1、長享一揆
本願寺門徒の協力を得て、加賀守護職であった弟の幸千代を破った富樫政親は、長享元年(1487)に九代将軍足利義尚(よしひさ)の要請を受けて、近江守護職の六角高頼征伐に加わりました。この頃すでに応仁の乱は終わっていましたが、室町幕府の権威は大きく失墜していました。将軍は、公家や寺社などの所領を勝手に押領していた六角高頼を討伐することによって、将軍の力を誇示しようとしたのです(長享・延徳の乱)。その軍勢は守護大名や奉公衆など約二万にも及びましたが、一族以外の守護大名は富樫政親だけでした。これは幕府に加賀一国の守護職を認めてもらうためであったともいわれます。ちなみに六角氏はこの遠征を撥ね退け、戦国時代には南近江一帯を支配します。しかし、戦国大名の浅井との戦いに敗れてからは徐々に勢力を失い、江戸時代には加賀前田家の家臣(佐々木)となり、幕末時には二千百石を受ける加賀藩の重鎮となっています。
この近江遠征費用を確保するために、富樫政親は臨時の課税を行いました。しかし、長く続いた応仁の乱のために疲弊していた国人たちは、この不必要と思われる戦のための課税に強く反発します。さらに以前から軋轢を生じていた本願寺門徒が、この国人の不満に呼応する動きをみせたため、政親は年末には急遽帰国して事態の鎮圧に努めます。しかし、翌年の長享二年五月に大規模な一揆が起きます。これが一般に加賀の一向一揆と呼ばれる長享一揆です。これによって、富樫政親は高尾(たこう)城で自害し、政親の大叔父で、かつて加賀南半国守護であった富樫泰高が富樫氏を継承します。この一揆に参加した総人数は二十万人とも伝えられていますが、一揆方の要求したのは
1、 固定的な年貢・公事以外に新たな課税をすることを拒否する。
2、 守護方が荘園代官請負をすることに反対する。
3、 仏法を護持すること。
の三つです。1は近江への出兵にともなう課税に反対するものです。2はそれまで国人が行っていた荘園からの徴収権を富樫政親が奪うことに反対したものです。そして3はひろく「仏法」とすることで、本願寺門徒方が他の信徒や教団にも一揆への参加を呼びかけたようです。いずれにしても、本願寺門徒が富樫を滅ぼして加賀を奪ったと思われがちな長享一揆ですが、実際は様々な勢力が寄り合わさって起こされたものでした。
蓮如をはじめ、加賀の一門寺院さえもこの一揆に関わっていなかったようです。吉藤専光寺や木越光徳寺は能登や越中の門徒を動員したと思われますが、これは本願寺の意向とは関係ありません。しかし、将軍足利義尚は本願寺門徒によって自分を支援してくれた政親が討たれたと思ったようで、蓮如に対して加賀の一揆に参加した門徒を破門するように求めています。これに反対して間を取り持ってくれたのが、将軍をも凌ぐ権力を持ち「半将軍」とも呼ばれていた管領細川政元でした。このことが後に本願寺を政権争いに巻き込むことになるのですが、とりあえずこの件の責任を取る形で、延徳元年(1489)蓮如は山科本願寺の南殿に隠居し、延徳二年には三度目(実如には二度目)となる譲状を実如に書いています。さらに、明応五年(1496)に、蓮如は最後の妻となる蓮能尼とその子供達のために、大坂御坊を建てます。これはそれまでの堺御坊にかわって建てたものですが、なぜ堺の地を離れたのかは分かっていません。他に出口御坊や三栖御坊、富田御坊がありますが、それぞれに母親の違う子供達に与えられていました。この大坂御坊建設費は、すべて六字名号の冥加金で賄われたといいます。当時の大阪は「尾坂」・「小坂」と記され「おさか」・「をさか」と呼ばれていたようで、天王寺から突き出していた台地の北端にある小さな坂のことだったようです。「虎狼のすみか」で「家の一もなく畠ばかり」の地であったと蓮如の十男実悟が書いています。最晩年をこの地で過ごした蓮如は、本人の希望により最後を山科本願寺で迎え、明応八年に八十五歳の生涯を終えます。
2、教団としての本願寺確立
蓮如の長男順如が文明十五年(1483)に、蓮如に先立って亡くなってしまいます。そこで蓮如の後を継いだのが五男の実如です。実如は十七歳の時、日野氏の当主であった裏松勝光の猶子(養子とは違ます)となっています。当時、日野氏は足利将軍家と盛んに姻戚関係を結んでいます。裏松勝光の娘も九代将軍足利義尚の妻となっています。実如の同母妹の妙宗尼は日野富子の猶子となり、八代将軍足利義政(母は日野重子)に近侍しています。実如の妻は半家の家格を持つ堂上家である高倉永継の娘、如祐尼です。これらの人脈によって、実如は法主を継ぐ前から旧仏教系寺院や幕府との交渉に当たっていたようです。さらに本願寺を継承してからは、現存するだけで千点を超える絵像本尊を残しています。名号本尊は一般門徒向けに書かれていましたが、絵像本尊は門徒が集まる場所に掛けられていたようです。ですから、これは本願寺系の道場や寺院が急増していたことを意味しています。蓮如というカリスマを失った本願寺は、蓮如五男実如と加賀波佐谷松岡寺の蓮如三男蓮綱、加賀山田光教寺の蓮如四男蓮誓、近江大津顕証寺の蓮如六男蓮淳、加賀若松本泉寺の蓮如七男蓮悟という「賢息五人の五兄弟」(この内、波佐谷松岡寺・山田光教寺・若松本泉寺は「賀州三ヶ寺(加賀三山)」といわれます)によって運営され、現在も続いている「お文(御文章)」の授与を始めます。これは蓮如亡き後も蓮如の偉光によって本願寺の権威を維持しようとしたとも受け取れます。現存している最古の「お文」は蓮如没後半年後のもので、実如のものだけで八百点以上残っています。ただし、初期のものは書式や引用する内容も定まっておらず、かなり急いで作られたことがうかがわれます。全国に配られていた「お文」を集めて書き写すだけでもかなりの作業であったはずです。それだけ「お文」の発行は本願寺にとって重要なことであったと言えます。
九代将軍足利義尚は六角討伐を果たせないまま、長享三年(1489)近江で病死します。次の将軍に八代将軍足利義政や管領細川政元は足利義尚の従兄にあたる足利義澄を押しますが、足利義政の妻で足利義尚の母である日野富子が妹の子である足利義材(よしき、後の義稙(よしたね))を押して対立します。足利義材の父足利義視(よしみ)は、応仁の乱で東軍の細川と対峙した西軍の盟主であったために、細川政元が受け入れなかったようです。しかし、翌延徳二年(1490)に足利義政が死去したことにともない、足利義視の出家などを条件としてようやく足利義材の十代将軍就任が決定します。しかし細川政元と足利義視父子との対立は解消されませんでした。そこで日野富子は将軍職に就けなかった足利義澄に九第将軍義尚の住んでいた小川殿を譲渡することを決めます。とこらが、将軍の象徴である邸宅に足利義澄が住むことをこころよく思わなかった足利義視は小川殿を破却してしまいます。これにより、足利義視父子と日野富子の間も険悪なものとなってしまいます。
十代将軍足利義材は前将軍足利義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など畿内の国一揆に対して強硬姿勢をとり、延徳三年に細川政元が反対したにもかかわらず六角高頼討伐を再開します。さらに明応二年(1493)、元管領畠山政長の要請で畠山基家討伐のために、ふたたび細川政元の反対を押し切り派兵します。これに対して、細川政元は日野富子や赤松政則、伊勢貞宗らと足利義澄を十一代将軍に擁立して政権を奪います。これが明応の政変です。足利義材は抵抗しましたが及ばず、足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて投降します。一旦は京都龍安寺に幽閉されますが、側近らの手引きによって越中守護代神保長誠を頼って射水郡放生津へ逃亡しました。この時、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら七十人余りも越中に同行しています。
この政変によって細川政元は幕政を掌握しますが、全国に広がっていた奉公衆などの軍事的基盤が崩壊した幕府の権力は弱体化し、その権限はほぼ畿内に限定されたものになります。これによって、応仁の乱以降全国に飛び火していた抗争が、中央の統制が取れない状態で繰り広げられることになります。つまり、明応の政変は中央政権の政権交代というだけではなく、全国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となったのです。これが戦国時代の始まりとされます。
永正三年(1506)、明応の政変で幕府を掌握した細川政元は実如に対して、明応の政変以降敵対関係にあった河内の守護畠山を攻撃するように求めてきました。これは細川と畠山の権力闘争ですが、細川政元は長享一揆の時に、加賀門徒破門の件を取り成してくれていたため、実如はこの要請を受け入れます。しかし、摂津と河内の坊主衆・門徒衆は実如からの畠山攻撃命令を拒否します。この時大坂御坊にいたのは蓮如最後の妻蓮能尼ですが、彼女は畠山氏の出身です。この大坂御坊を護持していたのが摂津と河内の坊主衆・門徒衆でした。しかたなく、実如は加賀から千人ほどを動員して畠山攻撃に当たらせました。蓮如の十男実悟はこれを「当宗御門弟の坊主衆以下、具足かけ始めたる事にて候」と記しています。本願寺の命令によって行われた初めての戦闘でした。
同じ年の永正三年、北陸でも大名と本願寺門徒が衝突します。三月に若松本泉寺蓮悟は「仏法をたやし候」働きを続けているとして、能登守護畠山義元と越後長尾能景を討つように檄を飛ばします。この両者は共に反細川政元勢力ですから、実如から一門寺院に指示があったとも考えられます。これを受けて北陸全体に緊張が走ります。
六月には越前の坊主衆・門徒衆が蜂起します。これに加賀勢や甲斐の牢人勢らも加わり、反細川政元勢力の朝倉と九頭竜川一体で衝突します。この時先頭に立ったのは一門寺院の波佐谷松岡寺蓮綱でした。これに呼応して、山科本願寺からも近江顕証寺や近江北部の一揆衆、天王寺勢などが敦賀口から攻め込みますが、大敗北を喫します。この敗北により、越前では本願寺は禁止され、吉崎御坊は破却、超勝寺や本覚寺など本願寺系の寺院はすべて破壊され、各寺院は加賀・越中・能登に逃れて行きます。
一方、越中では八月に越中衆に加賀・能登衆が加わり、畠山・長尾勢と衝突します。こちらを指揮したのは若松本泉寺蓮悟でした。この戦いで長尾能景が討ち死にし、越中の大部分は本願寺門徒の勢力下に入ります。東寺の資料には、この永正三年に一向宗が起こした一揆は大和・河内・丹後・能登・美濃・越前・加賀・越中・越後・三河に及び、数千万人もの戦死者が出たとあります。この誇張された戦死者の数からは、東寺の本願寺に対する警戒心が見てとれます。
これらの戦いは長享一揆とは違い、いずれも実如の指示により本願寺一門寺院が中心となって起こしています。この中央の政権争いと連動する組織だった一揆は、関東の扇谷上杉が本願寺禁止令を出すなど各地の守護大名にとって脅威となります。当然越後でも本願寺は禁止となりました。
摂津・河内の坊主衆・門徒衆の一部は、実如からの畠山攻撃要請に反発し、大坂御坊にいた蓮能尼の子で蓮如の九男実賢を法主にしようとします。この動きに対して実如は下間頼慶を派遣して蓮能尼・実賢・実順(十一男)・実従(十三男)を大坂御坊から追放し、加賀でも若松本泉寺蓮悟の養子となっていた実悟(十男)が事実上廃嫡さます。ところが、翌永正四年、細川政元が九条家からの養子である細川澄之の支持者によって四十二歳で暗殺され(永正の錯乱)、細川一門からの養子である細川澄元との間に相続戦いが開始されると事態は一変します。細川政元に近かった実如は難を避けるため、翌日には御真影とともに山科本願寺から近江堅田本福寺明宗のもとへ逃れます。その後も混乱は続き、まずは細川澄之が、続いて細川澄元が敗れて、最終的に政権を奪ったのは本願寺に対して一番の強硬派であった、もう一人の野洲家からの養子細川高国でした。永正五年、西国最大の大名・大内義興や細川高国・畠山に擁された前将軍足利義材(義稙)が上洛し、十一代将軍足利義澄は将軍職を解かれ近江六角氏のもとへ逃れます。これによって、畠山と親戚にあたる実賢と蓮能尼の追放は反故になり、永正六年には実如とともに山科本願寺に住むことになります。将軍となった足利義材(義稙)は加賀・越前の本願寺一揆を破った朝倉に対して賞を贈りましたが、一方加賀一門衆・門徒衆に対して咎めはありませんでした。
永正十一年、実如は尊鎮親王が青蓮院で得度した際に二千疋(二十貫文)進上したことで、法印の位に相当する香袈裟(大納言以下、参議以上の法体)を許可されます。さらに永正十五年には尊鎮親王受戒時に一万疋を進上し紫袈裟(天皇の勅許が必要)を免許されています。後柏原天皇の第三王子で後奈良天皇の弟である尊鎮親王の母は高倉永継の娘で、実如の妻も高倉永継の娘ですから本願寺と天皇家は親戚関係になります。
実如は加賀を中心とする北陸の本願寺配下の坊主衆・門徒衆との間に「三箇条掟」を結びます。これまで、加賀の本願寺勢力は、直接山科本願寺の指揮下にあったのではなく、門徒組織の組、地元の豪族によって組織された郡一揆、地方大寺院、一門寺院にわかれていました。ところが永正十年に鶴来に清沢願得寺が一門寺院として創建され、蓮如の十男である実悟が住職になると、石川郡内の五つの組がその護持にあたることに決まりました(賀州三ヶ寺に清沢願得寺を加えて、これ以降賀州四ヶ寺と言われるようになります)。このことは一門寺院の配下に組が取り込まれることを意味するため、郡一揆や地方大寺院が反発しました。これを収めるために、郡一揆や大寺院に対して本願寺が認める戦以外は行わない代わりに自治権を委ねることにします。これが「三箇条掟」です。さらに、越前での一揆以来封鎖されていた北陸道や海上航路を再開することも、この掟で合意しました。越前が通れなくなって以来、加賀・能登・越中から近畿に行くには、越中五箇山から飛騨・奥美濃を経由しなければなりませんでした。このため、北陸から京都の公家や大寺院へ送られる荘園年貢などが滞ります。年貢が届かなければ公家たちは生活することができませんから、将軍家から朝倉氏・本願寺両者に協力を求めてきたのです。領主でも守護でもない本願寺が、この交渉をまとめたことによって、本願寺は加賀に関する対外交渉権を京都にいながら獲得したことになりました。つまりこの掟によって、本願寺は加賀の外交権を門徒と幕府両方に認めさせることになります。
また、余りにも多くなった本願寺一族に差異を付けるために一門一家制という法令を出し、一門寺院と一家寺院に分けます。一門寺院とは、法主の子供や兄弟(連枝)とその嫡男の寺院、一家寺院とは連枝の次男以下もしくは蓮如以前に分かれた一族の寺院です。これによって実如の後継予定者であった円如を中心とした血縁に権力を集中させました。さらに一門一家衆の次男以下の者による寺院の建立を禁止する新坊建立停止令も出します。これらの政策は実如・円如親子と山田光教寺蓮誓、大津顕証寺蓮淳によって進められています。
さらに本願寺内の行事・組織も確立されていきます。現在本願寺で行われている年中行事が定められ、僧侶の役職も定められます。教義を担当し本願寺一族と同じ装束を許された御堂衆、諸国直参の代表として本願寺に常駐し法要行事に参列する常住衆、事務職を担当し本願寺以外でも一門寺院には必ず派遣された寺侍の下間一族などです。下間氏はそれまで、教義から法要補助まで広く本願寺の業務を行ってきましたが、このころから実務を専門とするようになります。
蓮如の後を継ぎ、本願寺の地位と組織を確立した実如は大永五年(1525)六十八歳で生涯を終えます。葬儀には諸国から数十万人が参列したとされ、二十人ほどの殉死者まで出たと伝えられています。
3、戦国大名化する本願寺
永正十八年(1521)に次期法主とされていた円如が死去し、四年後の大永五年(1525)には実如も死去してしまいます。この時新たに法主となった円如の嫡子証如はわずか十歳でした。幼くして本願寺を継承する孫を危惧した実如は、近江大津顕証寺の蓮如六男蓮淳・加賀若松本泉寺の蓮如七男蓮悟・三河本宗寺の実如四男実円・加賀波佐谷松岡寺の蓮如三男蓮綱の嫡子蓮慶・加賀山田光教寺の蓮如四男蓮誓の嫡子顕誓の五人に証如への忠誠と教団維持へ協力を託しました。特にこの五人の中で、唯一畿内寺院にいる蓮淳に後見と養護を委ねます。蓮淳は実如とは同母兄弟であり、証如の母融誓尼の父でもあります。蓮淳は孫の証如を補佐して「法主を頂点とした権力機構の確立」を目指します。
その最初の標的となったのは堅田本福寺でした。同寺は一門寺院ではないものの、幾度も本願寺の危機を救っており、当時水運の中心地でもあった琵琶湖畔の堅田を拠点として多くの門徒を抱え、本願寺にも劣らない経済力も持っていました。一方で大津にあった蓮淳の顕証寺とは門徒の取り合いとなっていたようです。実如の在世中には、蓮淳が捏造した証文によって本福寺を一度破門にさせていますが、事実が発覚したためこの破門はすぐに取り消されています。しかし、実如が亡くなると、再びいいがかりをつけて破門にします。本福寺は本願寺のために称徳寺を建立していたのですが、その称徳寺が本福寺の門徒を引き抜こうとしたため、本福寺はこれを阻止します。これを本福寺の本願寺に対する反逆であると咎めたものです。この破門を許す代償として、本福寺は寺宝や門徒をすべて失うことになります。さらに、山科本願寺が焼き討ちにされた際、蓮淳が真っ先に逃亡したにもかかわらず、本福寺が救援に来なかったとして三度目の破門にします。この結果、本福寺住職の明宗が七十二歳で餓死すると、蓮淳は称徳寺の末寺となることを条件に破門を許します。本願寺に多大な功績があった本福寺に対するこの騒動は全国の末寺を震え上がらせることになります。
