|インド仏教史|仏教入門講座
インド仏教史9
大乗仏教の予兆  - 仏教の大衆化  -
- 2014年5月12日
 初期の仏教教団は、釈迦の教義を整理・発展させていく思想集団でしたが、その教えは他の思想集団と論争を繰り返す中でますます哲学的なものになり、庶民の生活感覚からはかけ離れた教えになっていきました。しかし、出家者の生活は在家の人々からの施しがなければ成り立ちません。そこで、多くの在家信者を得る為に、釈迦が説いた哲学的な言葉ではなく、分かりやすい物語による布教が行われるようになってきます。

1、釈迦の過去世の物語   - ジャータカ(本生潭) -


 釈迦が生まれる以前から、インドでは輪廻転生による因果応報の思想が一般的でした。そこで、釈迦は前世でどのような生涯を送っていたのかという物語が作られます。これがジャータカです。この発想は、無我を説く仏教の教えとは矛盾していますが、インドで仏教の教えを伝えるためには有効な方法でした。また、それまでも仏伝として釈迦の物語は作られていましたが、それが釈迦本人の話である以上、神話化にも限界がありました。これが前世の話となれば制約が無くなりますから、自由に仏教的な説話を作ることが出来るようになります。とはいっても、実際には一から話を作ったものではなく、当時一般に流布していた物語や説話を仏教風にアレンジして釈迦の過去世に当てはめていきました。哲学的・抽象的な教えを道徳的・具体的にすることで、仏教は広く社会全体に浸透していくことになります。最初は少なかった物語の数も仏教の広がりとともに増えていき、現在は最も多い南伝仏教系のものが五四七話、他に「本生」と漢訳され漢文経典として日本に伝わっているものや、大乗仏教系のものもあります。
 アショーカ王の晩年ごろから作られたと思われるサーンチー大塔の門には五つのジャータカ物語の絵が刻まれています。その北門に刻まれているのが、南アジアで最も有名なジャータカであり、宮沢賢治の作品(「学者アラムハラドの見た着物」「ドラビダ風」など)にも名前が出ている「ヴェッサンタラ太子の物語」です。王が最愛の子供二人と妻までも、他者の求めに応じて「布施」してしまうという宗教観は仏教独特のものといえます。同じモチーフとしては、鷹から逃れて来た鳩を救うために自らの肉を代わりに差し出したという「シヴィ王の物語」や、法隆寺の「玉虫厨子」に描かれている飢えた虎を救うために身を投げ出した「薩埵王子物語」があります。『今昔物語』にも出ている月に昇った兎の話もジャータカからきたお話です。他に、父親の頭にいる蚊を追い払おうと大なたを振るい頭を割ってしまった話や、占いを信じたばかりに不幸になった人の話など内容も多義に渡りますが、最も多いのが他のために自らを犠牲にするという仏教の施与の思想があらわされたものです。ジャータカの物語は『イソップ物語』やアラビアの物語にも取り入れられていますから、アジアはもちろん中東からヨーロッパにまで伝わっていったことがわかります。この物語の中での釈迦は、まだ悟りをひらいてはいませんから仏ではありません。このように仏になる前の修行中の出家者を菩薩と呼びます。初期仏教では菩薩をほとんど重視していませんが、ジャータカが悟りをひらく前の菩薩としての釈迦を讃嘆するようになったことが、菩薩を仏と同等に重要視していく大乗仏教の思想に繋がっていると思われます。

2、戯曲による布教   - 吟遊詩人僧アシュバゴーシャ(馬鳴) -


 釈迦以来、仏教教団では出家者が音楽を奏でたり歌をうたったりすることを禁じていました。ここの戒律を破り、戯曲によって仏教の教えを広めたことで知られているのが、このアシュバゴーシャ(80~150年頃)です。
中央インドのバラモン出身であった彼は、実我論を説いていましたが、仏教の長老であった脇尊者に論破されて剃髪して沙弥となりました。師の脇尊者が出身地の北インドに帰った後も中央インドに残り、仏教を広めました。ところが、西北インドにあった月氏国のカニシカ王が中央インドに攻めて来ました。中央インドの王は和平交渉を行いますが、カニシカ王が要求した三億金が払えませんでした。そこで、カニシカ王はお釈迦様が使っていた托鉢の鉢とアシュバゴーシャを求めました。月氏国に行ってからも広く仏教を伝え、馬鳴菩薩と呼ばれるようになります。
 彼は釈迦の生涯や、弟子たちの伝説を音楽にあわせて讚詠しました。今伝わっている彼が作ったとされる作品の数は二十を超えていますが、そのすべてが本当に彼の作品であると認めている学者はほとんどいません。またアシュバゴーシャという人物が複数いたのではないかという説もあります。それ程に彼の作ったと伝えられている作品の幅が広いのです。しかし、アシュバゴーシャが作ったとされる作品によって、多くの仏教信徒が生まれたことは間違いありません。特に『仏所行讃』は、インド文学の最高傑作詩文といわれています。これは戯曲ですから、伝説を物語として構成したものです。この中で、仏教の教えを伝える以上に、釈迦その人がどれほど素晴らしい存在であるかを讃嘆する傾向が強くなっていきました。
このようにして、釈迦は神々をも超える存在へと変化し、釈迦その人が礼拝の対象となっていきます。これに伴い、仏という意味も、悟りをひらいた人から、真理そのものを表す存在へと変化していきました。アシュバゴーシャ自身は説一切有部に属していたようですが、このような仏にたいする理解は、後に大乗仏教経典が編纂されていく下地となっています。

3、仏教が受けたインド以外の文化圏からの影響

 
 部派仏教の中で最大の勢力をもっていたのは、前回の講座で触れました説一切有部です。後に『西遊記』で有名な玄奘三蔵(602~664年)が残した日記に、彼がインドで学んでいた寺の僧侶のほとんどが、この説一切有部であったと書いていますから、その影響力は大乗仏教が広まって以降も強く残っていたようです。無我を説く仏教にあって、すべては有ると説くのですから、これだけでもかなり違和感がありますが、この説一切有部はギリシャ哲学の影響を強く受けているともいわれています。アレキサンダー大王がアジアに侵攻して以来、インド西部を中心にしばしば他民族の国家がつくられました。大乗仏教を象徴する仏教美術として知られるガンダーラ美術はギリシャ人が西インドに創った国の影響によるものですし、アシュバゴーシャは中央アジアの月氏の王であるカニシカ王によって西北インドに招聘されています。またペルシャ系のサカ族(シャカ族)の国も仏教に帰依していますが、彼らは父母の供養や国の安寧を求めてきました。また、ペルシャ圏で広まっていたゾロアスター教(拝火教)の影響も受けたといわれます。このような様々な文化がインドにもたらされることにより、仏教も思想的に影響を受けたことは充分に考えられます。また仏教に求められる宗教的な内容も、対象とする文化の多様性にあわせて変化してきました。このような中で、仏教とは何なのか、という根源的な問いが当時の出家者の中から起こってきたとしても不思議ではありません。その一つが大乗仏教運動なのでしょう。






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