|真宗史|仏教入門講座
本願寺一揆から東西分派まで5
 ― 豊臣・徳川政権と本願寺分派 - 
- 2015年12月9日

1、 織田信長の後継者争い





1)清州会議(清須会議)



 天正十年六月二日、本能寺で織田信長を、二条御新造で嫡男の織田信忠を自害に追い込んだ明智光秀でしたが、十三日後には神戸信孝を総大将とする羽柴秀吉の軍に山崎の戦いで敗れます。
 盟主である織田信長と後継者の織田信忠を同時に失ったため、織田家の重鎮である柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興(つねおき)の四人が、後継者を決めるため清州城に集まります(清州会議)。織田信長の次男北畠信意(のぶおき、後の織田信雄)、三男神戸信孝(後の織田信孝)、長男織田信忠の嫡男で三歳の三法師(後の織田秀信)が後継を争いますが、多数派工作に成功した羽柴秀吉が推した三法師が相続し、織田家宿老の柴田勝家が推した神戸信孝は後見人となりました。三法師は織田信長の安土城を相続し、織田信忠領の尾張は北畠信意に、美濃は神戸信孝に分配され、明智光秀の領地であった丹波は四男で羽柴秀吉の養子になっていた羽柴秀勝(天正十三年に十八歳で病死)に分配されました。また、柴田勝家は越前に加えて北近江三郡を、養子の柴田勝豊は羽柴秀吉の領地であった長浜城を、丹羽長秀は若狭に加えて近江二郡を、池田恒興は摂津の三郡を、羽柴秀吉は河内・山城を領地とすることに決まります。さらに徳川家康も織田領であった甲斐・信濃を領地に加えています。
 織田家の実質的な権限は羽柴秀吉と宿老の柴田勝家の二人が掌握しましたが、あくまでも織田家の家臣であるという立場は変わりません。後継者の指名と京都は羽柴秀吉が取りますが、代わりに柴田勝家はお市との結婚を羽柴秀吉に承諾させています。また、後継者の三法師も柴田勝家方の神戸信孝が後見人として引き取ることになります。
 清洲会議終了後、柴田勝家は羽柴秀吉との後継者争いに備えて、滝川一益・長曾我部元親・雑賀衆等を味方に付けます。一方の羽柴秀吉も、畿内の高山右近・中川清秀・筒井順慶・三好康長らに人質を入れさせるとともに、本願寺に堺御坊を返すなどして味方につけ畿内を固めます。


2)賤ヶ岳の戦い

 天正十年十二月、羽柴秀吉は雪のために越前から柴田勝家が動けないところを見計らって、長浜城の柴田勝豊と岐阜城の織田信孝を降伏させます。織田信孝は羽柴秀吉に織田秀信を引き渡して、後見役を譲っています。この時期、徳川家康は長年対立していた本願寺と和睦しています。
 天正十一年一月、羽柴秀吉は上杉景勝と同盟を結ぶと、本願寺に対して柴田勝家と戦えば織田信長が本願寺と交わした南加賀二郡を返すという約束を守ることを申し出ます。
 一月に伊勢の滝川一益が羽柴秀吉に対して兵をおこしたため、二月、羽柴秀吉は七万の大軍で滝川一益に攻め込みます。雪で動けない柴田勝家は毛利や高野山に同盟を申し出ますが失敗します。雪が解けた三月、柴田勝家は前田利家や佐久間盛政等と三万の軍勢で北近江に到着します。これに対して、羽柴秀吉は一万の軍勢を伊勢に残し、丹羽長秀等と五万の軍で柴田勝家を迎え撃ちます(賤ヶ岳の戦い)。四月、一旦は降伏していた美濃の織田信孝が挙兵し、羽柴秀吉は三方から囲まれることになります。羽柴秀吉が美濃に向かったところで柴田勝家は攻勢に出ます。羽柴勢は総崩れとなりますが、丹羽長秀の機転と、美濃に向かう途中で揖斐川の氾濫により大垣城に留まっていた羽柴秀吉の「美濃大返し」と言われる引き返し(五時間で五十二キロメートルを移動)により激戦となります。ここで、柴田方の前田利家・不破勝光・金森長近が兵を引いたため、柴田勝家は北ノ庄にまで退却せざるを得なくなりました。ここを前田利家の軍勢に包囲され、四月二十四日、柴田勝家はお市とともに自害します。六十二歳でした。この時助けられた三人の姉妹は織田信雄に預けられます。
 岐阜の織田信孝は羽柴秀吉に付いた兄である織田信雄に攻められて自害します。伊勢の滝川一益も、さらに一か月篭城した後開城し、出家して越前大野で生涯を終えています。この戦いで、丹羽長秀に越前が、池田恒興に美濃がを与えられ、羽柴秀吉は池田恒興から摂津・大坂を譲り受けました。
 この戦いの総大将であった織田信雄は北伊勢・伊賀を加増され、三法師の後見役として安土城へ入城します。しかし、三法師の後見役をめぐって羽柴秀吉と対立し、安土城を退去させられてしまいます。これを羽柴秀吉による織田家乗っ取りであるとした織田信雄は徳川家康と同盟関係を結び織田家奪還を図ります。
 七月、羽柴秀吉の命令により、本願寺は雑賀の鷺森から和泉貝塚の願泉寺へ移ります。徳川家康と同盟関係にある根来衆・雑賀衆が羽柴秀吉と対立していたためです。この年の暮れには根来衆・雑賀衆は岸和田・堺にまで進出し畿内の羽柴秀吉に迫ってきます。この動きに対処するために、羽柴秀吉は大坂本願寺跡地に大坂城を築城します。


3)小牧・長久手の戦い


 天正十二年三月、織田信雄は羽柴秀吉派の家老三人を処刑します。これに激怒した羽柴秀吉は織田信雄に対して挙兵します。これを織田家に対する羽柴秀吉の謀反とした徳川家康は雑賀衆・根来衆・長曾我部元親・佐々成政・北条氏政等と共に織田信雄に加勢します。徳川家康は本願寺に対しても、加賀と大坂を返す見返りとして参戦を求めています。この時、和泉の本願寺門徒が羽柴方の城を攻めますが、本願寺はこれを止めています。当初、織田・徳川方が優勢でしたが、織田信長の忠臣池田恒興が羽柴秀吉方に寝返ったため両軍は小牧付近にて膠着状態におちいり、一進一退の激戦は半年も続きました。九月には徳川家康方の佐々成政が越中から前田利家の末森城を攻撃します(末森城の戦い)。この時、前田利家は井波から逃れていた瑞泉寺に対して越中に戻って加勢するように求めています。この時も本願寺はどちらの勢力にも加勢しないように通告しています。
 十一月十二日、羽柴秀吉は伊賀と伊勢半国を織田信雄から譲り受けることを条件に講和を結びます。総大将の織田信雄が和睦したため徳川家康も三河に帰ります。その後、羽柴秀吉と徳川家康も、徳川家康の次男於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にすることで講和を結びます。織田信雄と徳川家康が羽柴秀吉と講和してしまったため、雑賀衆・根来衆・長宗我部元親・佐々成政らは孤立してしまいます。


4)紀州攻め


 根来寺は室町時代から領有していた紀伊・和泉の荘園に加え、河内・和泉南部にまで領地を拡大していました。城郭寺院の中に五十以上の坊院が建ち、僧侶など五千人以上が住んでいたといいます。さらに強い経済力と、根来衆といわれる強力な鉄砲部隊による武力も持ち、織田信長以降は羽柴秀吉と敵対関係にありました。本願寺と友好関係にあった雑賀衆は、本能寺の変以降、根来寺との協力関係を強めていました。小牧・長久手の戦いでは建設中だった大坂の街を破壊し焼き払っています。
 天正十三年三月、羽柴秀吉は十万の兵力で根来・雑賀を攻めます。顕如も本願寺門徒に対して羽柴秀吉の紀州攻撃に協力するように求めています。これに対し根来・雑賀衆は九千の兵で迎え撃ちますが、前線の和泉がわずか三日で壊滅すると、根来寺もほぼ無抵抗で制圧され炎上します。雑賀衆も内部の寝返りにより自滅します。四月、羽柴秀吉は高野山に対して領地の返上、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などを要求し、この条件を呑まなければ全山焼き討ちすることを告げます。高野山はこれを受け入れます。紀伊平定後、羽柴秀吉は国中の農民に武器を放棄すれば罪は問わないという刀狩を行っています。全国に刀狩令が発せられるのは天正十六年です。


5)天満本願寺


 天正十三年四月、羽柴秀吉は本願寺に「渡辺の在所」(摂津中島、天満)への移転を命じます。ここは大川と淀川にはさまれた湿地帯で、建築中の大坂城とは大川を挟んで向かい側になります。広さは東西七町・南北五町でした。ここに全国の本願門徒からの寄進で阿弥陀堂が、天正十四年には御影堂(十間四方)が建てられます。これを天満本願寺(中島本願寺・川崎本願寺)といいます。この本願寺は以前の大坂本願寺が持っていた様々な特権や領主権は認められておらず、堀もめぐらされていませんでした。すでに一揆をおこすことは考えられていなかったようです。寺内町には十以上の町があり市場もたっていました。鍛冶屋・大工・紺屋・箔屋・米屋・酒屋・材木屋・豆腐屋・塩屋・湯屋・絵屋・薬屋・医師・籠屋など各地から商人や職人が集まっていました。


6)羽柴秀吉の関白就任と長曾我部・佐々征伐


 天正十三年六月、羽柴秀吉は羽柴秀長・毛利輝元ら十万の大軍を四国へ侵攻させます。長曾我部元親も、二万から四万の兵で迎え撃ちます。この四国攻め最中の七月十一日、羽柴秀吉は関白職を巡る争いに乗じて、自らが近衛前久(さきひさ、教如を猶子にしています)の猶子となり関白に就任しています。このたため、四国攻めは大名間の争いから賊軍の征伐という名目に変わります。追い込まれた長曾我部元親は、七月二十五日、土佐一国の安堵と徳川家康との同盟禁止を条件に降伏します。
 八月には越中の佐々成政を征伐しますが、この時勝興寺が同行して越中に戻っています。

2、豊臣秀吉と本願寺




1)豊臣秀吉による全国統一


 天正十四年(1586)九月、羽柴秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜ります。さらに十二月には太政大臣に就任し、豊臣政権が誕生します。織田家臣から朝臣となったのです。徳川家康に対しては妹の朝日姫を正室として、母の大政所を人質として送る見返りに上洛を求め、徳川家康もこれに従いました。
 天正十五年には、九州で反旗を翻していた島津義久に対して二十万の大軍を送り降伏させます(九州征伐)。この時、顕如の名代として教如が豊臣秀吉の陣中を見舞うために九州へ行っています。九州平定時に、キリスト教宣教師が住民の強制的な改宗や神社仏閣の破壊、日本人を奴隷として売買していたことが分かると、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布します。しかし、この段階ではキリシタンは黙認されていました。
 当面の敵を滅ぼした豊臣秀吉は、この年、北野天満宮の境内で大規模な茶会を開催し、壁・天井・柱・障子の腰すべて金で張った黄金の茶室を披露しています。また、平安京大内裏跡に「聚楽第」を建て、ここに徳川家康や織田信雄、毛利輝元ら有力大名を迎え忠誠を誓わせています。刀狩令や海賊停止令を全国に発布したのもこの年です。
 天正十八年には、関東の北条氏を二十万の大軍で攻めます。北条氏の支城は次々と落とされ、本城の小田原城が包囲されます。この時も、教如は顕如の名代として陣中見舞いを行っています。三か月にわたる籠城戦の中、徹底抗戦か降伏かで北条方の意見がなかなかまとまらなかったことから、一向に結論に至らない会議のことを「小田原評定」というようになりました。結局、前当主の北条氏政と現当主の北条氏照の切腹により開城し、これによって豊臣秀吉による全国統一が成し遂げられます。北条の領地は徳川家康に与えられました。これにより、徳川家康の石高は二百五十万石となり、豊臣秀吉の二百二十二万石を上回ることになります。


2)本願寺の京都移転


 天正十四年に聚楽第を造ると、豊臣秀吉は京都の町を整備しはじめます。大名屋敷を聚楽第の周囲に造らせると、内裏も修復し天皇や公家たちも住まわせます。東大寺の大仏を上回る大きさを誇った方広寺もこの年に造ります。このための資材運搬のために高瀬川が作られました。天正十八年には、点在していた寺院を東側と(寺町)と北部に(寺之内)に移転させます。市街地も四条室町を中心に四分割し、それまで百二十メートル四方だった町を短冊形に改め南北に新たな道を何本も作り、道路幅も縮小します。これによって、今までの左右対称的な平安京のつくりから、現在の聚楽第と御所を中心とした城下町的な形態となり、全国に作られる城下町の原形となります。
 この一環として、天正十九年一月、本願寺も京都に移転するよう命じられます。場所は下鳥羽と淀の間ならどこでもということで、閏一月に六条堀川の地に決まります。これが現在の西本願寺です。ここは空也上人ゆかりの地で、時宗の祖である一遍上人の金光寺跡地でもあります。豊臣秀吉から与えられた土地は、南北二百八十間・東西三百六十間で、この内本国寺の南北五十六間・東西百二十七間を除くという広さでした。これは約九万坪で現在の西本願寺の三万四千坪を上回っています。御影堂は天満から移築しましたが、阿弥陀堂は新築しています。天満の阿弥陀堂は中島の興正寺に与えられました。本願寺移転に伴い寺内町も天満から移って来ました。
 本願寺だけではなく、各地の本願寺寺院も豊臣政権になって勢力を取り戻してきます。越前の藤島超勝寺は加賀に二十・越前に九・越中に八・美濃に一の末寺を、和田本覚寺は越前に五十五・加賀に十二・越中に十二・能登に二の末寺を持ち、さらに二か寺とも与力として近江に二十八の寺院を持つまでになります。この時点で、本願寺は領地を持たなくても政権と良好な関係を保つことで十分に活動できるようになっています。豊臣秀吉がこのような融和策をとったのは本願寺だけではなく、織田信長時代に対立していた他の寺院に対しても同様の庇護を行っています。本願寺門徒によって打ち壊された越前の平泉寺も豊臣秀吉によって復興しています。
 この時、豊臣秀吉は京都の四周を取り囲む「お土居(どい)」も造っています。お土居は、東は鴨川・北は鷹峰・西は紙屋川・南は九条に至る延長二十二.五キロメートル、高さ約四~五メートルの土塁で、外側には幅四メートルから十八メートルの堀がありました。工事はわずか五カ月で完成します。本願寺はこのお土居の南端になります。
 この大改造の命令を下した直後の二月,千利休が秀吉により切腹を命じられています。理由ははっきりとはしていませんが、千利休と石田三成らの権力争いがあったともいわれています。


3)太閤秀吉の大陸への野望


 天正十九年八月二日、病気がちだった豊臣秀吉の嫡男鶴松が二歳で亡くなります。この直後、豊臣秀吉は「唐入り」することを全国に布告すると、肥前に拠点となる名護屋城を造り始めます。十二月には、甥の羽柴秀次を養子に迎えて関白を譲りますがこれは引退したのではなく、公家としての地位を譲っただけで、領地は相続していません。これ以降、豊臣秀吉は前関白を意味する太閤と呼ばれます。翌年には豊臣秀次は左大臣になり聚楽第に移ります。
 天正二十年三月、「唐」を征服するために明と朝鮮に向けて、豊臣秀吉の猶子で豊臣秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする宇喜多秀家を総大将とする十六万の軍が朝鮮に出兵します(文禄の役)。最初は破竹の勢いで侵攻しますが、明からの援軍が到着したことによって戦況は膠着状態に陥り、翌文禄二年(1593)には、明との間に講和交渉が開始されました。


3、本願寺継承問題の発生




1)顕如の死去と教如の本願寺継承


 天正二十年(1592)十一月二十四日、顕如は脳卒中で倒れるとそのまま死去します。五十歳でした。葬儀は文禄元年(十二月八日に天正から改元)に本願寺で行われ七条河原で荼毘に付されています。教如が導師を行い、十二月十日に本願寺を継承します。三十五歳でした。教如は顕如によって遠ざけられていた本願寺一揆主戦派の下間頼龍を奏者(家老)に取り立てると、教如との関係が悪かった奏者の下間仲之を辞職させます。また、法要の際に僧侶を指揮する役(定衆)も入れ替えています。さらに顕如によって教如と共に破門された家老など八十人余りを再び召出します。
 教如は、顕如と和解して以降、体調を崩していた顕如の名代を務めてきました。千利休とは親しかったようで、千利休を通じて豊臣秀吉や徳川家康とも交流しています。このことが千利休の失脚によって、教如の豊臣政権内での立場を悪くすることにつながったのかもしれません。


2)教如の隠退


 文禄二年(1593)、教如の母如春尼と弟准如が豊臣秀吉に、教如の本願寺継承に問題があると訴えます。顕如の三男である准如は天正十三年に越前の本行寺(現在の浄土真宗本派福井別院)の住持として顕如から越前・加賀・能登三州の本願寺寺院を束ねるように命じられていましたが、この時はまだ八歳で得度もしていませんでした。十四歳で得度し、如春尼と共に豊臣秀吉のもとに訴え出たときは十六歳です。妻には兄である興正寺顕尊の長女を迎えています。
 この訴えを受けて、文禄二年閏九月十二日、教如・如春尼・准如・下間頼龍・下間仲之等が大坂へ召喚されます。ここで豊臣秀吉側から次の様な十一か条が提示されました。

1. かつて本願寺は大坂に居座っていた。
2. その本願寺は織田信長様にとって敵であった。
3. 豊臣秀吉様の代になって、雑賀から貝塚へ、貝塚から天満へ、天満から七条へと寺領を与えられたことを御恩と思うこと。
4. 教如の行いが悪いことを、先代の顕如の時から何度も改めるように申し渡してきた。
5. 本願寺は譲り状の慣例があり、先代の顕如から准如あての譲り状がある。
6. 先代の顕如が処罰したものを、教如が再び重用している。
7. 再び重用された者に比べて、辞職させられた者に対しての配慮が足りない。
8. 教如の妻のこと。(教如には正妻の三位殿と東之督(ひがしのかみ)以外に教寿院(おふく)と妙玄院という二人の側室がいました。この条は、如春尼と教寿院の仲が悪かったことであるとも、教如の女性関係がかなり乱れていたことであるともいわれています)
9. 心底より配慮が足りない心を改め、先代のように真面目に仏事に励むこと。
10. 以上のことを真面目に励むならば、今後十年間は本願寺住職を務めることを認め、その後に准如に継承するように。これは不公平な申しつけにも思われるが、教如はこの十年間准如に気を配るようにすること。
11. 隠退後の生活もあることなので、准如に継承した後、無役であはあるけれども三千石を与えるので、茶の湯でもたしなみ今回取り立てた者たちをこの石高で奉公させるように。

 教如はこの採決を行け入れますが、この中にある「譲り状」に下間頼龍らが疑問を呈します。天正十五年に書かれたとされる「譲り状」ですが、従来「譲り状」は門徒に対して披露されるものであるのに、これは今まで披露されていませんでした。また、筆跡が今までの顕如の書いたものとは明らかに違っていたのです。これに対して豊臣秀吉がこの「譲り状」が偽物である明らかな証拠を出すように命じます。このようなものがあるはずもなく、十年の猶予を待たず「今すぐ退隠せよ」との命が下され、閏九月十六日、准如が本願寺を継承し、教如は本願寺本堂北東の一角に退隠させらました。これには千利休を自害させた豊臣秀吉の側近石田三成が如春尼に協力していたともいわれます。


3)隠退後の教如


 本願寺住職が教如から准如に継承されたことは、全国の本願寺門徒にも混乱をもたらします。准如に対する誹謗中傷の声も多かったようで(『准如宗主消息』)本願寺を継承した翌月の十月から文禄五年三月にかけて、全国の寺院に対して准如に忠誠を誓うように誓詞を取り付けています。
 本願寺の一角に住まいした教如は「裏方」と呼ばれます。本願寺を参詣にきた門徒の中には、教如の居に立ち寄るものも少なくなく、中には教如のところだけに来るものもいました。そのため、教如の住まいには、御堂・広間・玄関・台所ができるまでになります。そして、来た者に「本願寺釈教如(花押)」と裏書きした本尊を与えるなど、本願寺住職と同じように振舞います。
 もっとも、教如が本願寺住職を名乗ったのは顕如と対立関係にあった流浪時代にさかのぼります。堺市真宗寺文書『恵光寺御絵替写』には天正九年の日付で「大谷本願寺釈教如」と記されています。ですから、この時期、すでに教如を本願寺住職として認識していた寺院もありました。このような寺院や門徒にとって、教如から准如に継承されたということは受け入れられないことでした。
 教如のこのような行動に如春尼は反発します。文禄三年夏ごろには教如に対して裏書きをしないように通達しますが、教如はこれに従わなかったようです。文禄四年に坊官下間頼簾が准如に差し出した誓詞からは、言うことを聞かない教如にたいする怒りがみてとれます。


4、豊臣政権の終末




1)豊臣秀頼の誕生と豊臣秀次の切腹


 文禄二年八月三日、豊臣秀頼(お捨)が生まれます。豊臣秀吉は五十七歳でした。豊臣秀頼は生まれて二か月後に豊臣秀次の娘と前田利家を仲人として婚約したともいわれます。これにより、豊臣秀次の次に豊臣家当主となる道筋ができます。さらに豊臣秀吉は居城を大坂城から新しく築いた伏見城に移し、淀と豊臣秀頼もここに住まわせます。諸大名の屋敷も京都から伏見に移させ、豊臣秀次の周りから諸大名を切り離しにかかります。文禄三年には、高台院の甥で豊臣秀吉の養子となっていた豊臣秀俊を、豊臣から小早川の養子に出して小早川秀秋とします。
 文禄四年六月、豊臣秀次に謀反の容疑ががけられます。豊臣秀次はこれを否定しますが受け入れられず、剃髪の上高野山に送られます。さらに切腹を命じられ、切り取られた首は三条河原に晒されます。聚楽第は取り壊され、豊臣秀次の首の前で、四人の男子と一人の女子・側室や侍女ら二十九名が処刑されその場に埋められます。この直後に豊臣秀吉は、豊臣家と豊臣秀頼に忠誠を誓うという起請文を諸大名に書かせています。
 文禄五年九月、豊臣秀頼を三歳で元服させると、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・小早川隆景(五大老)らによる合議制や浅野長政、石田三成ら五奉行による行政体制を整えます。


2)大谷本願寺建立


 豊臣秀次に謀反の疑いがかけられた文禄四年、教如は大坂西成郡渡辺に寺を建立しています。これには全国の教如を支持する寺院や門徒が助力したと思われますが、如春尼や准如と対立している京都から長年住み慣れた大坂に戻りたかったのでしょう。この渡辺とは、現在の天満橋と天神橋の間になります。現在、大谷派の難波別院(南御堂)にある梵鐘に「大谷本願寺」とあり、文禄五年六月とありますから、蓮如が継承した東山の大谷本願寺を大坂に再建したとの思いがあったのでしょう。文禄五年閏七月に大地震があり、慶長三年に豊臣秀吉によって大坂の町が整備されます。この時大谷本願寺は渡辺から現在大谷派難波別院(南御堂)のある所に移されます。この時点で京都と大坂に二つの本願寺があったことになります。
 准如も大坂の天満に寺院を建てていましたが、同じく慶長三年に現在本願寺派津村別院(北御堂)のある所に移されています。この二つの御堂を結ぶ道を御堂筋といいます。この年、如春尼が死去しています。五十五歳でした。


3)サン=フェリペ号事件


 文禄五年十月、土佐国にスペインのサン=フェリペ号が台風による被害で漂着します。「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という豊臣秀吉からの書状により、積み荷と船員の所持品が没収されます。このポルトガル人とはイエズス会と思われます。この船にはスペイン系修道会のフランシスコ会・アウグスティノ会・ドミニコ会の司祭が乗船していました。
 当時、キリスト教の布教を禁止していたにもかかわらず、フランシスコ会が活発に布教活動を行っていたことに対する豊臣秀吉の不満があったようで、翌年慶長二年、京都と大坂に住んでいた日本人二十名を含む二十六人のキリスト教宣教師と信徒を処刑しています。修繕されマニラに到着したサン=フェリペ号はこのことをスペイン政府に訴えます。スペイン政府は荷物の返還と二十六人の遺体の引き渡しを求めますが、豊臣秀吉はこれを拒否しています。


4)慶長の役と豊臣秀吉の死去


 明との間の講和交渉が決裂したため、慶長二年、豊臣秀吉は朝鮮に拠点となる城を建設するために再び十四万の大軍を送ります。二か月で目的を達成すると、六万四千の兵を残して一旦日本に撤退させます(慶長の役)。これは二年後にさらなる大軍を送るための準備でした。
 慶長三年(1598)春、豊臣秀吉は醍醐寺に七百本の桜を植えさせると、豊臣秀頼や妻たちと一日だけの花見を楽しみます(醍醐の花見)。五月に体調を崩すと五大老とその嫡男、五奉行の前田玄以と長束正家に遺言書を出して、血判を押した起請文を求めています。さらに、七月には徳川家康に豊臣秀頼の後見人になるよう依頼し、八月に五大老に二度目の遺言を残して生涯を終えます。六十二歳でした。遺体は翌年四月に方広寺東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、豊臣秀吉に「豊国大明神」の神号が与えられ、埋葬地は「豊国神社」となります。神として祀られたために葬儀は行われませんでした。
 豊臣家の家督は秀頼が継ぎ大坂城に移ると、五大老や五奉行がこれを補佐することになります。朝鮮では日本軍は連勝を続けていましたが、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定されると、明と和議を結び撤退します。この朝鮮出兵は、朝鮮に大きな被害をもたらし、明が後に滅亡する一因となります。日本でも、参戦した西国大名が消耗し豊臣政権内部の対立に繋がります。

5、関ヶ原の戦い




1)徳川家康による権力掌握


 豊臣秀吉の死から十日後には、早くも派閥争いが激化します。これは、太閤検地に対する不満や、朝鮮出兵の遺恨、豊臣秀次の処分に対する対立など、豊臣秀吉が強権を振るってきた歪が一気に表面化したためです。さらに五大老筆頭の徳川家康が豊臣秀吉の遺言を次々と破っていったため、同じく五大老の前田利家と対立し武力衝突する寸前まで行きます。この衝突は回避されますが、慶長四年閏三月に前田利家が死去すると加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長が石田三成を襲撃します。石田三成は難を逃れますが、奉行職を解任され佐和山城に蟄居となります。これは石田三成に権力が集中してたことに対する反発であったと思われます。
 さらに九月、徳川家康は前田利家の後を継いだ前田利長が自分を暗殺しようとしたと訴えます。これは、前田利長の指示で、五奉行筆頭の浅野長政・豊臣秀頼側近の大野治長・加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城で徳川家康を襲撃しようとしたというものです。これにより、浅井長政は隠居を命じられ、大野治長と土方雄久は流罪となります。さらに前田利長のいた金沢城を討伐するように諸大名に命じます(加賀討伐)。前田利長は重臣の横山長知を徳川家康の下へ送り、前田利家正室であった芳春院(お松)を人質として江戸に預けることで難を逃れます。これによって、五大老・五奉行の制度は完全に形骸化します。


2)会津上杉征伐と毛利輝元の挙兵


 徳川家康が権力を握っていく中、五大老の一人である上杉景勝はこれに対抗すべく直江兼続に命じて軍事力を増強させます。この動きに対し、徳川家康は慶長五年六月、関東の諸大名に会津上杉討伐を命じると、豊臣秀頼から黄金二万両と米二万石を受け取り、自らも大坂城から会津に向かい出陣します。七月に江戸城に入った日に、宇喜多秀家が挙兵します。これに合わせて石田三成・大谷吉継・毛利輝元らも挙兵しました。徳川家康の要請で会津討伐に向かっていた長宗我部盛親・鍋島勝茂・前田茂勝・島津義弘等はこの挙兵に巻き込まれ、そのまま毛利輝元を総大将とする西軍に取り込まれます。大坂城に入城した毛利輝元は豊臣秀頼を手元に置くと全国の大名に徳川家康討伐を命じ十万の兵力となりました。この兵力で伏見城を落とすと、丹波・伊勢・北陸に攻め込みます。更に織田家を相続していた岐阜城の織田秀信も味方に引き入れます。
 これを知った徳川家康は直ちに会津征伐を中止し、上杉景勝の抑えとして結城秀康を残して大坂に向かうことを決めます(小山評定)。これを見た上杉景勝は出羽の最上義光に兵を向けます(慶長出羽合戦)。


3)教如と准如の動き


 毛利輝元が徳川家康に対して挙兵した慶長五年七月、教如は十数名を伴って関東に向かいます。この前年、関東地方は天候不順により凶作であったため関東の門徒を見舞うという口実でしたが、実際には徳川家康の陣中見舞いが目的でした。途中、佐和山城で石田三成に見つかり制止されますが、これを振り切り徳川家康のもとに向かい八月に小山で面会しています。関東から大坂に帰る途中、美濃で合戦に巻き込まれます。墨俣の渡し場あたりで石田三成方の襲撃を受けますが近郷の門徒衆の助けで一命をとりとめます。この後、教如は越前と近江に近い美濃の揖斐郡(いびぐん)に隠れます。この時、教如の身代わりとなった西圓寺の住職が石田三成の手勢に討ち取られたといいます。国見岳の中腹にある岩窟に身を隠している時、ようやく合戦が終わり大坂に戻ったといいます。この岩窟は教如岩(上人窟)と呼ばれているそうです。
 一方、准如は七月に石田三成を見舞っています。この時、鉄砲の玉薬数千斤をとどけたともいわれます。


4)関ケ原の戦い


 石田三成は徳川家康を尾張と三河国境付近で迎え撃ち、上杉景勝と佐竹義宣で挟み込むという戦略を立てます。しかし、徳川家康の先発部隊が清洲城に先に入城し、上杉景勝は北へと軍を進め佐竹義宣は父の反対で挙兵できなかったためにこの計略は破綻します。しかし、佐竹義宣の動向が気になったため徳川家康は江戸を離れることができませんでした。そこで、二百にも及ぶ諸将に書状を送り協力を求めています。
 清洲城の先発部隊は岐阜に攻め込み、八月二十三日には織田秀信の岐阜城を落とします。岐阜城が落ちると、徳川家康は五男の武田信吉や浅野長政らを江戸城に残して、九月一日、三万三千の兵力で東海道を西上し、九月十四日夜、美濃から関ケ原に向かいます。これを受けて石田三成も大垣城を出陣し関ケ原に向かいます。、
 九月十五日、関ヶ原で戦いが始まります。双方の兵力を合わせると二十万にもなる合戦でしたが、石田三成方で実際に参戦したのは三万三千ほどでしかありませんでした。毛利秀元・長曾我部盛親等は最後まで参戦せずに終わり、小早川秀秋は徳川家康に寝返ります。この寝返りを受けて徳川家康が総攻撃を開始し、毛利勢は戦わずして大坂に向けて撤退します。


5)関ケ原後の処分


 九月二十日、大津城に入った徳川家康は、毛利輝元に大坂城明け渡しを求めます。この日、教如は徳川家康を大津で迎えています。ここに北陸から前田利長が、中山道から徳川秀忠が合流します。
逃亡していた小西行長・石田三成は捕らえられ大津に送られます。毛利の武将である安岡寺恵瓊は准如の家臣である端坊明勝に匿われていたところを捕まっています。徳川家康は毛利輝元の退去を受けて大坂城に入りますが、この三名はともに大坂へ護送されています。
 この戦いは、徳川家康と毛利輝元の戦いであり、豊臣は中立であるという建前でしたが、豊臣領は二百二十二万石から六十五万石に減らされ、徳川領は二百五十五万石から四百万石に加増されました。この中には、京都・堺・長崎等の都市や佐渡金山・石見銀山・生野銀山などの鉱山も含まれます。これにより徳川家康の権力はさらに強固なものになりますが、豊臣秀頼が各大名より上にあることは変わりませんでした。十月、大坂・堺を引き回された石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は京都六条河原で斬首され、首は三条大橋に晒されます。
 総大将であった毛利輝元は、百二十万石から周防・長門三十六万石余り(現在の山口県)へ減封と、家督を嫡男毛利秀就に譲ることになります。上杉景勝は会津百二十万石から米沢三十万石に減封、佐竹義宣は常陸五十四万石から出羽久保田二十万石に減封となります。織田家嫡流の織田秀信は高野山に追放、織田秀雄は改易、織田信雄は一旦改易されますが後に許され大和の大名となっています。


6)東本願寺建立


 徳川家康と親交のあった教如は、関ヶ原の戦いの後もしばしば互いに行き来しています。一方で石田三成と親しくしていた准如は、徳川家康に面会を求めますがなかなか会うこともできませんでした。折台を献上したものの、家臣に踏みつぶされたといいます。本願寺を准如から教如に返すことも考えたともいわれますが、徳川家康の重鎮で教如と親しかった本田正信が「本願寺はすでに太閤の時代に二つに分かれてしまっているのでこれに倣う方がよい」と進言したため、慶長七年(1602)、後陽成天皇の勅許を受けて、徳川家康は教如に京都七条烏丸に四町四方の寺領を寄進します。慶長八年には上野厩橋(群馬県前橋市)にある二十四輩の大八番目成然が開基の妙安寺から「親鸞上人木像」を迎えます。この年に阿弥陀堂を四か月で、翌慶長九年には五か月で御影堂を完成させて、正式に教如の本願寺が分立することになります。これに伴い、准如の本願寺から教如の本願寺に移る者が少なくなく、また全国の寺院・門徒もそれぞれの本願寺に分かれることになります。
 慶長八年に徳川家康は征夷大将軍となり、徳川幕府が開かれます。諸大名に命じて江戸城の普請にかかりますが、これを指揮したのは豊臣秀頼の家臣でした。この年には豊臣秀頼は徳川秀忠の娘である千姫(母は淀の妹江)と結婚しています。徳川家康が武士の最高位であったのに対して、豊臣秀頼は摂関家として最高位の公家としての地位を保っていたのです。徳川による完全な権力の掌握は、慶長十九年の「大坂冬の陣」を経て、慶長二十年の「大坂夏の陣」で豊臣秀頼と淀の自害にいたるまでまだ十年以上かかりました。これまでの間、豊臣系の准如と徳川系の教如による熾烈な離反・改派・分寺抗争が行われることになりました。
 教如の本願寺は「信淨院本願寺」・「本願寺隠居」・「七条本願寺」・「信門」、准如の本願寺は「本願寺」・「六条門跡」・「本門」と言われましたが、その位置から「東本願寺」、「西本願寺」と言われるようになります。現在は「真宗本廟」・「本願寺」と名乗っていますが、昭和六十二年までは、東西ともに「本願寺」が正式名称でした。


7)教如による教団体制の整備


 教如は以前から絵像などを下付してきましたが、東本願寺建立以前から『正信偈』(慶長四年頃)や『御文』(慶長七年頃)を開版しています。分派後は全国に御坊(現在の別院)を設置します。江戸時代には全国に四十か所の御坊がありましたが、このうち十八か所が教如を開創としています。金沢もその一つです(慶長五年か六年)。これら御坊を教化の拠点として、秘事法門に対する教誡などを行っています。家臣においては、それまで重職を独占してきた下妻一族以外からも粟津氏などを登用し、権力の分散化を図っています。
 慶長十九年十月、豊臣の滅亡を見ることなく、教如は五十七歳の人生を終えます。教如には朝倉義景の娘(三位殿)との間に二女、教寿院との間に二男六女、妙玄院との間に一男がいました。長男は早世し、二男の観如も十五歳で亡くなっています。教如の後を継いだのはこの時十一歳であった宣如でした。徳川幕藩体制での本願寺はこの若い宣如に託されることになります。








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