|日本仏教史|仏教入門講座
仏教興隆 
- 2013年12月4日

1、仏教の権力掌握


 聖武天皇によって国ごとに国分僧寺と国分尼寺が設置されますが、僧寺の正式名称は金光明四天王護国之寺、尼寺は法華滅罪之寺です。いずれも鎮護国家や加持祈祷を目的とした寺院で、この寺院名の由来になっている『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』に『仁王般若経』を合わせて鎮護国家三部経といいます。これ以外に『大般若経』や『金剛般若経』も、しばしば同じ目的で用いられます。奈良の東大寺と法華寺は、全国に建てられた国分寺・国分尼寺の総本山です。
 加持祈祷を目的とした奈良仏教を代表する僧に道鏡がいます。物部一族の出身で法相宗の僧侶です。古代インド文字であるサンスクリット語や禅(当時は気功術などを含む「超能力」を指したと思われます)に通じていたようで、法力によって孝謙上皇(後の称徳天皇)の病を治したことをきっかけに、政治の最高位である太政大臣禅師と僧侶の最高位である法王の両方に就きます。弟が従二位大納言に就いたのを筆頭に、昇殿を許される五位以上の殿上人に一族の者が十人も入りました。さらに天皇に即位することを企てますが失敗したとされています(宇佐八幡宮神託事件)。その後、藤原北家の後押しで天智天皇の孫、光仁天皇が即位すると、道鏡は下野薬師寺別当として下野国に流され、一族も地位を奪われてしまいます。
 道鏡が称徳天皇に重用されていたことから、平安時代以降の学者によって天皇と姦通していたとする説や巨根説などがうわさされ『日本霊異記』や『古事談』などの説話集の題材にされていきました。真実のほどは分かりませんが、称徳天皇の崩御により天武天皇系から弟の天智天皇系へと皇統が移ったことを正当化するために、称徳天皇と道鏡を貶めようとして創作されたものであるともいわれています。結果としては道鏡の巨根伝説だけが誇張されて後世まで伝えられ、江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳まで詠まれました。また関西の山中に生息する体長に比べて非常に大きな交接器を持つオサムシの一種までが「ドウキョウオサムシ」と命名されています。
 道鏡が権力を失った後も、仏教の僧侶は国家鎮護や呪詛などの強力な法力を持つ者として、朝廷に対して強い権力を持ち続けることになります。呪詛が盛んに行われていた例としては、称徳天皇の娘である井上内親王が夫である光仁天皇を呪詛しようとした罪に問われ、皇后の地位を奪われ、その子他戸親王までも皇太子から降ろされた事件が知られています。この事件も道鏡と同様に、天武系と天智系の争いによるものとも考えられます。
 一方で、行基のように民衆の中に教えを広めようとする者や、道慈のように自ら唐へ渡った経験から、唐から高僧を招請することによって仏の教えとしての仏教を広めるように提案する者も現れます。この招請によって唐招提寺を開いた鑑真が日本に来ることとなります。しかし、このような動きは全体からすると小さなものでした。仏教を受け入れるだけの土壌がまだできていなかったのです。
壬申の乱前後の天皇系図

2、教えとしての仏教への展開

(ア)平城京(奈良)から平安京(京都)へ

 奈良末期、光仁天皇のころの混乱を治めるために、次の桓武天皇は「軍事と造作」に取り組みます。軍事とは光仁天皇のころから激化していた東北地方の蝦夷(えみし)征討です。当時は現在の宮城県中部から山形県中部あたりが大和と蝦夷の国境でした。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、胆沢城(岩手県水沢市)に鎮守府を移すと蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)らを降伏させ、嵯峨天皇の時代に文室綿麻呂によって一旦は蝦夷との争いは治まります。これ以降は、岩手県中部から秋田県中部あたりが国境となります。降伏した蝦夷は俘囚(ふしゅう)として全国に移住させられました。
 造作とは遷都問題です。桓武天皇は仏教の政治介入を排除するために,平城京の寺院が新都へ移転することを禁止したうえで遷都に踏み切ります。一旦は長岡京に遷都しますが、造宮長官であった藤原種継(式家)が暗殺されたために中止し、平安京へ遷都します。これが以後千年続く平安時代の始まりです。ある意味では、奈良の仏教僧たちが都を奈良から京都に移させたともいえます。それほどに権力を持っていたということです。

(イ)奈良仏教から平安仏教へ

 桓武天皇は、平安京に遷都して十年後、空海と最澄を遣唐使とともに中国に送り仏教を学ばせます。これは、新しい仏教によって奈良の仏教を牽制することが目的でした。
 最澄は比叡山で十二年間修行したエリートです。遣唐使として中国へ留学し、天台宗、密教、禅、大乗戒の四宗を学び(四宗兼学)帰国します。天台宗ですべての者が平等に救われるという一乗思想の教えを学んだ最澄は、生まれながらにして悟りを得ることができる者と出来ない者がいると説く法相宗の高僧である徳一と対立します。身分差別が当たり前の当時にあっては、徳一の教えのほうが理解しやすかったのですが、最澄は一歩も譲りませんでした。これは教えの優劣にとどまらず、どちらが仏教の主導権をとるかいう問題でもあったのです。これにより、比叡山と奈良は対立関係になっていきます。この最澄の思想が、後に「何もしなくても生きとし生けるものはすべて、そのままで仏である」という思想に発展していきます(本覚思想)。これは釈迦の仏教にはない日本独自の思想で、後の鎌倉仏教にまで影響していきます。
 一方の空海は、地方豪族の豊かな家に生まれ乱れた生活をおくっていたようですが、たまたま出会った僧から百万遍唱えるとこの世にある一切の経文を暗記できるという「虚空蔵求聞持法」を学び、これをきっかけに仏門に入ったとされています。同じく遣唐使として中国へ渡りますが、主に胎蔵界と金剛界の両部密教を学んで帰国します。密教は釈迦ではなく釈迦の本体とでもいうべき大日如来が説いている教説です。これに対して釈迦が説く経典によっている仏教を顕教といいます。密教は衆生の救済という仏教的な面を持ちながらも呪術的な要素が強く、当時の日本人の感性に近いものであったため、貴族の関心は密教に集中することになります。また、奈良仏教とも教えの点から対立することなく、良好な関係を築きます。

(ウ)密教の隆盛と神々の変化

 天台宗を主な教えとしていた比叡山もこの流れに逆らえず、徐々に密教的な色を強め、いつしか密教が日本仏教の主流になります。真言宗密教は東密、天台宗密教は台密と呼ばれるようになり、現世利益をかなえるための貴族仏教として庇護されます。それでも、鎮護国家と呪術が主流だった奈良仏教から、加持祈祷的な要望にも応えながらも、衆生の救済を主眼とする教えを主体とする仏教へと大きく舵を切ったという点では、平安遷都は仏教にも大きな変化をもたらしたといえます。
 密教が日本の宗教の中心になることにより、神社の神々も仏教に吸収されていきます。この思想を本地垂迹といいます。これは日本の神々は、仏教の仏や菩薩などの化身であるという考え方です。これを権現といいます。権とは「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたという意味です。この発想はインドのヒンドゥー教にあるもので、仏教に取り入れられました。仏が神の上に立ったとも見えますが、それまでは、神も仏に救われなければならないものとして位置づけられていたのです。これが天武天皇のころから天照大神などの神々が体系化されために、仏教側も神々を同一視することによって格上げしたと言えるのです。この傾向は、奈良時代から始まっていたのですが、密教が理論付けして教えとして合理性を持たせたのです。
 教えとしては神社の密教化といえますが、歴史上は神のほうが仏に歩み寄ってきたことになっています。その一番手が八幡神です。八幡神は応神天皇ですが、この神様が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様もそれに続いたようです。これ以降、八幡神は八幡大菩薩と呼ばれ、阿弥陀如来の本地垂迹といわれるようになります。仏と神が同じになることで寺と神社の境もあいまいになって行きます。神宮寺や東照宮、稲荷などはその代表例です。上賀茂神社をはじめ多くの神社には神宮寺があります。日光東照宮は大社ですが輪王寺の僧侶が運営していました。しかし、高尾山薬王院のように、かつては僧侶が運営していた神社仏閣の多くが、明治期の神仏分離によって寺を捨て神社になってしまい、同時に本地垂迹説も消滅してしまいます。

(エ)末法思想と浄土教

 平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたり、仏教が滅びる末法の世が始まったと考えられていました。末法の世では、どんなに努力しても誰も悟りを得ることができないうえに、国が衰え人々の心も荒むとされていましたから、現世での幸福をあきらめて来世に幸せを求める浄土信仰が流行することになります。中でも阿弥陀如来の極楽浄土への往生を勧めた源信の「往生要集」は大きな影響を与え、来迎図が盛んに描かれたり、極楽浄土を模した平等院が建立されたりします。これにより、寺院の巨大化が進み、その強大な財力を守るために、僧兵が生まれたり、寺院内に石垣や堀を巡らせたりする寺院の城塞化が見られるようにもなります。結果、寺院間の武力対立や朝廷への武力行使が起こるようになります。
 一方で、貴族だけではなく民衆の間にも浄土信仰は広がりを見せます。その立役者が聖といわれる僧侶です。それまでの僧侶は、貴族からの支援によって貴族のためだけに修行していたのですが、最澄や空海の教えを受けた僧の中には、このような仏教のあり方に疑問をおぼえ、貴族の庇護を離れて乞食僧として民衆の中に入っていくものがあらわれてきたのです。その代表的な存在が空也です。諸国を遊行して、念仏の功徳を庶民に説いたばかりではなく、道路や橋を整備したり、荒れた寺や堂を修理したり、野に置かれた遺体の葬儀をしたりします。自らは乞食(こつじき)しながら、貧民や病人の世話をする生活を送ったため市聖と呼ばれ、従来の僧侶のイメージを一新しました。このような聖に対して、自分の力では救われることのない者を、仏が仮の姿をとってこの世に現れてくれたのだという、もう一つの本地垂迹思想が生まれることになります。仏教の教えが民数の手元に届き始めたのです。

3、教えとしての仏教の再生 -鎌倉仏教―


 鎌倉時代に入ると、仏教界に大きな3つの流れがおこります。一つは世俗化した仏教の建て直しです。僧侶が権力に固執する姿に民衆は不信感を募らせていました。僧侶になることを出家といいますから、原点回帰といえる方向性です。もう一つは空也に始まっていた仏教の民衆化です。これも本来の仏教の姿ですから、同じく原点回帰といえます。このために教えをもう一度整理する必要がおこってきたのです。最後の一つは密教から顕教への回帰です。密教自体が仏教のヒンズー教化と言えますから、これも原点回帰です。ですからこの3つは、新しい仏教の流れというよりは、本来の仏教に帰るための揺り戻しと言った方がいいのかもしれません。これが後にいう鎌倉仏教です。

(ア)念仏の広まり

 空也によって民衆に広まっていった念仏を教義として確立したのが良忍です。比叡山の僧でしたが、後に大原に隠棲し念仏聖として毎日法華経一部と念仏六万遍を称えたといいます。念仏に独自の節をつけて仏教音楽として独立させ大原魚山流声明の一派を立てます。四十六歳のとき、夢の中に阿弥陀仏から「ひとりの念仏は衆人に、衆人の念仏はひとりに通じて速疾往生が成就する、これが他力の融通念仏である」との啓示を得たといわれます(「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」)。死後ほどなくして融通念仏の祖とされます。良忍の弟子が、比叡山の西塔黒谷で聖をまとめていた叡空で、叡空の弟子が浄土宗の祖とされる法然になります。さらに法然の弟子が浄土真宗の祖とされる親鸞であり、法然の法流から時宗の一遍、一向宗の一向などが次々と生まれてきます。良忍や法然は京都を出ることはありませんでしたが、親鸞はたまたま流罪になったこともあって自ら民衆の中に入っていきます。これが一遍や一向、さらには親鸞の法流の源海の一門などになると、民衆の中に入ることによって教えを説くことが主眼となっていきました。ここで求められてきたのが、理論的な仏教ではなく、より平易で直感的な仏教になります。これは学問に全くなじみのない人たちに仏教の教えを伝えるためには絶対必要なものでした。
 これとは別に高野山系の念仏も興っています。新義真言宗の祖である覚鑁は、阿弥陀如来を大日如来の派生であるとして念仏を真言教学の中で理論化しました。金剛峯寺座主の時に、真言宗の建て直しをしようとして、逆に反発した僧の派閥によって金剛峯寺を追放され、根来山に移り根来寺を建立します。長谷寺や智積院もこの流れです。この時代は様々な念仏の教えが混在していた時代でもあったのです。

(イ)禅という新しい仏教

 鎌倉仏教の大きな特徴の一つが、禅という新しい仏教の登場です。臨済宗の栄西と曹洞宗の道元によってもたらされたこの仏教は、呪術的な仏教や学問的な仏教に馴染んでいた上流階級の人にとって、実践的で直感的な仏教として新鮮なものとして映ったのです。それまでは僧侶に任せておくしかなかったものが、自らも疑似体験できるということが分かり易さにつながったのでしょう。また全く新しい流れであったので、新興勢力の武士階級にとって受け入れやすい教えであったともいえます。

(ウ)日蓮

 浄土系、禅系の祖師と並び、現代まで強い影響力を残している鎌倉仏教の僧に日蓮がいます。他の祖師たちとは違い賎民の出身とされますが、十六歳で出家すると二十歳で比叡山を皮切りに、三井寺、天王寺、東寺などに十年間遊学したと伝えられます。帰郷後、鎌倉の大地震などの天災が続きますが、この原因を人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして、すでに勢力を伸ばしていた浄土系、禅系仏教を非難しました。このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けるが、正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と前執権で幕府最高実力者の北条時頼に主張しました(「立正安国論」)。このような発言を繰り返したため、伊豆や佐渡に流罪になったり、処刑されそうになったり、焼き討ちにあったりと、波乱万丈の人生を送りますが最後は支援者に恵まれて六十歳の寿命をまっとうします。現在日蓮の流れを汲む宗派は日蓮宗、顕本法華宗、本門法華宗、法華宗本門流、法華宗陣門流、法華宗真門流、日蓮宗不受不施派、不受不施日蓮講門宗、日蓮正宗の九派で、これ以外に多くの新宗教が生まれています。多くの敵を作りながらも、これだけの広がりをみせるのは、浄土系や禅系以上に明快なその教えにあるのでしょう。

(エ)その他の仏教改革者

 この時代には、先の三つの流れ以外にも多くの優れた僧が生まれています。弥勒信仰の聖であり、法然浄土宗を非難した興福寺奏状を起した法相宗の貞慶や、同じく法然浄土宗を非難した華厳宗の明恵、法然門下であり東大寺の復興に尽力した重源、華厳宗の僧でありながら律宗や真言宗、浄土宗をも学び法隆寺や唐招提寺など奈良の有力寺院を管轄した天才僧凝然、真言律宗の祖で橋や道路の整備や荒れた寺院の復興などによって非人やハンセン病患者などの社会的弱者を救済するシステムを作り、また国家から授戒を拒否されてきた女性への授戒を認めるなど、国のための仏教ではなく個人を救済するための仏教を実践した叡尊などがいます。当時としては大きな影響力を持っていたのですが、時代を超えた大きな流れとなることはありませんでした。

(オ)反本地垂迹説

 鎌倉時代中期には、本地垂迹説とは逆に、仏が神の権化であると考える神本仏迹説も現れました。仏教の下に置かれていた神社が仏教から独立しようとして考えたものです。伊勢外宮の神官である渡会氏は、神話・神事を整理、再編集して『神道五部書』を作成して理論化し伊勢渡会神道の基盤を作りました。また、天台宗の本覚思想を使って神道を理論化したり、空海の言葉を利用して理論書を再編したりもしています。天台宗からもこれに同調する者が現れます。慈遍は「旧事本紀玄義」や「豊葦原神風和記」を著して神道に改宗し、良遍は「神代巻私見聞」や「天地麗気記聞書」を著し、この説を支持しました。吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させますが、鎌倉新仏教は本地垂迹説を支持しました。

4、仏教国日本の誕生 -庶民の中に溶け込んだ仏教思想―



(ア)臨済宗  - 夢窓疎石と一休宗純 -

 鎌倉幕府が滅亡すると、再び政治の中心地は京都に戻ります。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、武士から支持を集めていた臨在宗が幕府に保護され、公家との関係の深い旧仏教勢力の延暦寺などは政権内での影響力を失っていきます。この時代の臨済宗の僧を代表するのが夢窓疎石です。鎌倉時代から後醍醐天皇や北条高時から絶対的な信頼を受けていましたが、室町幕府になっても足利家に重んじられます。。また、嵯峨野に天龍寺を建立するための建設資金調達のために天龍寺船の派遣を献策して、関係が悪化していた元との改善に努めました。正に誰からも尊敬される人物だったのでしょう。臨済宗の教えは、鹿苑寺(金閣寺)などの北山文化や慈照寺(銀閣寺)などの東山文化、水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など多くの文化・芸術を生み出します。しかし一方で、僧侶の貴族化をももたらすことになります。
これに反発したのが一休宗純です。十三歳の時に漢詩『長門春草』、十五歳の時に漢詩『春衣宿花』をつくり、世間を驚愕させます。二十二歳で「洞山三頓の棒」という公案に対して「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたところから一休の道号を受けます。後に大徳寺の住持になりますが寺に住むことは無く、自由奔放な生活を送ります。男色はもとより飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の森侍者という側女や岐翁紹禎という実子の弟子もいました。木製の刀身の朱鞘の大太刀を差して町を歩き回ったり、正月に杖の頭にドクロをつけて「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いたという話が伝わっています。このような奇行は仏教の権威や形骸化を批判・風刺したものであるといわれます。歌人としても知られ、その歌は素人から見ても卓越です。(『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など)

 門松は 冥土の旅の一里 塚めでたくもあり めでたくもなし

 釈迦といふ いたづらものが 世にいでて おほくの人を まよはすかな

 女をば 法の御蔵と云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む

 世の中は 起きて稼いで寝て食って 後は死ぬを 待つばかりなり

 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

 「婬水」 夢に迷う上苑美人の森 枕上の梅花花信の心 満口の清香 清浅の水 黄昏の月色 新吟をいかんせん

 「美人の陰に水仙の花の香り有り」 楚台まさに望むべし まさに攀すべし 半夜の玉床秋夢の顔 花は綻ぶ一茎梅樹下 凌波の仙子腰間を遶る

 「森公 輿に乗る」 鸞輿の盲女 屡(しばしば)春遊す 鬱鬱たる胸襟 愁を慰むるに好し 遮莫(さもあらばあれ) 衆生の軽賤することを 愛し看る森や 美風流

 「九月朔 森侍者 紙衣を村僧に借り寒を禦ぐ。瀟洒愛すべし。偈を作りて之を言う」 良霄の風月 心頭乱る 何奈(いかんせん)相思 身上の秋 秋霧朝雲 独り瀟洒 野僧の紙袖 也(また)風流

(イ)曹洞宗  - 瑩山による大衆化 -

 道元は祈祷を否定はしなかったものの、僧たちの安全祈願程度であり、旧来仏教が行っていたような加持祈祷を禁じていました。しかし、永平寺3世の徹通義介は元に留学して密教の祈祷を学び曹洞宗の教えの中に取り入れていきます。この動きに対して反対する勢力と対立が起きますが、四世の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)は密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れて、積極的な布教活動を行います。これによって、曹洞宗は下級武士や商人に急速に広まっていきました。瑩山が密教に対して寛容であったのは白山系天台寺院の出身であったためともいわれます。曹洞宗という宗派を名乗ったのも、能登の総持寺を開いたのもこの瑩山であるため、道元を開祖、瑩山を宗祖として立てられています。おなじ禅宗でも臨済宗が中央の武家政権に支持されたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まったため「臨済将軍 曹洞土民」といわれました。また、道元は女性の出家修行に否定的でしたが、瑩山は積極的に女性を住職に登用し、女人成道の思想を推し進めています。

(ウ)日蓮(法華)宗  - 日像と日親 -

 日蓮以来、他宗を攻撃する過激な活動によって朝廷や幕府からは警戒されていましたが、日像が京都で布教を始めると朝廷や幕府にも受け入れられるようになりました。武士や商工業者などには、日蓮の明快な教えが受け入れやすかったようで、民衆にも広がっていきました。おなじ法華経を用いる比叡山とは関係がよかったですし、浄土系の教えとも共存していたようです。
 しかし、室町時代中期に現れた日親は、宗祖日蓮の行動に立ちかえり、他宗を激しく攻撃するとともに、過激な折伏を展開しはじめます。それまで日蓮宗は、室町幕府とも良好な関係を保っていたのですが、日親が六代将軍足利義教に他宗を棄てて日蓮宗に帰依せよと説いたために怒りをかいます。何故なら、足利義教は天台座主の出身なのです。そこで、日親は布教を禁じられてしまいますが、これを無視したため捕らえられ、熱く焼けた鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けますが、灼熱の鍋を被ぶったまま説法を続け、生涯取れることはなかったという伝説が誕生し「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれるようになります。
 その後も京都では日蓮の教えは広まり、妙顕寺、本圀寺、妙伝寺、頂妙寺、本満寺、妙覚寺、立本寺、本能寺などの日蓮宗の大寺院が立ち並ぶことになりました。山科にあった本願寺の勢力が京都に入ってくるといううわさが流れると、京都の法華宗徒は武装して山科本願寺を襲い焼き払ってしまいます(法華一揆)。この後四年に渡って京都の町は日蓮宗の支配下となりました。しかしこの頃から延暦寺との関係が悪化し、延暦寺は近江の六角定頼らの支援を得て約六万の衆徒で京都市中に押し寄せ法華一揆を駆逐して、京都の日蓮宗寺院二十一ヶ寺を焼き払ってしまいました(天文法華の乱)。こうして京都の日蓮教団は壊滅し宗徒は洛外に追放され日蓮宗は禁教となります。しかし、六年後には京都帰還を許す勅許が下り、後に日蓮宗寺院十五本山が再建されました。

(エ)本願寺の隆盛

 浄土真宗については以前真宗史で触れましたので省き、ここでは蓮如と一休の逸話を紹介します。
 一休は蓮如より二十歳以上年上ですが、二人は仲が良かったようです。蓮如にとっては友人というより人生の師ともいえる存在であったのかもしれません。一休も臨済宗の僧ではありますが、浄土教にも造詣が深かったようで、「成仏は 異国本朝もろともに 宗にはよらず こころにぞよる」という歌も残しています。また、親鸞聖人二百回御遠忌の折にも本願寺に参拝して黒漆の親鸞像を見て「襟巻の あたたかそうな黒坊主  こやつが法は 天下一なり」という歌も詠んでいます。
 手紙のやり取りもあり『仏説阿弥陀経』に「従是西方過十万億仏土」と説かれているのを見た一休が「極楽は 十万億土と説くならば 足腰立たぬ 婆は行けまじ」と詠んだのに対し、蓮如は「極楽は 十万億土と説くなれど 近道すれば 南無のひと声」と返しています。 また、蓮如の留守中に本願寺に遊びに来た一休が須弥壇からご本尊である阿弥陀の木像を下ろしてそれを枕に昼寝をしていたところ、 そこへ帰って来た蓮如が笑いながら「こら、ワシの米びつをひっくり返してもらっては困るぞ」といったともいわれます。また、一休が蓮如に「あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ・・・・とかく人とは忙しきものなり」 と手紙を書いたのに対して「ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて・・・かくて人は死ぬものなり」と蓮如が返したともいいます。
 またある時、松の木を眺めていた一休が、弟子に「たいそう枝振りの良い松だが、あの曲がった幹や枝を真っ直ぐに見ることができるか?」と尋ねましたが、弟子にはどうしても松の木を真っ直ぐに見ることができませんでした。そこで一休は弟子に「松の木を真っ直ぐに見る方法を知っている者が一人いる。蓮如だ。蓮如にその方法を尋ねておいで」と言ったので、早速蓮如を訪ね一緒に松を見たそうです。すると蓮如は「よう、曲がってますね」と答えました。弟子がそのことを一休に話すと「さすが蓮如」と答えたそうです。「曲がった松を真っ直ぐに見るとは、そのまんま見るということだ」ということです。
 また、ある大商人が一流の絵師に馬の屏風絵を描かせ、それへの画賛を書家としても知られた一休にたのんだそうです。さぞかし立派な言葉が書かれてくると思っていたところ、そこに書かれていたのは「馬じゃげな」という一言でした。これはあまりにもひどいということで、今度は蓮如のところに行き文句を言ったところ、蓮如はその横に「そうじゃげな」と書き足したということです。
 一休の歌に「分け登る ふもとの道は 多けれど 同じ高嶺の 月をこそ見れ」というものがありますが、この二人にとって宗派などというものはどれほどの意味も無かったのでしょう。

(オ)浄土宗の統合  - 聖冏(しょうげい) -

 法然の後、浄土宗は分裂を繰り返します。中でも証空の西山義、九弁長の鎮西義、隆寛の長楽寺義、長西の九品寺義は浄土四流と呼ばれ大きな力を持ちますが、それ以外にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西などもそれぞれに教えを広めていきます。しかし、この時期まで残ったのは西山義と鎮西義の二つで、この両義を「西山派」「鎮西派」と言うようになります。しかし、西山派は西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、鎮西派も白旗派、名越派、藤田派、一条派、木幡派、三条派に分裂してしまいました。このような中で登場したのが白旗派の聖冏です。聖冏は浄土宗を一宗として独立させるために、天台、真言、倶舎・唯識、禅、神道を学び、新たな浄土宗学を確立しました。特に僧侶の養成マニュアルとも言える「五重相伝」を作ることによって、教学による宗門の統一を試みます。更に応仁の乱後、白旗派によって再興された知恩院が正親町天皇により浄土宗本寺としての承認を受けると、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を得ることになりました。これによって、白旗派が鎮西派を統一すると共に、公家や上流武士階級にも広まっていきます。一方の西山派は現在も浄土宗とは別個に西山浄土宗、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の3派が並立した状態が続いています。


 このように室町期になりますと、鎌倉仏教各宗派が積極的に布教活動を始めます。特に浄土真宗、曹洞宗、日蓮法華宗は、それまで仏教と縁の薄かった一般民衆の中に広まり、このことが意識改革につながります。本願寺一揆や法華一揆以外にも多くの土一揆が各地で起こってくるのも、この現れに他なりません。領主の命令によって戦にいくのではなく、農民や商人が自らの意思で動くようになったのです。争うこと自体は仏教の本意ではありませんが、一般民衆が自分たちの意思を明確に持ち始めたことで、支配者階級の側にも意識を変える必要が生じてきました。この民衆と宗教を巧妙に治めたのが徳川幕府です。また、仏教の勢いに押されっぱなしだった神社側の反抗も始まります。次回の「仏教混迷期から再生へ」へと続きます。(以上)


参考資料     一休と蓮如豆知識


一休(1393-1481 88歳、1474 大徳寺住職)
 後小松天皇の落胤といわれます。宮内庁は落胤説にもとづいて「後小松天皇皇子宗純王墓」として管理しているため一般の参詣はできません。
 称光天皇の後の皇位継承者として一休を還俗させようとした後小松上皇の院宣に対して「常磐木や 木寺の梢 つみ捨てよ よをつぐ竹の 園はふしみに」(「竹の園」は梁の孝王「修竹園」の故事から皇族のこと。「ふしみ」は伏見宮を指す)と詠んで持明院統正嫡の伏見宮彦仁親王(後の後花園天皇)を推し、皇位を辞退したと伝えられています。
 母については、日野中納言の娘・照子姫(後に伊予局と称される)とも、藤原顕純の娘・藤侍従とも伝わるが確証はありません。昭和三十六年に公開された『橘姓楠家倉氏系図』に、楠木正儀の三女が後小松天皇の官女となったが「仔細アリテ」退官し一休を生み、早世したと記されています。また、門真市三ツ島には一休の生母のものと伝わる墓があり、一休の母は楠木正儀の子・楠木三郎正澄の三女と説明されています。これらから、当時無位無冠だった楠木氏の女を後宮に入れるために、藤原氏の養女としたという可能性が考えられます。南北朝の争いから日も浅かったこの時代に、南朝方の楠木出身の女が北朝の天皇の子を生むことは難しかったのかもしれません。
 七十七歳のとき、一休は住吉大社薬師堂で盲女、森(しん)の舞を見て見初めます。当時、森は一休より五十歳以上若かったと言いますから、二十代だったのでしょう。一休は彼女を当時住んでいた、京田辺の酬恩庵にともない、以後八十八歳で死ぬまで同棲します。

蓮如(1415-1499 84歳)
 1442 27歳  長男順如誕生
 1457 42歳 本願寺八世に就く
 1462 47歳 親鸞聖人200回忌御遠忌
 1465 52歳 吉水の本願寺を失う
 1478 63歳 山科に本願寺再建(1532焼失)
 
 5人の妻と13人の女の子、13人の男の子がいました。






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