||仏教入門講座
仏教伝来 
- 2013年12月4日

1、仏教伝来の時期と時代背景



 飛鳥時代の552年(538年、548年という説もあり)、百済の聖明王から欽明天皇に釈迦仏の金銅像や経論などが送られました。これをもって日本仏教の始まりとされます。
 当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国に分かれており、連合と対立を繰り返していました。仏教はまず最も中国に近かった高句麗に前秦(351~394、氐族)から372年に伝わり、百済には前秦と対抗していた東晋(317~420)から384年に伝わっています。新羅にはその後5世紀初めに伝わりました。宗派としては、三論宗、律宗、涅槃宗、円融宗、華厳宗、法性宗、法相宗、小乗宗、海東宗、神印宗などがありました。6世紀前半に即位した百済の聖明王は、当初新羅と結んで高句麗に対抗していましたが、次第に新羅の圧迫を受けることになり、新羅に対抗するため当寺朝鮮半島に任那を持っていた同盟国の日本に対して援軍を要求しています。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、日本へ先進文化を伝えることで交流を深めるとともに、仏教に心酔していた梁(502~557)の武帝の歓心を買おうとしたためと思われます。
 年代に諸説があるのは『日本書紀』(720年成立、ちなみに『古事記』は712年)に従えば552年なのですが信憑性が薄く、より信頼性が高い『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に従えば538年となるからです。ただし、この年ですと天皇は欽明天皇ではなく兄の宣化天皇の時代になります。この二人はその先の安閑天皇とともに、継体天皇の子供です。継体天皇といえば、先代の武烈天皇の「五代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」であり、親戚であるかさえも怪しく、天皇家の歴史の中でも最も不安定な時期でした。このため継体天皇は即位後、20年ちかくも都を大和に定めることができませんでした。このような中で百済の王から欽明天皇が仏像を譲り受けています。548年説は百済側から推察したもので、いずれも定説には至っていません。また『日本書紀』に545年9月に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺、5メートル弱)の仏像を作成し任那に贈ったとの記述もあり、これを仏教伝来の時期と考えることもできます。
 ただし、当時の日本には既に多くの渡来人が定住していました。彼らは自分達の私的なものとして、仏像や経典を既に持ちこんでいました。522年継体天皇の時代に日本に来たと言われる司馬達等(しばたっと)は仏像を安置していて、それを見た日本人がその仏像を「大唐の神」と呼んでいたとの記録があります(「扶桑(ふそう)略記」)。この一族は熱心な仏教徒として知られ、孫の鞍作止利(くらつくりのとり)は法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像の作者として知られています。ですから、ここでいう仏教伝来とは、あくまでも公式にという意味になります。


2、仏教受容をめぐる争い



 百済王から仏像を受け取った欽明天皇はその見事さに感銘して、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いたといいます。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に百八十の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したといいます。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念して、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立のみを許可しました。しかし、直後に疫病が流行したために、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上し、欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したといいます。
 しかし、近年の研究で物部氏の居住跡から仏塔の遺構などが発見され、物部氏も仏教を信仰していた可能性が高まり、この崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、本質的には蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説も出ています。
 いずれにしても、仏教をめぐる蘇我稲目・物部尾輿の対立は、そのまま子供の蘇我馬子・物部守屋に持ち越されました。馬子は渡来人の支援により勢力を拡大させると、その見返りとして敏達天皇に仏教を公認することを求めます。天皇は即位に伴い守屋を大連に任じていた排仏派でしたが、拡大する蘇我氏の勢力に抗しきれずこれを許可します。そこで司馬達等の娘である善信尼を始めとした僧・尼僧の得度も行わるようになります。しかし敏達天皇の末年に再び疫病が流行し、物部守屋・中臣勝海らはこれを蘇我氏らが蕃神である仏を崇拝したことが原因であるとして天皇に仏教の禁止を求めます。天皇はこれを許可し大規模な廃仏毀釈が行われました。仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を罵倒した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして群衆の目前で鞭打にしたといいます。こうした物部氏の排仏の動き以後も疫病は流行し続け、敏達天皇は崩御します。この葬儀の場で馬子が佩刀(はいとう)して誄言(しのびごと)を奉うと守屋が「猟箭(ししや)がつきたった雀鳥のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑ったといいます。次の用明天皇は蘇我稲目の孫で、馬子の妹の子供にあたり、敏達天皇とは異なり崇仏派でした。そこで守屋は敏達天皇の異母弟である穴穂部皇子と手を結び、穴穂部皇子を炊屋姫(かしきやひめ、敏達天皇の后、後の推古天皇)に夜這をかけさせますが、三輪逆(みわのさかう)に阻まれました。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させてしまいます。これを知った馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆きますが、守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えたとのことです。しかし依然として疫病の流行は続き、用明天皇も病に伏せます。そこで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねますが、ここでも守屋と馬子が対立します。ここで馬子は守屋の味方であったはずの穴穂部皇子に豊国法師を連れて来させ、宮中に入れてしまいます。これを守屋は睨みつけて大いに怒りますが、守屋暗殺の動きがあるとの知らせを聞き、いそいで朝廷を去り、別邸のある河内国へ退き味方を募ります。同じく排仏派であった中臣勝海は馬子派の皇子である彦人皇子と竹田皇子の呪詛をしますがうまくいかず、やがて彦人皇子のもとを訪れ寝がえりを誓いますが、その帰路に暗殺されます。このように緊迫した状況で用明天皇はわずか在位2年で崩御します。この用明天皇の子供が聖徳太子です。
 守屋は次期天皇として穴穂部皇子を皇位につけようとしますが、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺してしまいます。そして、同じく炊屋姫の命により物部守屋の討伐に挑みます。馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)、竹田皇子、廐戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国の守屋の館へ向かいました。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めます。その軍は強盛で、守屋は榎(えのき)の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけたといいます。これに蘇我の軍は恐怖し、討伐軍は三度にわたり撃退されます。これを見た廐戸皇子は仏法の加護を得ようと白(ぬり)膠(で)の木で四天王(天に住む仏教における、4人の守護神。身長は半由旬(3.5KM)、寿命は五百歳で、その一昼夜は人間界の五十年に相当する。持国天、増長天、広目天、 多聞天 )の像をつくり、この戦に勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓い祈願します。馬子は軍を立て直して進軍させ、迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋を射落とすことに成功します。守屋を失った軍は敗北してしまいました。この戦いを丁未(ていび)の乱といいます。
 この戦の後、馬子は泊瀬部皇子を崇峻天皇とします。しかし崇峻天皇は政治の実権を馬子が持ったことに不満をもち馬子と対立することになります。崇峻天皇5年、馬子は崇峻天皇を暗殺させ、替わりに炊屋姫を推古天皇とします。これが天皇家史上初の女帝となります。同時に厩戸皇子が皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐しました。
皇太子となった廐戸皇子は摂津国に約束通りに四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷の半分は馬子のものになりました。馬子の妻が守屋の妹だったので相続権を主張したのです。残りの半分は四天王寺へ寄進されました。物部との戦で、馬子も諸天王・大神王たちに願をかけて、戦勝の暁には諸天王・大神王のために寺塔を立てて三宝をひろめることを誓っていました。この約束に応えるために、馬子は法興寺を建立しました。現在、聖徳太子の佩(は)刀(かし)とされる七星剣と丙子椒林剣(へいししょうりんけん)が現在、四天王寺に保管されています。これらのことがどこまで事実かは定かではありませんが、とりあえず仏教が公のものとなりました。

3、物部氏と蘇我氏の軋轢の背景



 この仏教をめぐる争いは、本質的には物部氏(もののべうじ)と蘇我氏(そがのうじ)の勢力争いであるといえそうです。そこで、この両氏のことをみてみます。
 物部氏は、河内国にニニギノミコト(アマテラスの孫で日向から降臨したとされる天孫)よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコト(『日本書紀』の記述。『古事記』では神武天皇に帰属した先住の神とされています)を祖先と伝えられる氏族で、元々は兵器の製造・管理を主に管掌していました。同じく先住の神であるアメノオシヒノミコトを祖とする親衛隊の大伴氏と並ぶ有力軍事氏族で、大和王権家臣の中では最高位に位置していた姓(かばね)の一つである連を姓としています。連は、早くから大和王権に直属していた有力氏族の中に与えられた姓と言われ、特殊な官職や職業を束ねる立場に有りました。大伴氏や物部氏以外に連の姓を名乗っていた有力な氏族には中臣氏・土師氏・弓削氏などがあります。連の多くは皇室以外の神の子孫としています。この連の姓を名乗る氏族の中で最も有力な者を大連(おおむらじ)と呼びます。
 一方の蘇我氏の姓は臣(おみ)です。神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としているとされますが、具体的な活動が記述されるのは蘇我稲目からです。渡来系の氏族と深い関係にあったようで渡来人によってもたらされた当時の先進技術に台頭してきたようです。稲目の代になると、過去に大臣を出していた葛城氏や平群氏(へぐりうじ)は既に勢いをなくしており、蘇我氏は大連の大伴氏や物部氏にならぶ三大勢力の一角となっていました。臣は大和王権で使われていた姓の一つで、姓の中では連と並んで高位に位置していました。元々、ヤマト王権に対して服属した畿内周辺の豪族に与えられた姓で、蘇我氏以外には、巨勢氏(こせうじ)、紀氏(きうじ)、平群氏、葛城氏、波多氏、阿部氏などがあります。臣姓の多くは継体天皇以前の天皇から別れ出た氏族とされていますが、蘇我氏以下の有力七氏族は武内宿禰(父は孝元天皇の孫もしくはこどもとされています)を共通の祖としています。また、地方でも有力な豪族に対しては臣の姓を名乗ることが許されています。この臣の姓を名乗る氏族の中で最も有力な者を大臣(おおおみ)と呼び、国政を預けられました。
 このようにしてみると、物部氏と蘇我氏の争いは、天皇家以前から勢力を持っていた勢力と、天皇家から派生した勢力の争いであるとも言えます。


4、神道との関係



 仏教が伝来する以前から日本には古くからの信仰がありました。それらの神々は、土地や氏族に結びついているもので、特に教えというものはなく、人間を超えた力を持つ存在として、畏れ敬われてきました。その神々と通じることができるものがまつりごとを行いってきたのです。ですから仏教が伝わったときにもこれらの神と同じ様な存在として受け止められていたようです。そこで「蕃神(あだしくにのかみ)」「今来の神(いまきのかみ)」「仏神」と呼ばれました。つまり、当時の日本人にとって、仏教は新しい宗教ではなく、新顔の神様だったのです。ですから、仏教をどのように理解していたかを知るためにも、当時の神道を知る必要があります。


1)最古の神の一つ 地主神


 日本の神道では、土地ごとにそれぞれの地主神(じぬしのかみ)がいてその土地を守護しているとされています。地主神への信仰の在り方は多様で、荒神(こうじん)、田の神、客人神(まろうどがみ)、屋敷神や一族の祖先が地主神として信仰の対象になることもあります。御神体も多様で、自然石、石塔、祠(ほこら)、新しい藁束、御幣(ごへりい)などがあります。祀る場所もまた多様で、神社、寺院のほか、丘や林の祠(ほこら)、屋敷、屋敷の裏山で祀り、一族の墓が神格化する地域もあります。主な地主神には大国主神(おおくにぬしのかみ)や、五十鈴川領域の地主神である興玉神(おきたまのかみ)、比叡山の地主神である日吉神などがあります。


2)もう一つの神 鎮守神


 元々は、鎮守神と地主神を押さえ込み服従させるために新たに祀られた神のことです。つまり、人間がある土地に建物を造営したとき、その土地に宿る神霊が人間や建物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請して祀ったのが鎮守神です。そして、地主神は鎮守神に従順に服属し、その活動を守護・補佐することが期待されるのですが、ときには地主神が抵抗し祟りを起こすこともあったようです。しかし、時代とともに鎮守神の本来の意味は忘れられて、地主神との混同習合してしまいました。村落に鎮守神が祀られるようになったのは、対立する豪族が祀る氏神に対抗して村落を鎮守するために神社を祀るようになったと考えられています。


3)神としての仏


 蘇我氏が物部氏を討ったことで、一旦は仏教が国によって庇護されますが、この後に起こった大化の改新によって蘇我氏が滅亡し、仏教は勢いを失ってしまいます。大化の改新の中心人物である中臣鎌足は連の姓であり、常陸の鹿島神宮の出身でもあります。この後日本の政治の中心を握る藤原不比等はこの鎌足の子供です。春日大社は、藤原氏の氏神である鹿島神宮を大和に移して分社したものです。藤原不比等は仏教を禁止することはしませんでした。寺もいくつか建立されますが、仏教は神道に従属する扱いでした。しかし、不比等の死後、藤原氏の勢力に不満を持っていた長屋王と不比等の子供四人との対立が表面化します。そこで不比等の子供達は長屋王とその一族三十人を焼き討ちしてしまいました。ここで話が終われば、仏教は沈んだままだったのですが、この直後から疫病が流行り始めます。そして、不比等の子供四人は皆死んでしまいました。これを長屋王の祟りだと恐れたのが、四兄弟の姉妹であった当時の聖武天皇の皇后光明子(こうみょうし)でした。次は自分が呪い殺されると考えたのです。何とかこの祟りをおさえようと神道の神々に祈祷しますが疫病は治まりません。ここで登場したのが仏教の僧侶です。「これは仏罰であるから、仏教による加持祈祷以外にこの祟りをおさえる方法はない」と繰り返し訴えました。そこで僧侶による加持祈祷が行われ、なんと疫病は治まったのです。ここで天皇家と日本は大きく仏教国へと舵を切ることになります。そして行われたのが、国家安泰を祈祷するための大仏建立であり、全国に国分寺、国分尼寺を建設することであり、聖徳太子ゆかりの法隆寺の再建でした。南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)をはじめとする奈良時代の仏教は国家を安定させるために信仰する鎮護仏教としての性格が強く、教えとしての仏教が受け入れられるにはまだ時間が必要でした。

参考資料


南都六宗
 法相宗 (唯識) -興福寺・薬師寺
 倶舎宗 (説一切有部、法相宗の付宗) -東大寺・興福寺
 三論宗 (中論・十二門論・百論) - 東大寺南院
 成実宗 (成実論、 三論宗の付宗) - 元興寺・大安寺
 華厳宗 (華厳経) -東大寺
 律宗 (四分律) -唐招提寺


諏訪大社
 上社、 本宮 前宮
 下社 、秋宮 春宮
 上社と下社は離れていることもあり、実際には別の神社となっています。また社格にも序列はありません。
 創建の年代は不明ですが、日本最古の神社の1つといわています。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とありますから軍神とされていたようです。この関係によるものでしょうが、中世には狩猟神事が執り行われており、現在でも狩猟・漁業の守護祈願で知らています。
 社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているなど、社殿は独特の配置となっています。
 主祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)と、その妃である八坂刀売神 (やさかとめのかみ)です。
 建御名方神は『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段におい て、大国主命の御子神として登場しています。母は沼河比売(ヌナカワヒメ、奴奈川姫)です。父である大国主命は『日本書紀』ではスサノオの息子、『古事記』や『日本書紀』、『新撰姓氏録』ではスサノオの六世か七世の孫とされています。スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させます。しかし、高天原から国譲りを要請されて、幽冥界の主となったとされます。この際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿を建てて欲しいと条件を出し、それが出雲大社となります。色々な女神との間に多くの子供をもうけており、その数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれています。これらの記述から、天皇系の天津神に従った国津神180柱のリーダー的な存在ではなかったかと思われます。するとこの180とは当時、大和朝廷に従った部族の数ということになります。

 

なお、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなく大和民族に征服された先住民の神であるミシャグチ神とも考えられています。石神(シャクジ、サクジ)、ミシャグチ、サクジ、オシャモジ、シャクチ、サクチ、サグチ、サクジン、オサクジン、オシャグチ、オミシャグチ、サゴジン、ミシャクジ、ミシャグヂ、ミシャグジン、シャゴジ、オシャゴジ(御石神)、オシャグジなど、多様な音転呼称や御社宮司、御左口など多くの漢字があてられており、日本各地に見ることができます。柳田國男はこの神を塞の神(サイノカミ)、境界の神であると考え、大和民族と先住民の居住地を別けるために立てた一種の標識であるとしています。また「塞」はサエ、ソコ、サキなどの語との結びつきからアイヌとの関連もみられます。諏訪地方では蛇神であるソソウ神と習合して白蛇の姿であらわされることもあります。また、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもあります。 諏訪地方に於いては太古の昔からのミシャグジ信仰に後から来た建御名方神が習合、同一視されるに到ったともいわれるが、元々諏訪地方の土着神だったミシャグジ神が記紀神話に取り入れられて建御名方神になったという説もある。ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになったと言われている。その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事等からこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。)、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるという説もある。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。
『古事記』・『先代旧事本紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男である建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。
他の神社同様、かつては神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされた。

諏訪大社式年造営御柱大祭
寅年と申年の6年ごと(7年目ごと)に、樅を山中から切り出し、各社殿の四方に建てて神木とする祭。諏訪大社の最も重要な祭である。御柱と同時に、宝殿の建て替えのため宝殿内の神器の遷座も行われる。

御神渡 (おみわたり)
冬、諏訪湖の湖面に氷が張り、日中に氷の膨張によって亀裂が走る現象で、特に上社から下社の方向へ走るものに対していう。これは男の神が上社から女の神のいる下社へ通った跡とされ、神事が諏訪市の八剱神社の宮司によって執り行われる。なお、同様の現象は摩周湖等でも起きる。

蛙狩神事
元日の朝に上社本宮で行われる神事。まず御手洗川の川底を掘り返し、蛙を捕らえる。その後拝殿正面にて矢を以てこの蛙を射抜き、生贄として神前に捧げ、宮司が祝詞を捧げ国家平安と五穀豊饒を祈願する。蛙を供えるのは、諏訪大社の本来の祭神が、蛇神とされるソソウ神や、諏訪地方ではソソウ神と同一視されやはり蛇神とされたミシャグジ神であったとされ、蛇神に捧げる(蛇は蛙が好物)意味があるとされる。

御頭祭
4月15日に上社で行われる祭。別名「酉の祭り」「大御立座神事(おおみたてまししんじ)」「大立増之御頭」と言われている。
現在では、鹿や猪の頭の剥製が使われているが、江戸時代に菅江真澄の残した資料に、白い兎が松の棒で串刺しにされたものや鹿や猪の焼き皮と海草が串に刺さって飾られていたり、鹿の脳和え・生鹿・生兎・切兎・兎煎る・鹿の五臓などが供され、中世になると鹿の体全体が供され、それを「禽獣の高盛」と呼んだという内容が残っている。また諏訪大社七不思議の1つとして「耳裂鹿」というものがある。これは生贄の鹿の中で、必ず耳が大きく裂けた鹿がいるというものであるという。

御射山祭 (みさやまさい)
上社の狩猟神事。中世には年4回八ヶ岳の裾野で巻き狩り祭を行い、御射山祭はその中で最も長く5日間続いた。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行なうことから「穂屋祭り」の名称もある。鎌倉時代に幕府の命で御射山祭の費用を信濃の豪族に交代負担することが決められ、参加する成年期の武士(と馬)はこの祭で獲物を射止めることで一人前の武士、成馬として認められたという。







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