|日本仏教史|仏教入門講座
仏教混迷期から再生へ 
- 2013年12月4日

1、仏教以外の思想の台頭



(ア)キリスト教の拡大


 鎌倉仏教系の教えが広く庶民に広まる一方で、奈良仏教や平安仏教は広大な荘園を持つようになります。この背景には、農業や工業の分野で技術革新が進み生産性が向上したため、開墾可能な土地が増え、庶民の生活が豊かになってきたことがあります。このことは同時に戦国大名を生み出すことにもつながりました。この中でも傑出したのが織田信長です。この信長の庇護の下、急速に広がっていったのがキリスト教でした。
 キリスト教は日本に来るまでに世界各地で培ってきた布教ノウハウに加えて、当時世界最先端だったヨーロッパの科学技術を紹介することによって、特に上級武士や僧侶に浸透していきます。ただし、当時は日本においても盛んに宗教論議が行われていたため、他のアジア地域のように一方的に論破されるようなことはありませんでした。また、プロテスタント系の宣教師たちが、自分たちの教えに似ているために困惑したという大阪本願寺の浄土真宗が隆盛を誇っていたことも影響したようです。
 この時代を代表するキリスト教修道士に不干斎ハビアンがいます。もともとは加賀の禅僧であったともいわれていますが、京都に在った南蛮寺でキリスト教に改宗し、仏教各宗派・儒教・道教を分析批判した『妙貞問答』を著します。『イソップ物語』の翻訳(『伊曾保物語』)に関わったり、女子修道会の教師をしたりと中心的な役割を担いますが、修道女と駆け落ちしてキリスト教を棄てます。この後キリスト教批判に転じ徳川秀忠に請われて『破提宇子(はだいうす)』を著してキリシタン弾圧に協力します。この書はキリスト教側から「地獄のペスト」と呼ばれ畏れられました。後にキリスト教を解禁した明治政府によって再び発行されることになります。一部の隠れキリシタンを除いてキリスト教は日本から無くなりますが、それまで女性を礼拝の対象にすることがほとんど無かった仏教に、マリア信仰が与えた影響は少なくありませんでした。本来男性である観音菩薩が女性的に作られるようになるのはこの影響であると思われます。


(イ)儒教の普及 -朱子学と陽明学と古学―
 

 儒教は、奈良時代に律令制が取り入れられた時に、官吏のための学問(明経道)として日本に伝わったといわれます。しかし空海が『三教指帰』の中で道教とともに批判するなど、仏教が力を持っている間は広がることはありませんでした。後に南宋の朱熹によってはじめられた朱子学が宋学として伝わり、天台宗の玄恵からこの教えを受けた後醍醐天皇は、その大義名分論(帝権の正統性と君臣の別をわきまえることを重んじる思想)によって天皇の討幕計画や建武新政を主張します。しかし、この後もっぱら臨済宗の学問として儒学が受け入れられますが、儒教として確立することは在りませんでした。
 江戸時代になると、仏教から儒教を独立させる動きがあらわれます(儒仏分離)。新たに中国から、朱子学と陽明学が静座などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府による士農工商の身分制度を支える思想として採用されました。日本朱子学の祖とされるのが藤原惺窩(ふじわら せいか)です。天の理と心の中で呼応するもの(性)が一致する(明徳)ことを重視するその教えは、儒教に仏教理念を織り交ぜたものです。この惺窩に師事し,幕藩体制下における朱子学派を大成したのが林羅山です。自然界に上下、尊卑があるように人間にもそれがあるのが当然であるというその思想は徳川家に取り入れられ、以降、林家が幕府の文教政策を統制することになります。特に「うやまう」ではなく「つつしむ」と読む「敬」の理念は日本の礼節の基本として定着しました。林家以外にもいくつかの学派が誕生し、新井白石ら多くの人材が朱子学から排出されています。中でも六千人をこえる門弟を抱え、老中保科正之の師でもあった山崎闇斎(やまざき あんさい)は、儒教に吉田神道を融合させた垂加神道という新しい体系をつくりました。神道に従うことこそが人道であるとし、後の尊皇攘夷に大きな影響を与えます。
 一方の陽明学派の祖とされるのが中江藤樹です。名利を避け清貧の中で求道生活を続けた高徳の人として知られた藤樹は、近代になってからも孝の道徳をあらわす典型として国定教科書にも収められました。この藤樹が思想の中心に据えたのが「孝」です。
 この孝は、単に父母に対する孝養の意味だけでなく、世界を一貫する原理として、また自他の差別を越えた根源的存在として位置づけられています。その具体的実践が「愛敬」です。愛とは「懇ろに親しむこと」、敬とは「上の者を敬い、下の者を軽んじ侮らないこと」です。これを「知行合一」といいこの実践的な倫理思想は大塩平八郎の乱などにも影響を与えています。
 古学派とは朱子学や陽明学派などの宋・明の新儒学を批判して、元来の孔子・孟子の学問に帰ろうとした学派です。この古学の提唱者が山鹿素行(やまが そこう)です。もともとは林羅山の門人ですが、抽象的な朱子学を批判して日常の具体的な行為に重きをおきました。それが「誠」です。この教えは、当時存在意義を失っていた武士たちに支持され、新しい武士道として広まります。武士は徳によって農工商の道徳的指導者として国を治めるべきであるとして、礼節を重んじて驕り高ぶらず、高潔であることを求めたのです。また伊藤仁斎は、古典を文献的に実証しようとしたので古義学派とよばれ、「仁」と「愛」を説きました。これは 「慈愛の心が自身の内から外部に広がり、あらゆるところにゆきわたって残忍で薄情な心が少しもなくなることを仁というのである。こちらには心をかけるがあちらにはかけないというのは仁ではない。一人にだけ心を通じるが十人の人には通じないというのは仁ではない。ほんのわずかな時間にもあり 眠っているあいだも働き心につねに愛があり愛が心に満ち心と愛が完全に一つとなっている。これこそ仁である」というものです。 この「仁」と「愛」の実践の基礎として「誠」を重視します。この「誠」とは忠(自分を偽らない)と信(他人を あざむかない)をさします。この誠を重んじる儒学は「敬」中心の朱子学や「致良知」中心の陽明学とは異なり日本独自のものです。これが幕末の吉田松陰や新撰組に影響していきます。


(ウ)国学


 江戸時代に生まれた学問として国学があります。『古事記』や『万葉集』などの古典から日本古代の生き方や政治理想を読み解き、日本人が本来持っていた美徳を取り戻そうという学問です。古代の日本人は素朴でおおらかに生きながらも道徳的であったのに、仏教や儒学の教えがそれをゆがめてしまったという考え方です。平安期の『古今集』は儒教や仏教の影響をうけているとして、古代の『万葉集』の歌にこそ「高き中にみやび」があり「直き中に雄々しき心」が示されているとします。この古代日本人の素朴で理屈にこだわらない力強い精神を「高き直き心」と呼び、この「高き直き心」で貫かれた男性的でおおらかな精神を日本固有の精神「ますらをぶり」として尊びました。この国学の大成者が本居宣長(もとおり のりなが)です。宣長は儒教や仏教に染まった心を漢心(からごころ)とよび、古代日本人の精神を古道(惟神の道(かんながらのみち))に求めました。この「惟神の道」とは「天照大神の道」で、天地を生成した神々が天皇へ伝えた道、すなわち『古事記』に書かれているタカミムスヒ→イザナキ・イザナミ→アマテラス→天皇という天皇の為政の道になります。「うまいものを食べたく、良い着物を着たく、りっぱな家に住みたく、金銭を手に入れたく、人から尊敬されたく、長生きをしたいと思うのは、みな人の真心である。それなのにこれらの願いをみなよくないこととし、それを願い求めないのをえらいことにして、すべてほしくはなく、ねがわないような顔をする者が世間に多いのは例のうるさい虚偽である」として、仏教や儒教を批判しました。
 この後に登場したのが復古神道の完成者とされる平田篤胤(ひらた あつたね)です。篤胤は宣長などの国学者が重視した歌などの感情的な世界を無視して、古道を宗教的・国粋主義的立場から把握しました。これは神の子孫である天皇の統治する日本のあり方こそが唯一の道であり、神・天皇を崇拝する心である大和心こそが日本人固有の「真の心」であるというものです。この宇宙は産霊神(むすびのかみ)の産霊(むすひ)により創造されたものであり、地上は天皇によって支配されているのであるから、天皇のいる日本こそが世界の中心であると唱えました。そして神の子孫である天皇に服従することが、そのまま死後の世界の「安心」を得ることになるとして、死後の世界(幽冥界)こそが人間の本世であるという来世思想を説きました。この宗教的な国粋主義的実践思想が幕末の尊皇運動を発展させ、後の靖国神社に繋がっていきます。


エ)神道の復興  - 吉田神道と白川家 ―


 平安期以来、仏教に従属してきた神道が勢力を持ち直してきます。その中心となったのが吉田神社です。神道にも多くの流れがあります。物部神道や中臣神道のように一族の信仰に由来するものや、天台宗の山王神道、真言宗の両部神道、法華宗の法華神道のように仏教由来のもの、 儒教と結びついた儒家神道や先に述べた復古神道などもありますが、神社の神職によって唱えられた神道に伊勢神道や吉田神道があります。
吉田兼倶によって唱えられた吉田神道は、神本仏迹・神主仏従であり、神は仏の権化ではなく、神こそが世界そのものであると説きます。神とは観念的なものではなく、天地に先立って天地を定め、陰陽を越えて陰陽をなす、始めも無ければ終わりもなく、天にあっては神、万物にあっては霊、人倫にあっては心となるものであるとしています。ですから、神は天地の根源であると同時に人の心でもあるということになります。吉田神社は、天孫降臨以前から天上界で神事を司ってきた神である天児屋命(あめのこやねのみこと。春日権現、春日大明神とも呼ぶ)の業を受け継ぐ神社として、古来日本中すべての神様が置かれていましたが、思想的にも武装することでさらに一目置かれる存在になったのです。この後、吉田神社は秀吉や家康などからも一目置かれるようになりますが、これはその理論というよりは「神使い」として畏れ敬われるようになったからです。神のたたりを押えるための「鎮札」・「地鎮」を盛んに行い、各地の神社に祭られている神に称号や階位を与える「宗源宣旨」を発行します。さらに徳川幕府によって定められた「諸社禰宜神主法度」によって、官位を持っていない全国の神職は吉田神社の許状(現代の金額でおよそ200万円ほど)が無ければ白以外の装束を着ることが許されなくなりました。これによって、どの神様を祭っているかに関わらず、ほとんどの神社が吉田神社の管理下に入ることになります。
 これに対して、神職の最高位である神祇伯家である白川家や伊勢神宮、厳島神社などが抵抗を見せます。ほとんどの神職は吉田神社の配下に入りましたが、多くの神社には神職さえもいませんでした。そこを管理していたのは宮守や番人といわれていた普通の人です。その人たちを白川家は次々と神職に取り立てて配下に加えていったのです。このようにして全国の神社が組織化されていきました。つまり、神職は宗教者というより職業という形で制度化されていったのです。現代のように神道が民間の葬儀や結婚式を行うようになったのは戦後になります。


(オ)修験道


 江戸時代に仏教から修験道が独立します。修験道とは、森羅万象に神霊が宿るとする古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という山岳信仰が仏教と習合したものです。奈良時代の役小角が開祖とされますが、これはあくまでも伝説上の人物です。教えとしては神道的なものはほぼ皆無ですから、仏教の一派とみなされてきました。平安時代の修験者はおもに吉野・熊野を拠点として、その奥の大峰山で修行をしていましたが、鎌倉時代には熊野に拠点をおく修験者は天台宗寺門派の聖護院を本寺として本山派を形成します。一方、吉野側では、松尾山・内山永久寺・高野山・三輪山など大和を中心とした三十六の諸大寺に依拠した修験者が当山派を形成し、羽黒山・日光・白山・立山・伯耆大山・豊前彦山などの霊山にも数々の修験集団が成立しました。
 江戸時代になると幕府は「修験道法度」を定め、諸国の修験者を天台宗寺門派の聖護院を本山とする「本山派」と、真言宗醍醐寺の三宝院を本山とする「当山派」のいずれかに所属させて、山中の暮らしから里に定住させ、地域社会で加持祈祷をすることを命じました。しかし、吉野山・羽黒山・彦山などの山伏は、本山派・当山派のいずれにも属さず、日光輪王寺門跡直属の天台修験として存続しています。一見仏教から独立したようには見えますが、実際には仏教寺院の配下に収まっていることになります。
 明治期になると「修験禁止令」が出され修験道は禁止され、多くの団体は教派神道となり存続します。現代では、吉野山の金峯山寺(金峰山修験本宗)、京都市の聖護院(本山修験宗)、醍醐寺三宝院(真言宗醍醐派)の他、日光修験や羽黒修験のように各地の霊山を拠点とする国峰修験の流れが残っています。


2、徳川幕府の政策



 信長の後を引き継いだ秀吉は、一度は徹底的に寺院勢力を壊滅させた後、一転して本願寺や比叡山、高野山、興福寺などの復興を援助し、奈良の大仏をも凌ぐ方広寺大仏を京都東山に造立するなど、自分の勢力を誇示しつつ懐柔策にでます。
 家康は、幕府を江戸に置くことで近畿の寺院勢力と距離をとりながら、臨済宗の崇伝(すうでん)と天台宗の天海の二人を協力者として宗教界全体の管理を強化します。最初に行ったのは各宗の江戸在所の有力寺院を触頭(ふれがしら)寺院と定めて、幕府の命令を全国の寺院に行き渡らせることでした。このために、すべての寺院が幕府の認めた宗派のいずれかに属さなければならなくなりました(本末制度)。その取りまとめ役になったのが上野の寛永寺(天台宗)と芝の増上寺(浄土宗)です。一方で一向宗のような小さな宗派は認められず消えていくことになります。そして寺院諸法度によって、宗内の職制や住職資格、寺格や僧侶の階位も細かく規定し、住職になるための修行年数や学問など様々な規則を定めるとともに、自由な布教活動も制限しました。本山が認可しない法談が制限され、新寺建立やそのための勧進募財も取り締まりました。これにより本山を中心とする中央集権的な宗派が誕生することになります。またキリシタン取締りを目的として、すべての者がいずれかの寺院に属さなければならないという寺請制度も布かれます。これによって日本人全員が仏教徒ということになりました。それまで、個人的なものであった信仰も家族単位に決められます。家単位で寺院の檀家となり、家族の年齢宗旨を書いて家の長が捺印し、所在の組頭らが連署して檀那寺の住職が証明した帳面を作らせたのです(宗旨人別帳)。これが戸籍の役割となり、寺院が役所のように人の出入りを管理することになります。つまり、結婚や旅行、引っ越しなどにも必ず檀那寺で寺請証文をもらわなくてはならず、また死亡した際にも住職が検分しキリシタンでないことを請けあいのうえ引導を渡すことが義務づけられました。さらに旦那寺や本山の修復や法要の際の寄進が義務化され、その檀那寺の変更や宗派間の論争や他宗派の檀家への布教も禁止されるようになると、経済的に安定した寺院は次第に宗教性を失い、葬儀や法要といった儀式だけの組織へと変わっていったのです。僧侶の腐敗も進み、寺院から無教養の僧侶を放逐することや、寺に女性を泊めることを禁止するなどの「諸宗寺院法度九ヵ条」が出されるほどでした。水戸藩や岡山藩では不良寺院の整理なども行われました。
 一方で、檀家寺になれなかった寺院は教えを説くこともできませんから、布教以外の道を選ばざるを得ませんでした。そこで生まれたのが祈祷寺です。無病息災や恋愛成就、五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄といった現世利益や祈祷、定期的な御開帳や縁日などで民衆の間に根付いてきました。現世利益というと神社を思い浮かべる方も多いとは思いますが、古来から神社では個人的な願いをかなえる神社を「淫祠」といって否定されていました。この隙間に寺院が入っていったのです。中でも祈祷で有名な寺院に、大岡越前が祀ったことから始まる曹洞宗の東京豊川稲荷や、境内に稲荷や観音、地蔵、鬼子母神など百四十ものお堂がある神仏のデパート浅草寺があります。しかし、これはとても仏教と呼べるようなものではありませんでした。
 このような仏教低迷期ともいえる江戸時代にあって異彩を放ったのが、念仏禅の黄檗宗万福寺を開いた中国僧隠元と、臨済宗の白隠、曹洞宗の良寛です。しかし、この三人の傑出した禅僧も、宗教統制化のこの時代では大きなうねりになることはありませんでした。真宗では僧侶に代わって、香川県の床松や島根県の浅原才市といった妙好人といわれる在家仏教者が生まれました。彼らは船大工や履物屋をしながら阿弥陀仏への感謝の気持ちを即興の詩歌で詠んで表現しました。各本山内には檀林・学林と呼ばれる僧侶育成機関が設けられ、そこで仏教全般の学問と宗学が僧侶によって学ばれています。現在各宗派に伝わっている宗学といわれる学問は、この時に成立したものです。しかしそれは一般の人々にとっては生活からかけ離れたものでしかありませんでした。 




3、既成仏教教団の衰退と教えとしての再構築  -新たな仏教を模索した明治期―



(ア)仏教排斥の動きと国家神道


 江戸時代には吉田神社と白川伯王家が全国の神社を統括していましたが、幕末になると国学が盛んになり尊王攘夷思想に繋がります。会津藩や岡山藩、水戸藩、長州藩、津和野藩では小祠や淫祠の廃止・統合がおこなわれ、水戸藩では旧支配者佐竹氏が尊崇した八幡神社を破壊し、みずから崇拝する鹿島神宮に置き換えています(八幡改め)。また薩摩藩の島津斉彬(しまづ なりあきら)は藩内の寺院をすべて廃止し、僧侶を還俗させ兵士にしてしまっています。神社が神官の手を離れて政治的なものになり始めていきました。
 明治期になると、政府により神仏分離令が発令されます。これは江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策をすすめるためのものです。そのためには神社の中から仏教的色彩を排除しなければならなかったのです。それまでの僧侶と神官の立場は逆転し、全国で廃仏毀釈運動が起こり、僧侶から神職に、寺院から神社に変えるものが続出します。また、それまで寺院に抑圧されていた民衆の反発も各地で起こり、寺院僧侶の生活の華美に対する批判、堂塔伽藍の寄付の制限、戒名料の制限、宗祖の遠忌の寄付の制限、葬祭への出費の制限などがみられるようになります。更には堂塔・伽藍や、仏像・仏画・絵巻物・経典・汁物などの破却・焼却が全国で起き、この時期に廃寺になった寺院数は、当時存在した寺院のほぼ半数にもなるといわれます。
 江戸時代に禁止されていたキリスト教が認められる一方で、修験道やその寺、また禅宗の一派として大勢力を誇った普化宗、神道と仏教の境界が曖昧な法華神道などは禁止されます。
神道も大きく変化します。明治政府によって施行された大日本帝国憲法には信教の自由が明記されましたが「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈をたてて、内務省神社局によって官国幣社が所管され、新たな官国幣社の造営には公金が投入されました。村社以上の社格の神社の例祭にも地方官の奉幣が行われ、一種の国教的な扱いとなります。これを国家神道と呼びます。万世一系・神聖不可侵の天皇が日本を統治することを前提に、全国の神社は神祇官の元に組織化され、諸制度が整備されました。当初、全国の神社は全て官有となり、全神職は官吏(神官)となりましたが、制度化することが現実的ではなかったため、神官と呼ばれる官吏としての神職は伊勢神宮に奉仕する者のみとなります。1889年の勅令第12号によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止されますが「宗教ではない」とされた国家神道は教育勅語のかたちで国民道徳の基本とされていきます。靖国神社も当初は鎮魂を目的としていましたが、やがて慰霊、さらに顕彰へと展開し、国民統合の精神的中核として戦死者を「英霊」として祀っていくことになります。
 また、一町村一社を原則とする「神社合祀令」が出されます。合祀が著しかったのが三重県と和歌山県で、三重県の六千五百社の神社が七分の一以下に、和歌山県の三千七百社の神社が六分の一以下に合祀され、全国でも神社数は19万社から12万社に激減しました。
 これに反対したのが民俗学者・博物学者の南方熊楠です。これによって、地域独自の文化や広大な面積を誇った森が失われることになりました。神社が祀っていた祭神も『古事記』や『日本書紀』などの皇統譜につながる神々に変更されてしまい、その地域にどのような神が祭っていたのかが判らなくなってしまいました。


(イ)キリスト教の解禁


 明治新政府発足時はキリスト教を禁止しますが、キリスト教諸国からの抗議によって布教を認めます。しかし、キリスト教の広がりが列強による支配に繋がることを危惧した政府は、神道による国民教化を目的として宣教使を置き国民に「惟神の大道」を教化しようとしましたが、神職に説教をするという伝統がなかったために、人員が確保できませんでした。講談師を起用するなどしますが結局失敗します。そこで、仏教・儒教をも取り込んだ教部省を設け、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴(ほうたい)という三条の教則を国民に教化する運動を展開します。これを「大教宣布」運動といいます。
 この運動は神官、僧侶および一般教導職を動員して大々的に展開され、文明開化路線にも一役買うことになります。この教化運動の推進・指導機関として増上寺に置かれたのが「大教院」です。大教院は廃仏毀釈や神道国教化政策によって圧力を受けていた仏教界にとっては復活の足がかりになるとも思われましたが、大教院の神殿に記紀神話中の造化三神と天照大神が祀られるなど神道側の優位性は変わりませんでした。 西本願寺の島地黙雷らは神道に仏教が追従することや国が宗教を統制することに反対し、大教院から離脱してしまい、結果、大教院は解散してしまいます。神道界も、造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀る「伊勢派」と、これに大国主大神を加えた五柱にすべきとした「出雲派」(「幽顕一如」)が対立し神道の教義自体もまとまりがつかなくなります。
 結局宗教家不在のまま国家神道の教育が始まることとなり、最初にできた教科書の記述が「天津神は、月、日、地球を造り、のち、人、鳥、獣、魚、草木を造りて、人をして諸々の支配をなさしめたり」「神は万物を創造し、支配したもう絶対者なり」と、キリスト教の聖書のまるまるコピーとなってしまいました。又、文部省唱歌には多くの讃美歌の曲が採用され、初代文部大臣にクリスチャンの森有礼が任じられるなど、政府内に混乱が見られます。森有礼は日本をキリスト教国にしたいと思っていたようですが、大日本帝国憲法が発布された日に暗殺されてしまいます。
 政府の混乱をよそに、明治初期から中期にかけては、国をあげて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ者が増えました。儀式中心でとても宗教とは呼べない状態だった神道や仏教を見慣れていた当時の日本人の眼には、宗教心に溢れたキリスト教は新鮮に映ったはずです。福澤諭吉がキリスト教国教会論を主張するなど、知識階級の多くがキリスト教を含めたヨーロッパ文明に傾倒していきます。1895年の段階でカトリック教会の信徒数は50,302名、プロテスタントも1888年末に249教会の教会と信徒15,514人になり、この年だけで7000人の信徒が増えています。正教徒も信者数17,000人になっています。この後、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への風当たりも強くなり、内村鑑三の不敬事件などが起こるようになります。このような情勢の中でも、キリスト教はその豊富な資金を背景に社会福祉事業や高等教育を含めた教育事業を展開していきます。特にプロテスタントの教えは自由や人権といった新しい人間観をもたらし、封建的な道徳をうち破る役割を果たします。その代表的なキリスト者に青山学院の本多陽一や内村鑑三、新渡戸稲造、同志社の新島襄、神によって君主をこえた国家のありかたをとなえた植村正久などがいます。
 内村鑑三は「武士道に接ぎ木されたるキリスト教」といって、自由独立を基本とする日本的キリスト教の確立をめざしました。そして「キリストこそ我が教会」として、形式化・固定化した教会制度や儀式を否定し、聖書を直接に研究しようという無教会主義を説きます。そして、神が世界に絶対平和を求めていると、人類愛と愛国心にもとづき日露戦争に対する非戦論を展開しました。新渡戸稲造も「太平洋の橋とならん」とキリスト教の信仰を土台とし、国境を越えた人間愛を提唱しました。そして、日本民族の精神的伝統である武士道によってこそキリスト教の日本化が完成するとし、教育家としての立場から学生を指導しました。主著の『武士道』は英文で書かれベストセラーになりました。いずれも、それまで国に従属してきた宗教の枠を超えるものでした。


(ウ)仏教界の模索


 仏教界でも、このような状況に対して変革しようとする動きが起こります。明治32年、『太陽』という雑誌に読者からの投票によって選ばれた「明治十二傑」が掲載されています。その中の宗教家の部門で一位に選ばれているのが、幕末から明治期にかけて活躍したの真言宗の僧である釈雲照です。その仏教に対する内省的な態度は後の新仏教運動の精神的な基盤となります。その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢に山県有朋や伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎といった明治の元勲や学者、財界人が帰依したといわれます。日本で始めての大蔵経の和訳に取り組むと同時に、早稲田大学や哲学館で仏教を講義し、西洋風な近代的仏教研究が盛んな中で、仏教の原点へ回帰することを主張し論理的で合理的な仏教論を展開しましたが、この戒律主義は定着することなく衰退してしまいました。
 この投票で二位に選ばれたのが真宗大谷派の南條文雄です。江戸時代末期に東本願寺の僧侶研修機関である高倉学寮でキリスト教などの仏教以外の宗教を学んでいましたが、明治に入り、東京大学ができる前年に古代インド語であるサンスクリット研究のためイギリスのオックスフォード大学に渡りヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学びます。漢訳仏典の英訳や梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事しますが、特に1883年にイギリスで出版された英訳『大明三蔵聖教目録』は「Nanjo-Catalog」と称され、現在なお仏教学者・サンスクリット学者・東洋学者に珍重されています。この翌年にはオックスフォード大学よりマスター・オブ・アーツの称号を授与され、帰国後は東京帝国大学文科大学でサンスクリット学の嘱託講師となり、文部省より日本第1号の文学博士の称号を授与されています。東本願寺が真宗大学(現、大谷大学)を京都から東京巣鴨に移転開設すると、同大学の教授に就任し、初代の学監となった後輩の清沢満之と協力して、関連諸学との緊密な連繋の上に立つ近代的な仏教研究・教育機関の創設に力を注いでいます。清沢満之の後に真宗大学第2代学監に就任し、、その後京都に戻った同大学(のちに真宗大谷大学、大谷大学と改称)の学長を務め、学長在任は通算18年近くに及びました。近代的な仏教研究の必要性を説き、伝統的な仏教研究の上に西洋近代の実証的・客観的な学問体系と方法論を初めて導入しました。
 三位にキリスト教の本多庸一、五位に臨済宗の僧で初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた釈宗演がはいっていますが、四位に入っているのが真宗大谷派の井上円了です。東京大学ができた年に東本願寺の国内留学生に選ばれ、東京大学予備門に入学し、そのまま東京大学に入学します。卒業後、宗門には戻らず哲学館(後の東洋大学)を設立します。仏教を宗教として再生させるためには、近代人でもうなずけるように理論化すると同時に、宗派から離す必要があると考えたようです。この発想は本願寺派の島地黙雷が唱えた信教自由論によるところが大きかったと思われます。このような在家の仏教者として、道元『正法眼蔵』から在家信徒向けに抜粋した『修証義』を起草した大内青巒や、八紘一宇や日本国体学を提唱した日蓮宗の田中智学がいます。宮沢賢治はこの智学に感化されて真宗門徒から日蓮宗に改宗しています。キリスト教の内村鑑三が唱えた無教会主義もこの流れにあります。
 これに対して、宗派を立て直そうとしたのが求道運動を起こした近角常観や精神主義を説いた清沢満之です。満之は井上円了とともに哲学を学び、哲学館の講師も勤めていますが、自分を育ててくれた宗門に恩義を感じ教団の近代化に努めますがこの試みは失敗に終わります。しかし、常観や満之が再発掘した『歎異抄』は親鸞の教えを復活させる大きなきっかけになると同時に、二人の門弟から優れた仏教者が多く輩出されました。
一方で仏教の研究が進むことによって村上専精や姉崎正治らによって大乗非仏説論が提唱されることになります。また世論の右傾化に伴い、大内青巒明、島地黙雷・井上円了によって天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」が結成されたりもします。
 大正時代に入ると、デモクラシーの風潮から人間探求の一環として、親鸞などの高僧を扱う文学作品が数多く書かれました。また、和辻哲郎や西田幾多郎といった仏教思想を背景に哲学的考察を行う思想家も現れました。西田幾多郎は禅の体験をもとに、主観と客観を分離して考える西洋思想を批判し、両者の根源的な統一をはかろうとします。自己の思慮分別を加えない直接的な経験であり、自他の区別のない主客未分な状態に真の実在があると考えました。和辻は、近代西洋の個人主義的な人間観からの脱却をはかり、人間は個人として存在するとともに、人と人との関係において存在する間柄的存在であると考えました。この対立するものの統一により人間としての真の主体性が確立するというのです。 このような人間のとらえ方から、和辻は人間の学としての倫理学を説きます。善悪やなすべき義務・責任などは人と人との間柄の問題としてはじめて意味を持つという考え方です。これらはいずれも仏教の思想による哲学の構築といえます。


4、仏教再生への試み  -寺院のための仏教から人間のための仏教へ―



 昭和期に入ると、国中が軍国主義に染まり、軍国主義のイデオロギーとして国家神道が利用されるようになると神道以外の宗教団体への圧力が強まりました。満州事変が勃発すると国家の主導権は完全に軍部の手に握られ、1939年には帝国議会によって戦争遂行に向けてすべての宗教団体を統制する目的で「宗教団体法案」が可決成立します。これを受けて、仏教界やキリスト教界など多くの宗教団体が国家の意思に従うことになります。真宗も例外ではなく、教団を挙げて戦争に協力していくことになりました。ある意味では江戸期以上に宗教性が失われた時期と言えます。
 第二次世界大戦後、1945年に宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃されます。1951年には宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した宗教法人法が制定されます。これによって、形式上はすべての宗教団体は国による規制を受けないとともに、庇護も失うことになりました。まだ江戸時代の制度の余韻が残って入るものの、すでに多くの宗派は過去の威厳を失いつつあり、新たな形が求められています。このことは、親鸞聖人たちが取り組んだ仏教再生と似ているようにも思えます。どのように歴史は繰り返すのでしょうか。新たな脱皮の時は目の前なのかもしれません。(終了)


参考資料


1、造化三神
  天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
  高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
  神産巣日神(かみむすびのかみ)
 
 天之御中主神とは天地開闢に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱。『古事記』では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしています。その後高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠します。この三柱の神を造化三神といい性別のない「独神」です。『日本書紀』では、まず国常立尊(くにのそこたちのみこと)、次に国狭槌尊(くにさつちのみこと)が表れたと書き、その次に「また、高天原においでになる神の名を天御中主尊という」と書かれています。この記述からは、前に書かれた二神とどちらが先に現れたのかはわかりません。これに天照大神を加えると「伊勢派」の四柱となり、さらに大国主大神を加えると「出雲派」の五柱となります。


2、現代日本にあるキリスト教系大学

プロテスタント系大学

 ルーテル教会
  ルーテル学院大学、九州ルーテル学院大学

 改革派・長老派教会
  梅光学院大学、フェリス女学院大学、北陸学院大学、北星学園大学、稚内北星学園大学、金城学院大学、国際基督教大学、明治学院大学、宮城学院女子大学、大阪女学院大学、大阪女学院短期大学、聖隷クリストファー大学、四国学院大学、東北学院大学

 会衆派教会
  梅花女子大学、梅花女子大学短期大学部、同志社大学、同志社女子大学、敬和学園大学、神戸女学院大学、共愛学園前橋国際大学、松山東雲女子大学、桜美林大学、新島学園短期大学

 バプテスト教会
  関東学院大学、西南学院大学、西南女学院大学、尚絅学院大学、姫路日ノ本短期大学

 メソジスト
  関西学院大学、青山学院大学、青山学院女子短期大学、長崎ウエスレヤン大学、福岡女学院大学、福岡女学院大学短期大学部、福岡女学院看護大学、弘前学院大学、広島女学院大学、活水女子大学、名古屋学院大学、酪農学園大学、酪農学園大学短期大学部、静岡英和学院大学、静岡英和学院大学短期大学部、東洋英和女学院大学、山梨英和大学、大阪キリスト教短期大学

 セブンスデー・アドベンチスト教会
  三育学院短期大学

 日本基督教団・その他
  中部学院大学、中部学院大学短期大学部、茨城キリスト教大学、聖学院大学、恵泉女学園大学、盛岡大学、長崎外国語大学、東京女子大学、東京基督教大学、東京神学大学、聖和大学

聖公会系大学
  桃山学院大学、プール学院大学、プール学院大学短期大学部、立教大学、立教女学院短期大学、神戸松蔭女子学院大学、神戸松蔭女子学院大学短期大学部、神戸国際大学、名古屋柳城短期大学、聖路加看護大学、平安女学院大学、平安女学院大学短期大学部

カトリック教会系大学
  藤女子大学、天使大学、仙台白百合女子大学、上智大学、上智大学短期大学部、聖心女子大学、清泉女子大学、聖母大学、白百合女子大学、東京純心女子大学、清泉女学院大学、清泉女学院短期大学、南山大学、南山大学短期大学部、京都ノートルダム女子大学、聖トマス大学、神戸海星女子学院大学、ノートルダム清心女子大学、エリザベト音楽大学、聖カタリナ大学、聖カタリナ大学短期大学部、聖マリア学院大学、長崎純心大学、鹿児島純心女子大学、青森明の星短期大学、聖霊女子短期大学、聖園学園短期大学、桜の聖母短期大学、星美学園短期大学、カリタス女子短期大学、聖セシリア女子短期大学、京都聖母女学院短期大学、大阪信愛女学院短期大学、和歌山信愛女子短期大学、久留米信愛女学院短期大学、聖マリアンナ医科大学

その他
  津田塾大学、玉川大学 、洗足学園音楽大学 、八戸学院大学・八戸学院短期大学 、自由学園






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