|インド仏教史|仏教入門講座
インド仏教史7
初期仏教
- 2014年2月22日

 イエス・キリストと同じく、釈迦自身が書き記した書物はありません。特に仏教の経典は手を加え続けられたため、釈迦がどのような教えを説いていたのかは、後に編纂された多くの仏教経典から推察するしかありません。釈迦が菩提樹の下で悟った内容は、一般に十二支縁起であったと言われます。また、釈迦が最初に説いた法(初転法輪)として、中道・四諦・八正道が伝えられています。また仏教と他の教えを区別する目安としての四法印もよく知られています.

1、十二支縁起


 無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死の十二です。これは、煩悩の根本である無明によって志向作用である行に迷いが生じ、それによって識別作用である識に迷いが生じ、さらに身体と心である名色に迷いが生じ、六つの感覚器官である六処に迷いが生じ、感覚器官に触れる触に迷いが生じ、それを感じる受(感受性)に迷いが生じ、これにより求める心である渇愛が生じ、求めることから執着である取(所有欲)が生じ、執着があるために存在しているという有という認識が生じ、存在していると思うために生まれてきたという意識が生じ、生まれてきたと思うために老いや死が苦として感じられる、というものです。初期の説法では三縁起ぐらいですが、徐々に増えて最終的に十二になります。しかし、生老死の苦を除くために無明を抜け出さなければならないと説いているのは共通しています。『正信偈』の「無明の闇を破する」というのはこのことです。

2、中道


 相互に対立し矛盾する二つの極端な概念のうち、そのどちらにも偏らない修行や認識のあり方をいいます。よく挙げられるのは、苦・楽のふたつ(ニ受)と、有・無の見解(二辺)です。この場合の中道とは、苦行主義と快楽主義、一切が存在するとする認識とすべてのものは存在しないという認識のどちらにも偏らないという立場ということになります。親鸞聖人が『和讃』に「有無を離ると述べたもう」、『正信偈』に「有無の見を墔破せん」というのはこのことです。
                                                             

3、四諦


 諦とは真理を指す言葉ですから、四つの真理という意味になります。その四つとは、苦諦(苦しみ)・集諦(苦しみの原因・生起)・滅諦(苦しみの滅尽)・道諦(苦しみの滅尽に到る道)です。すべてのことは苦しみであると知り、その苦しみは煩悩によって生じることを知り、煩悩を滅尽することで苦しみは滅尽されるとしり、煩悩を滅尽するために正しい道(八正道)を歩む必要があることを知るということです。十二支縁起が苦の因果を説くものであるのに対して、四諦は苦を滅するための道理を説くものです。

4、八正道


 正見(正しいものの見方)・正思(正しい考え方)・正語(正しい発言)・正業(正しい行ない)・正命(正しい生活)・正精進(正しい方向性の努力)・正念(正しい願い)・正定(正しい境地)の八つの生活実践です。もっとも、何が正しいのかを見極めることは容易なことではありません。ちなみに真宗でなじみの深い『正信偈』の「正信」は入っていません。初期仏教では、信心を誤った思いこみにつながるとして否定的にとらえていたためです。

5、四法印


 すべてのものは生滅し、世界に永遠であるものは存在しない(諸行無常印)・どのようなものでも必ず滅するために、一切のことは苦である(一切皆苦印)・すべてのことわりにおいて我(霊魂・アートマン)は実在しない(諸法無我印)・真に求めるべき幸福である涅槃は揺れることのない状態である(涅槃寂静印)という四つのしるしのことです。この四つがそろっていれば仏教であり、ひとつでも欠ければ仏教ではないとされます。ただ、ここにある「涅槃」というものが曲者です。ただ単に心が穏やかであるというものではありませんし、まして死んでしまうということでもありません。初期の経典には次のようにあります。
 「修行僧らよ。かくしてわたくしはみずから生ずるたちのものでありながら生ずることがらのうちに患いを見て、不生なる無上の安穏・安らぎ(ニルバヴァーナ)を求めて、不生なる無上の安穏・安らぎを得た。みずから、老いたるもの・病むもの・死ぬもの・憂うるもの・汚れたものであるのに、老いたるもの・病むもの・死ぬもの・憂うるもの・汚れたもののうちに患いのあることを知って、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを得た。そうしてわれに知と見とが生じた、―「わが解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することはない」と。(『中村元選集』第11巻 p.403、 MN.No.26.Vol.Ⅰ)」。
 ここにある「安穏・安らぎ」が涅槃です。ですから、涅槃とは「不老・不病・不死・不憂・不汚」を得て「もはや再び生存することはない」状態になることです。このような考え方は、輪廻転生と業による束縛を説くバラモン教が支配している中でしか思い浮かばないものであると言えます。

 釈迦の教えは「対機説法」と言われ、相手によって語る法を変化させていました。釈迦自身が理論的に仏教を認識していたというわけではなく、釈迦の得た悟りの境地から目の前の人に適切にアドバイスをしていた、と考えた方がよさそうです。ですから、これらの教えを聞いて分かりにくく思ったとしても不思議ではありません。先にあげた六師外道の諸師のような教えの明確さが無いからです。このことがあってか、釈迦が亡くなられてから仏教は様々な流派に分裂します。これを部派仏教と呼んでいます。






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