|インド仏教史|仏教入門講座
インド仏教史3
仏教以外の宗教 ― 六師外道 1 -
- 2013年12月2日
 バラモン教は、思想体系を確立させながら勢力を拡大させていきますが、このことは同時に多くの反発を招くことにもなりました。すでに都市化の進んでいたインドでは、宗教者階級(バラモン)に代わって士族階級(クシャトリア)や商人階級(バイシャ)が力を持ち始めていたため、カーストによる身分の固定化、特にバラモン階級を絶対化するバラモン教をこころよく思わない人たちが生まれていたのです。そこで、バラモン教の教義を否定する多くの思想家があらわれます。これらの思想家に共通するのは、業(カルマ)によって現世や来世が決定づけられるというバラモン教の思想に対して、新たな思想によって対抗していこうと試みていることです。仏教はこのような大きな思想の流れの中から生まれてきました。原始仏典には、これらの諸学説が六十二にも及んだと伝えられています(六十二見)。その中でも、釈迦に先んじて悟りを開いたとされる六人を六師外道と呼び、多くの仏教経典に登場しています。後に、六師にそれぞれ十六人の弟子がいるとして九十六種外道とも言うようになりました。この六師の教えは釈迦はもとより、現代の思想にも大きな影響を与えています。釈迦の弟子の中にも本々は六師の弟子であったものも少なくありません。六師がどのようにしてバラモン教の説く業による束縛から離れようとしたのかを簡単に説明します。


1.アジタ・ケーサカンバリン


 ケーサカンバリンとは「髪の毛で作った衣を着る者」という意味です。唯物論および快楽至上主義の説を唱えました。

唯物論  - 四元素還元説 -

 すべての物質は地・水・火・風の四元素が離合集散することによって成り立っているという説です。ここには輪廻転生の主体となる霊魂(アートマン、我)が含まれていません。つまり、最も重要視された業の報いも、責任主体である霊魂がなければ存在しないことになります。輪廻しないのですから死後の生まれ変わりも来世もありません。人は死ねば四元素に帰って消滅するだけです。今の行為(業)が後に影響を与えることがないのですから、善悪を説く道徳も宗教も必要ないとして無神論の立場をとります。後にこの思想の一部が仏教に取り入れられ、四元素に空を加えて五大としています。真言密教ではこの五大を五輪と呼び五輪塔はこれを表したものです。
 構成する元素を素粒子に置き換えれば、この発想は現代の科学と同じであることがわかります。ですから、この発想の問題点は、そのまま現代社会の問題に直結しています。

快楽至上主義

 死んでしまえば何もなくなってしまうという教えですから、人間にはそれぞれ生きる目的があるという無意識の方向性や、生きていくうえで人間には守らなければならない決まりがあるという倫理性もすべて否定しました。また、バラモンが行っているような宗教的な儀式や慣例的な行為も無意味なものであるとして批判しました。今生きていることを最大限に楽しんでこそ人は幸福であるという説です。

2.パクダ・カッチャーヤナ


 アジタの四元素に苦・楽・命を加えた七元素説を唱えました。「苦」と「楽」は感覚ですし「命」は実感です。四元素だけでは感情の無いただの物質にしかなりえませんから、アジタの思想を受けとめやすく展開したものとも言えます。ただし、七つの要素それぞれは互いに他に対して何の影響もあたえず、混ざり合うこともなく、絶対的で永続的なものであるとしています。例えば、誰かが剣によって他の誰かの頭を断ち切ったとしても、命を奪うということにはならず、単に七要素の間隙を剣が通っただけであると説いています。霊魂は生まれ変わるのではなく、常に存在し続けるものであるから、生まれることも死ぬこともなく、したがって殺すということもあり得ないというわけです。苦と楽はあっても、いかなる行為にも善や悪といった価値基準はないので、それが命に業として影響を与えることは無いということです。ですから、魂は輪廻しますが、業により現世や来世が変化することもありません。積み木を積み替えるように、見た目は変わっても、本質的には世界は全く変化しないと説く教えです。
 現代で置き換えると、超科学、オカルトとなるのでしょうか。人が死ぬと魂の分だけ軽くなるという俗説に繋がります。

3.プーラナ・カッサパ


 霊魂の永遠性を説いたのはバラモン教と同じですが、バラモン教が霊魂を業の善悪によって左右されるものであるとするのに対して、プーラナ・カッサバは霊魂とはどのような業によっても決して汚されることのない、絶対的な不生不滅の存在であるとしました。ですから、人間がどのような行為をしても霊魂にとっての善にも悪にならないとしています。また善悪の行為自体が存在せず、したがってその報いもないという見解(空見)をたてて、道徳無用論を説きました。いかなる善悪であろうとも、所詮は人間が決めたものであり、自然界の中にはそのようなものは存在していないというのです。逆に善悪の価値観に縛られているからこそ人間は苦しむのだと説いたのです。
 人間の欲望にブレーキをかける必要が無いというこの発想は、江戸時代の「ええじゃないか」やその元となっている国学にも似ています。しかし人間が社会的な生き物である以上、これをそのまま受け入れるには無理があるように思えます。(以上)






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