラーム・モーハン・ローイがあげられます。偶像崇拝やカースト制度を批判し、ウパニシャッド哲学に基づく合理的な有神論を唱えました。寡婦の再婚を認め、イギリス総督に働きかけて寡婦焚死を法律で禁止させました。次に登場したのが「アーリア協会」を設立したダヤーナンダ・サラスヴァティーです。彼はヴェーダ聖典以外を一切認めず、偶像崇拝やカースト制度だけではなく、神の化身や聖地巡礼、祖先崇拝も禁止しました。女性の地位向上や教育の普及、慈善事業にも力を入れますが、キリスト教やイスラム教を排斥するなど国粋的な一面も強く、インド独立運動の一因ともなります。
このような宗教運動のなかから生まれたのがラーマクリシュナです。彼はヒンドゥー教だけではなく、キリスト教やイスラム教、仏教をも学び、次のような「普遍宗教」を説きました。

1.宇宙の根本である神は万能であるから、有形・無形のいずれの相としても存在する。であるから、偶像崇拝を肯定することも否定することも本質的な問題ではない。
2.時代・地域・民族の違いに応じて、神は様々な教えを現しているすべての神は唯一の神の多様な具現の一つであり、すべての宗教は一つの真理の多彩な表現である。
3.人は自分と縁のある宗教を通じてその神と一体になり得る。その時、自分の宗教だけが正しく、他の宗教は正しくないとする考え方は誤りである。自分の宗教以外についてはわからないというのが最も自然な態度である。
4.自分の宗教を通して神と心を重ね合わせる方法はいろいろある。しかし、方法は手段であり、目的である神そのもとと混同してはならない。
5.どの宗教にも誤りや迷信があるかもしれないが、神を求める気持ちがあればそれは大きな問題ではない。

そして、宗教の本質は人を愛することであり、人に奉仕することであって、癒しを求める者に教えを説くという事は、飢えた人にパンを与えないで石を与えるようなものであるとして、ひたすら愛を与えることを勧めました。彼の意思を継いだヴィヴェーカーナンダらの弟子たちによって設立された「ラーマクリシュナ・ミッション」は現在世界中に百を超える拠点を持つ宗教団体となり、ラーマクリシュナはすでにヴィシュヌ神の12番目の化身とされ神格化されています。岡倉天心や横山大観がヴィヴェーカーナンダと会談しており、大隈重信も交流するなど日本の近代化に少なからず影響を与えています。1905年に日露戦争で日本が勝利するとインドでも日本への関心が高まります。いまもインドでは日本のことを「ジャパニ」と呼びますが、これはインドの詩人マイティリ・シャラン・グプタがアジアの栄光を詠った詩の中で「日本(Japan)」のことを「勝利の掌(Jaya-pani)」と呼んだことから来ています。
 また、ウパニシャッド哲学を現代的に表現した詩人としてタゴールがいます。東洋人として初めてのノーベル賞受賞者でもある彼は、徹底した人生肯定派で「われわれはわれわれの真理感によって創造の法則を認識し、われわれの美感によって森羅万象の調和を認識する」と語り、世界中の思想家に影響を与えました。インドの因習を乗り越えようとした彼は、晩年釈迦に傾倒します。これは、インド人に釈迦を再認識させることにもなりました。

4、仏教の再興





 12世紀以降、インドから仏教は姿を消してしまいましたが、再興のきっかけとなる出来事が、1873年にスリランカのパーナドゥラという小さな村で起こります。この年の8月26日から28日の3日間にわたって、仏教僧のグナーナンダがキリスト教の宣教師二人と公開討論を行いました。この対論が英訳され、それがアメリカ南北戦争北軍の英雄オルコット大佐の目に留まります。感動した大佐は仏教徒となりスリランカに渡ります。そして、1880年インドのマドラスに「仏教霊智協会」を設立して、失われた仏教の教えの火を再びインドに灯します。このオルコット大佐の書が、廃仏毀釈を進めていた明治時代の日本に伝わり、東京大学にインド哲学という学問として仏教を見直すことになります。この「仏教霊智協会」で教育を受けたのが仏教復興運動の指導者となるダルマパーラです。1891年には世界的に仏教を復興させようと「大菩提会」を設立し、アジア・ヨーロッパ・アメリカで仏教の普及に努めるとともに、荒れ果てていたインド国内の仏蹟を整備しました。彼に莫大な資金を提供したのが、ハワイの王室の血を引くフォスター夫人です。サールナートの寺院やハワイにある西本願寺別院も彼女の尽力によるものです。インド国内でも仏教を見直す機運が高まり、各地に仏教協会が設立され、カルカッタ大学にはパーリ語の研究機関までできました。しかし、まだまだ知識階級の人たちの学問にすぎませんでした。
 これを一般の人たちの間に広げたのがアンベードカルです。不可触民出身の彼は、アメリカのコロンビア大学で博士号をとると、イギリスのロンドン政治経済大学で学位と弁護士資格を取ります。帰国後弁護士として活動した後、ボンベイ州立法院のメンバーとなります。ここで不可触民のために活動し、彼らでも公の場で水を飲むことができるようにしました。不可触民とは、皮革労働者、屠畜業者、街路清掃人、民俗芸能者、洗濯人など、不浄なものに触れる職業に就く者です。不浄とは、死や体からの分泌物に関わるもので、この穢れは人に伝染するとされています。これは触れるだけではなく、見ることや、近づくことや、声を聞くことによってもうつるとされていたため、彼らはヒンドゥー寺院へ入ることも出来ず、他のカーストが使用する井戸や貯水池の使用も禁止されていたのです。
 仏教に深い理解を示し、釈迦に尊敬の念をいだいていたガンディーですが、カースト制度を理想的な分業体制であるとして擁護したため、アンベードカルと対立することになります。1947年、アンベードカルは初代インド首相ネルーのもと初代法務大臣に就任し、憲法制定会議委員長を兼任します。憲法案起草の中心人物となった彼は、憲法案に不可触民制廃止を盛り込むことに成功し、インド制憲議会は、「いかなる形における不可触民制も廃止し、不可触賤民への差別は罪とみなす」と宣言しました。また、従来の不可触民を「指定カースト民」と呼称し、指定部族(先住民族)とともに、教育、公的雇用、議会議席数の三分野に一定の優先枠を与えました。こうして1950年に制定されたインド憲法の17条には「不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。不可触民制より生ずる無資格を強制する事は、法律により処罰される犯罪である」と記され、カースト差別は憲法上禁止されました。しかし、制度が整っても精紳的には平等になりません。そこで彼は「合理的で、科学的で、平等に基づいているから、近代人のとりうる唯一の行き方である」と、50万人の仲間とともに仏教に改宗します。1935年、ボンベイ法科大学学長に任命された時、彼は「わたしはヒンドゥーとして生まれたけれども、ヒンドゥーとしては死なないであろう」と宣言しています。改宗を宣言したのは、それから30年以上経った1956年、死の2ヶ月前でした。そして『ブッダとその真理』という大作が世に出たのは彼が亡くなった後でした。
 彼が設立したミリンダ大学には、様々なカーストの様々な宗教の学生が学び、仏教の理念を今に伝えています。現在、インドでは仏教は既成宗教としてではなく理想的な思想として、釈迦は偉大な先人として尊敬を集めてきています。







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