|インド仏教史|仏教入門講座
インド仏教史6
釈迦の歩み2 - 教団形成から入滅まで -
- 2014年2月11日

1、 教団の形成




1) サルナート(鹿野苑)での弟子たち


 まず、共に修行をしていた五比丘が弟子となり、次いでバーラーナシーの富商の息子ヤシャス(耶舎)と彼の家族や友人など五十人以上が弟子入りしました。この中には後に解律第一とよばれるガバンパティー(憍梵波提または牛王)が含まれています。ヤシャス同様に富商の出身であったといいますが、食事の時に反芻したり足の爪が牛のようだったことから、過去世に牛であったといわれ、牛相比丘と呼ばれます。このため人前に出ることを嫌い、釈迦の入滅も知らなかったため、後にこれを悔いて自らの体を焼いて後を追ったといいます。
 また、釈迦が悟ったことを聞きつけてサルナートを訪れて弟子入りしたのが、説法第一とよばれたプルナ(富楼那)です。釈迦族のバラモン階級出身であったといわれます。父は釈迦の父の師で、母は五比丘の一人で最初に悟りを得たとされるコンダンニャ(了本際)の妹とも伝えられています。釈迦とは生年月が同じで、後に九万九千人の人々を教化したとも伝えられます。

2) 王舎城での弟子たち


 サルナートからマカダ国のラージャグリハ(王舎城)にあるヒンドゥー教の聖地ガヤーに来た釈迦は、ここで火の行者(事火外道)カッサパ三兄弟(三迦葉)を弟子に加えます。長兄のウルヴェーラ・カッサパ(優楼頻螺迦葉)は五百人の行者と、次兄ナディー・カッサパ(那提迦葉)は三百人の行者と、末弟のガヤー・カッサパ(伽耶迦葉)は二百人の行者と共に帰依したため、釈迦の教団は一気に千人以上の大教団となりました。
 更に、ここで六師外道の一人であるサンジャヤの弟子であったサーリプッタ(舎利弗)とマハーモッガラーナ(摩訶目犍連)が弟子に加わります。この二人は釈迦の弟子の中でも高弟とされ、それぞれ知恵第一、神通第一とよばれています。しかし二人とも釈迦より先に亡くなったために後継者とはなりませんでした。この二人を教化したのは五比丘の一人であるアッサジであったといいます。この二人はサンジャヤの弟子二百五十人を引き連れて帰依したので、弟子の数は千二百五十人となり、多くの経典ではこれを仏弟子の数としています。弟子の数では火の行者の方が多いのですが、主導権を握ったのはサーリプッタでした。このことはジャイナ教徒たちが教団のリーダーを釈迦ではなくサーリプッタであると考えていたことからもうかがわれます。その後、サーリプッタは叔父(または兄弟)のマハーカウシュティラ(摩訶倶絺羅または大住)を教団に入れています。
 この頃に加わったのが衣食住に執着しないという頭陀行に優れていたために頭陀第一とよばれたマハーカーシャパ(摩訶迦葉)です。厳格な性格であったといい釈迦入滅後の教団を統率しました。バラモンの修行中に、ラージャグリハ近くにあったニグローダ樹の下で瞑想していた釈迦と出会い弟子入りしたといわれます。

3) 釈迦族の弟子たち


 悟りを得た後に釈迦は故郷のカピラ城に帰っています。この時多くの釈迦族が弟子入りしています。まず、最初に弟子となったのが多聞第一とよばれるアーナンダ(阿難陀、阿難、孫陀羅難陀)です。釈迦の従弟で三十歳年下であったといい、出家してから釈迦が入滅するまでの二十五年間、常に釈迦のそばを離れなかったために、最も釈迦の教えを聞いていたとされます。このために釈迦入滅後に編纂された経典は、百二十歳まで生きたというアーナンダが記憶をたどる形で書かれています。優しい性格で美形であったといい、中国の寺院ではマハーカーシャパと共に釈迦三尊として多く安置されています。釈迦を殺して教団を奪おうとしたといわれるデーヴァダッタ(提婆達多)の弟とも言われています。また、釈迦の養母であるマハープラジャパティー(摩訶波闍波提)の出家を、釈迦がなかなか認めなかったときに説得したともいわれます。この養母が仏教で最初の比丘尼となります。
 次に弟子入りしたのが釈迦の長男で密行第一(戒行第一)といわれるラーフラ(羅睺羅)です(二番目ではなく、カピラ城に釈迦が着いてから七日目という説もあります)。釈迦の弟子の中で最初の少年僧(沙弥)ということから、日本では寺院の子弟のことを羅子(らご)と言うようになりました。初めは軽率な性格でしたが釈迦にたしなめられてからは修行に専念し、戒を守り怠ることがなかったといいます。このために、最初は釈迦の実子であったために特別視されていたようですが、周りからも認められるようになりました。ラーフラとは障碍という意味ですが、この名前の由来には、生まれる時に月食であったためという説、母親の胎内に六年間いたためという説、釈迦が出家しようとしたときに懐妊したために「我が破らねばならぬ障碍ができた」と言ったことからという説、古代のインド語では「ラーフ」はナーガ(竜)の頭のことで、釈迦一族がナーガをシンボルにしていたためという説があります。
 アーナンダとラーフラが弟子となると、続いて釈迦族の青年五百人が出家します。この中に、やはり釈迦の従姉で兄と共に出家した天眼第一といわれるアニルッダ(阿那律)がいます。他にデーヴァダッタなど、この時六人(または七人)の釈迦族の王子が釈迦の弟子となりました。この王子たちの理髪師で奴隷階級であったのが持律第一といわれるウパーリ(優波離)です。王子たちが釈迦に弟子入りすると聞いたウパーリは、アニルッダの付き人として釈迦のもとへ行きました。アニルッダは出家する際に持っていたものをすべてウパーリに与えようとしましたが、ウパーリはそれを断って王子たちよりも先に釈迦の元へ行き弟子となります。釈迦は先に弟子入りした者を敬うようにと告げると、アニルッダたち王子は奴隷出身のウパーリに礼拝しました。これを見た釈迦は「釈迦族の持つ高慢な心を滅した」と讃嘆したといいます。ウパーリは教団内の戒律を整備し、釈迦入滅後も戒律編纂につとめました。アニルッタは釈迦の説法中に居眠りをしてしまったことを悔い、不眠不休の常坐不臥の修行をしますが失明してしまいます。しかし、これによって天眼を得たとされています。

4) その他の弟子たち


 コーサラ国のシュラーヴァスティー(舎衛城)には、京都にある祇園のもとになる祇樹給孤独園精舎がありました。この僧園はジェータ(祇陀)太子と給孤独者と呼ばれたスダッタ(須達多、須達、善施)の名前からつけられたものですが、このスダッタの甥が解空第一(無諍第一、被供養第一)とよばれたスブーティ(須菩提)です。空に対する理解が優れていたとされるため、『金剛般若経』などの般若経典に名前が見られるほか、『西遊記』で孫悟空の師匠としても登場しています。
 ブッダ入滅後に活躍したのが、論議第一とよばれるマハーカートゥヤーヤナ(摩訶迦旃延)です。西インドの王の命により出家したとも、アシタ仙人の弟子で師の遺命により仏弟子となったともいわれますが、部派仏教の説一切有部の基礎となる「阿毘達磨発智論」二十巻をまとめたとされています。
 他に異色の弟子としては、盗賊であったというアングリマーラがいます。このことは、後世になると絶好の題材として脚色されていくことになります。

2、 釈迦最後の旅




1) 釈迦国の滅亡


 教団を形成したあとの釈迦の様子はわからないことが多いのですが、入滅の一年前からのことは克明に残されています。入滅の前年、釈迦はカピラ城に立ち寄り、コーサラ国王の訪問をうけています。ところが、国王の留守中に王子が王位を奪ってしまいます。国王は娘が嫁していたマガダ国のアジャータシャトル(阿闍世王)を頼りますが、城門に達する直前に亡くなりました。王子ヴィルーダカは王位を奪うと、即座にカピラ城の攻略に向かいます。釈迦は王子の軍を三度阻止しましたが、四度目には釈迦族は滅ぼされます。しかし、このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)によって死んでしまいました。
 この後、釈迦はカピラ城からマガダ国のラージャグリハに向かいます。

2) 最後の旅路


 釈迦はラージャグリハから最後の旅に出ます。この内容は岩波文庫の『ブッダ最後の旅』(中村元訳)にくわしく述べられています。この旅の途中で釈迦は多くの教えを説いています。特にナーディカ村でアーナンダの問いに答えて、人が死んだ後のことを答えた「法の鏡」という教えは有名です。
 また、ヴェーサリーでの遊女アンバパーリーとの問答も、釈迦の教えを知る上で大きな手がかりになります。捨て子であったアンバパーリーはその美貌で高級娼婦となり、多くの財産を持っていました。釈迦はアンバパーリーから寄進を受けたマンゴーの林に滞在していました。アンバパーリーは弟子入りし比丘尼になります。
 この後、釈迦はベールヴァ村で最後の安居に入ります。

3) 釈迦の遺言


 この村で釈迦は大病を患いますが、雨期の終わる頃には回復しました。アーナンダは釈迦が元気になったことを喜びますが、同時に釈迦の入滅の近いことも感じて遺言を求めます。釈迦はこれに答えて「比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。だから、汝らは自らを灯明とし、自らを依処として他人を依処とせず、法を灯明とし法を依処として、他を依処とすることのないように。」と説き、これは身体や感覚や諸法について観察し、熱心に明確に理解し、世界における欲と憂いを捨て去ることであるといいました。これが有名な「自灯明・法灯明」の教えです。
 さらに旅を続けた釈迦は、村々を回りながら教えを説きパーヴァーに着きました。ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けますが、激しい腹痛に襲われます。沐浴してクシナーラーに向けて旅を続けますが、マッラ族(マッラ国)のサーラの林に横たわりここで入滅しました。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉かキノコが原因ではないかと言われています。

4) 釈迦の入滅


 入滅後、釈迦の遺骸はマッラ族の手によって火葬にされました。当時、悟りを得た者の遺骨は礼拝の対象となっていたため、釈迦に帰依していた八大国の王たちは釈迦の遺骨(仏舎利)をマッラ族に求めました。バラモンのとりなしにより仏舎利は八分されますが、遅れて来たマウリヤ族は灰しか手にすることができず、しかたなく灰塔を建てたといいます。それぞれの仏舎利はストゥーパ(塔)に収められます。仏教が広がると仏舎利塔は各地に伝わります。最初は釈迦の遺骨を分けていましたが、足りなくなると宝石や経文、高僧の遺骨などで代用するようになりました。日本の五重塔などもこれにあたります。仏教の分骨の習慣はここから始まっています。
 仏舎利を持ち帰った八大国とは、クシナーラーのマッラ族、マガダ国のアジャタシャトゥル王、ベーシャーリーのリッチャビ族、カビラヴァストフのシャーキャ族、アッラカッパのプリ族、ラーマ村のコーリャ族、ヴェータデーバのバラモン、バーヴァーのマッラ族です。

                              以上






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