|真宗史|仏教入門講座
本願寺一揆から東西分派まで1
― 本願寺の拡大と一揆の始まり -
- 2014年4月19日

1、 大谷本願寺と蓮如





1) 蓮如上人の東山大谷本願寺継承


 本願寺は親鸞の曾孫にあたる覚如によって建立されて以降、従覚、善如、綽如と血縁によって継承されていきます。覚如や存覚の布教によって親鸞門流の中でそれなりの地位は得ることができましたが、その影響力は限定的なものでした。それが次の巧如の代あたりから徐々に勢力を拡大し始めます。聖教を書写して有力寺院に送ると共に、弟の頓円(鸞芸)が越前藤島超勝寺を、周覚(玄真)が越前荒川興行寺をそれぞれ開き、三門徒派の強い越前にくい込みます。聖教はテキストと言うよりは、名号と同じく神社のご神体のように礼拝の対象、もしくは宝物として扱われました。また、超勝寺の建立には、加賀の願成寺・専称寺・称名寺・迎西寺が協力したとありますから、すでに加賀に基盤をもっていたことがわかります。更に四男の如乗を父の綽如が開いたとされる井波瑞泉寺に送り、確実に北陸での地盤を固めていきました。
 その後を継いだ存如は、北陸での布教を重視しつつ、更に飛騨・近江・河内・下総にも勢力を伸ばしていきます。この頃から『正信偈』と『三帖和讃』が書写されるようになります。また、民衆に仏教を説くために使われた「談義本」と呼ばれる『教化集』や『親鸞聖人御因縁秘伝鈔』なども書写されています。これは有力寺院を配下に加えるというだけではなく、信徒を増やすことを目的としたものです。これらの書写には、存如の長男である蓮如が筆をとったものも多くみられます(吉藤専光寺には蓮如が写し存如が奥書を書いた『三帖和讃』があります)。また、本願寺に阿弥陀堂(三間四面、一間は約1.8メートル))と御影堂(三間四面の内陣と、二間の押板の間、外陣)の二つの堂が並んで建てられたのもこの時期です。それまでは、一つのお堂の中に阿弥陀如来と御影が置かれていたようです。
 一四五七年に存如が亡くなると相続問題が起こります。すでに存如の補佐をしていた蓮如が本願寺を継承するはずでしたが、正妻の如円尼が実子の応玄に後を継がせようとしたといわれます。これを越前荒川興行寺周覚の娘と結婚し二俣本泉寺を開いていた蓮如の叔父如乗が、譲状を優先することを主張して覆します。如乗は娘を蓮如の次男蓮乗と結婚させ、この間に生まれた孫娘を蓮如の七男蓮悟と結婚させ本泉寺を継がせています。本願寺を継承出来なかった応玄は、加賀の大杉谷で生涯を終えています。
 蓮如は、本尊と宗祖を制定して本願寺を本山とする宗派を建立します。蓮如が配った初期の本尊は、帰命尽十方無碍光如来という名号を、従来墨で書かれていたものから金泥の籠文字で書かれたものにし、截金で四八本の光明を配するという豪華なものでした。この名号本尊から、本願寺門徒は無碍光衆と呼ばれます。また、それまで親鸞の門流寺院は法然を祖として、親鸞を代々の先達の一人として扱っていました。蓮如は親鸞を宗祖とすると同時に、各寺の歴代住職の絵の代わりに、自らの姿と親鸞を並べた連座御影をつくります。一四六一年には親鸞の二〇〇回忌を行い、他の先達との差別化に努めました。このようにして、親鸞門流寺院を本願寺傘下に集めていったのです。
 奈良興福寺配下の武士たちは、たびたび南都の一向念仏衆を検断していました。これは念仏衆がそれまでの仏教徒のように、鎮護国家・五穀豊穣を教えの中心としていなかったためであるといわれます。鎌倉期には浄土宗が、南北朝ごろからは仏光寺系の一向衆が対象となっていましたが、蓮如が本願寺を継承した翌年には、本願寺系の門徒が処罰されています。このことは、本願寺の影響力が拡大していたことをうかがわせるものです。


2)寛正の法難


 一四六五年の一月と三月の二回にわたって、無碍光衆の増大を危険視した比叡山によって東山大谷本願寺が攻められます。とはいっても、攻めたのは僧侶や僧兵ではなく馬借や祇園社の犬神人であったようです。当時の祇園社は横川楞厳院の末寺でもありました。罪状の中には、鎮護国家・五穀豊穣を祈っていないことに加えて、仏像や経を焼失させたり川へ流したりしたことがあげられています。この法難によって本願寺は壊され、蓮如は罪を負わされます。一四六八年に、本願寺は詫び状を書き三千貫文の礼銭を払って比叡山と和解します。このころの侍の年俸が七貫文であったといいますから、これは相当な金額になります。ちなみにこれを払ったのは上宮寺・勝鬘寺・本證寺などの三河門徒でした。これらの寺院は三河三か寺と称される東海地方の古刹で、蓮如が本願寺を継承した頃に高田派から本願寺に帰依しています。このことで、それまで良好であった本願寺と高田派の関係は険悪になり、越前の高田派は寛正の法難の時にも比叡山を支持し、自らを法然の門流であることを主張し、本願寺の浄土宗からの独立を非難しました。
寺を失った蓮如は関西を転々とし、さらに住職を長男の順如に譲ろうとしますが、これを固辞されています。和解した翌年、三井寺と交渉して親鸞の御真影を保護してもらい、これを順如に託して、自らは北陸に向かい越前と加賀の国境にある吉崎に居をかまえます。蓮如五十四歳の時です。
 この法難と同じ年の三月に、比叡山は湖南の本願寺門徒の金森衆を攻めます。ここに、同じく本願寺門徒の赤野井衆や堅田衆が加わり、比叡山方の大将を逆に討ち取っています。これまで比叡山などの国家権力に民衆が逆らうことは考えられないことでした。この反抗は金森の郷を自焼させる形で終りましたが、権力に対して庶民が抵抗を示す一揆の始まりでもありました。一四六八年には堅田の地侍衆が海賊行為をしたとして比叡山に攻められます(堅田大責め)。堅田の地侍衆は琵琶湖の漁業権・船の警護権・通行税徴収権を持っており、京都下鴨神社から神職身分を得ていると同時に臨済宗の大徳寺の信徒でもありました。これに、鍛冶屋・油屋・桶屋・糀屋などの新興商工業者で本願寺門徒であった堅田衆が加担し共に戦います。この戦いに敗れた堅田方は三八〇貫の礼銭を払うことになりますが、理不尽な裁きには力で抵抗するということが民衆の中に定着してきました。


2、 吉崎御坊と文明の一揆




1) 応仁の乱と吉崎御坊


 本願寺が破壊されてから二年後、京都で応仁の乱が始まります。今でも何故起こったかよくわからないこの乱は、さしたる目的もないまま全国に飛び火し十数年間も続きます。主要な戦場となった京都がほぼ全域が壊滅的な被害を受けたために、蓮如は比叡山と和解したにもかかわらず本願寺を東山大谷に再興できませんでした。この乱が拡大し収集がつかなくなった理由として、全国の地方領主や、農民や商人といった百姓が、生産力の向上や貨幣経済の普及によって力をつけてきた一方で、京都の公家や武家の権威が低下してきたことが考えられます。つまり各地で土一揆が起きてきたことと原因が重なっているのです。
 一四七一年に蓮如が居を構えた吉崎は、加賀との国境まで数百メートルというだけではなく、三方を北潟湖に囲まれている孤立地で、しかも御坊は平地を避けて標高三二メートルの吉崎山の山上に建てられました。境内は東西七〇間・南北六五間で、本坊は三間四面とも四間四面ともいわれています。他に詰所にあたる多屋(他屋)が九軒と、参詣人の宿泊所などがありました。ここで蓮如は「お文」の作成に入ります。「お文」は「消息」とは違って相手の名前が書かれていません。つまり個人に宛てた手紙ではなく、皆に読み聞かせるための法話なのです。内容的には親鸞の書物より、覚如や存覚の和語で書かれた聖教からの引用が多いのですが、これ以降、従来のような聖教書写はほとんど行われなくなり「お文」が全国に配られることになります。その数は二三〇数種類にも及びます。これは、蓮如による講を通して門徒に直接仏教を伝えようという試みです。当時は教えよりも僧侶そのものに帰依する傾向が強かったのです。またそれまで行われていた『六時礼賛』による勤行を、仏光寺に倣い『正信偈』と『和讃』に改めたのも吉崎に来てからです。念仏の読誦法は大原へ御堂衆を送って学ばせたといわれます。
 この吉崎は応仁の乱の戦場にもなっています。越前・尾張・遠江は足利氏の有力一門で畠山氏、細川氏とともに室町幕府の管領を出す家柄であった斯波氏の所領でした。しかし、斯波義敏と斯波義廉が家督を巡って争います。この家督争いが足利将軍家や畠山氏の家督相続と関係して応仁の乱を引き起こす原因となりました。応仁の乱では義廉は西軍の主力となり、東軍に属した義敏は越前を治めようとしますが、地方豪族出身で斯波氏の家臣であった朝倉孝景と越前守護代であった甲斐敏光は義廉派の西軍となり交戦となります。しかし、蓮如が吉崎に来た年に、朝倉孝景は東軍から越前守護職に任命されると西軍から東軍に寝返ります。次第に朝倉方が優勢となり甲斐方は加賀に追われます。このため吉崎は朝倉と甲斐の戦場と成りました。甲斐方は加賀に逃げ込んでは越前に侵攻を繰り返し、この争いは蓮如が吉崎を去った後まで続きました。地方豪族であった朝倉氏が名門に変わって守護職に就いたことは、家格に縛られていた身分制度の崩壊につながりました。これを下克上といいます。


2)加賀の情勢


 一方加賀では、赤松政則が守護職をしていた加賀の北半国を、加賀の南半国の守護職であった富樫政親が打ち破り、加賀一国の守護職に就きました。しかし政親が東軍に付くと、政親に不満を持っていた北半国の豪族が弟の富樫幸千代を擁立して西軍に付き、加賀は南北に分かれての争いとなっていました。優勢にたった西軍の幸千代が加賀の守護職に就くと、一四七三年(文明五年)には高田派や越前から逃れてきていた甲斐敏光と結んで、兄の政親を白山麓から越前に追いやってしまいます。もっともこの時、政親は十八歳、幸千代は十三歳ですから、この争いに本人達の意向がどれほど反映していたのかはわかりません。蓮如はこれらの戦には関心が無かったようで、門徒も合戦の合間を縫って参詣に来ていました。しかし、本願寺の影響力が北陸で強まってくると、以前から関係の悪化していた高田派との軋轢が再燃します。本願寺側の資料によると、加賀の高田派は武士をいいくるめて吉崎を襲撃させたり、幸千代と結んで本願寺方の僧侶や門徒に対して殺害や放火をくりかえしたとされます。事実、蓮如が吉崎に来てから二年後の一四七三年には、御坊の周りに堀・塀・溝が築かれ城のようになっています。ただし、本願寺門徒と問題を起こしていたのは高田派だけではなかったようです。吉崎に堀などが築かれたころから、蓮如は「お文」で諸神・諸仏・諸菩薩を誹謗しないように、また守護・地頭を軽んじないようにと何度も門徒に対して書き記しています。これは本願寺門徒が諸神・諸仏・諸菩薩を誹謗し、守護・地頭を軽んじていたということです。このことは「お文」によって本願寺門徒の意識が変わってきていたことをも表しています。


3)文明六年の一揆


 蓮如が吉崎に来てから三年がたった一四七四年(文明六年)閏五月、加賀に逃げ込んでいた西軍の
 甲斐は幸千代の支援を受けて東軍の朝倉に攻め込みますが、逆に大敗を喫してしまいます。更に六月には朝倉と甲斐が和解します。すでに能登では守護職畠山義統が西軍から東軍に寝返っていたため、西軍の幸千代は北陸で孤立してしまいます。白山麓に籠っていた政親はこれを好機と捉え、それまで支援を受けていた白山勢に加えて、吉崎に対しても幸千代攻めに加勢するように求めてきました。これまで中立を保っていた蓮如ですが、ここで政親に協力するように門徒に対して触れを出します。その理由として、高田派が幸千代方と手を組んで本願寺門徒を殺害したり放火等の乱暴を働いていたこと、また本願寺の勧める念仏を罪科に問い罰していたこと、政親を支援する将軍家の奉書が出されたことからこの一揆が公的なことであることを挙げています。しかし同時に「望まざるところ」であることも述べています(『柳本御文集』)。本願寺門徒を味方につけた政親は翌七月に加賀に攻め込みます。これが文明六年の一揆です。この戦いで政親方は幸千代方を圧倒し、十月には蓮台寺城が落ち十一月には加賀は政親方に制圧されたと考えられています。
 蓮如からみれば、あくまでも巻き込まれた戦いであったようですが、全国に二六〇〇以上ある白山社の総社白山比咩神社に残る『白山宮荘厳講中記録』(文明六年七月二六日条)には、「同年七月廿六日 念仏衆高田・本願寺国民、これを諍う。この砌に於いて、富樫次郎殿・幸千代殿御兄弟、時の守護代・額熊夜叉殿、与力沢井・阿曽・狩野伊賀入道、この面々は幸千代殿方、高田の土民、同心なり。次郎殿御方は、山川三州・本折入道・祖福殿以下国人。槻橋豊前守、山内より十月十六日夜、当山本院へ出張、よって長吏御房澄栄法印并衆徒等、御味方に参る。十月十四日落ちおわんぬ。打たるる人数を知らず。同二十四日、小原山龍蔵寺の白山拝殿、狩野伊賀入道、小杉、腹切りおわんぬ。しかしてこの前後、数ヶ度の合戦これ有り。委細はこれを注するに及ばず。」とありますから、高田派と本願寺派の争いであると見ていたようです。更に奈良の興福寺尋尊は『大乗院寺社雑事記』に「十一月朔日、加賀一向宗土民 無碍光宗と号す と侍分確執す。侍分悉く以って土民方より国中を払われる。守護代、侍分合力の間、守護代 こすぎ 打たれおわんぬ。一向宗方、二千人ばかり打たれおわんぬ。国中焼失しおわんぬ。東方鶴童は国中へ打ち入るといえども、持ち得ずと云々。土民蜂起希有のこと也。」と記していますから、無碍光宗が守護職を追放した一揆と考えていたようです。実際にはこの後幕府は政親を加賀守護に任命していますから勝者は政親なのですが、百姓が守護職を打ち破ったこと自体が当時としては「希有のこと」であったのでしょう。この戦いに勝利した政親は山内を出て、父祖伝来の冨樫庄近くの野々市に守護所を構え、北加賀半国の統治に努めます。一方敗れた幸千代は京都に逃れて再興を期しますが、ついに加賀に帰ることはありませんでした。


4)文明七年の一揆


 『白山宮荘厳講中記録』によると、文明六年の戦の翌年には、加賀の在所衆らが本願寺の威力を誇って白山宮や中央の大寺社など荘園領主の領地内に収めるべき年貢を納めなくなり、そのために神事や折々の勤行なども勤められなくなってしまった。これは前代未聞言語道断のことであり、冨樫など武家の権威も無いも同然で、今まででは考えられないような時代になってしまったとあります。白山宮(白山寺)は『源氏物語』にも書かれているほど平安期から京都でも知られた聖地で、平安末期には比叡山の末寺となっていました。「馬の鼻も向かぬ」と言われるほどの勢力を誇っていた白山宮でしたが、この件に関しては愚痴をこぼすしかなかったようです。また、政親方も一揆方に対してものが言えなくなっていたこともわかります。
 このような状況の中で、富樫方の一部と一揆方の一部が衝突します。詳しくはわかっていませんが、河北郡の一揆衆が在地武士とともに富樫方の槻橋豊前守と戦になったようです。富樫方に敗れた一揆方は井波瑞泉寺に逃れます。そして、洲崎藤右衛門入道と湯涌次郎右衛門入道の二人が使者として吉崎の蓮如のもとにいきます。この様子が蓮如七十二歳の時の子供で十男にあたる実悟が残した『実悟記拾遺』に書かれています。これによりますと、一揆方は富樫方と和睦しようと思って蓮如のもとに行きましたが、間に入った下間安芸蓮崇の策略のために逆に戦を続けざるを得なくなり、六月には湯涌谷衆を中心とした一揆を再び起します。しかし、これも政親軍によって鎮圧されてしまいます。これを見た蓮如の三男・波佐谷松岡寺蓮綱と四男・山田光教寺蓮誓は大津にいた長兄の順如と相談して、蓮如を八月に吉崎から退去させます。船で若狭まで行き、そして畿内に帰った蓮如は、これ以降北陸に来ることはありませんでした。五年にも満たない吉崎での生活でした。
 この時一揆を起こした門徒について『柳本御文集』に「『和讃』『正信偈』ばかりを用いて、念珠は持たず、一益法門の傾向が強く、一遍の念仏も申さず、善知識だのみを特徴とし、弓矢をとることを当然と考えている集団であった」と記されています。この特徴は越前の三門徒衆の特徴と驚くほど一致していることから、当時蓮如の傘下に帰していた三門徒系の信徒による暴走であったともいわれます。吉藤専光寺などに、一揆への参加を叱った「お叱りの御書」が残されていますが、専光寺は元来三門徒系の寺院であったとの説もあります。
 もう一人、ここに登場しているのが下間安芸法眼蓮崇です。本願寺家宰の下間姓を名乗ってはいますが、才能を蓮如に見込まれて下間姓を与えられていました。吉崎における蓮如の側近でしたが、主戦派の吉崎多屋衆に近かったともされ、文明七年の一揆を煽った形になりました。蓮如の吉崎退去後に湯涌谷に籠ることから、湯涌谷の一揆衆とは特別な関係があったとも思われます。蓮如が吉崎から船に乗り込んだ時に、蓮崇も後に続いて乗りますが、順如によって陸に投げ出されたといいます。蓮如は河内国に入り坊舎を立てますが、三男・蓮綱と四男・蓮誓から内情を知らされた蓮如上人は、蓮崇を破門します。蓮崇はやむなく湯湧谷へ退き、山中に城を築きますが、蓮如の命をうけた門徒に押し寄せられ越前へ落ち延びます。その後蓮崇は、管領細川政元を介して詫びを入れますが、許されたのは蓮如の臨終の時でした。
 政親は高尾城を本拠とし加賀の掌握に力を入れ始めます。そのためには本願寺の勢力は邪魔になったようです。蓮如上人が吉崎を発った日の夜、政親の命令で加賀国能美・江沼郡の武士と高田派によって吉崎に火がかけられ建物はすべて焼かれたといいます。これ以降小競り合いは続き、一四七七年に応仁の乱が終結しても終わることはありませんでした。


5)文明13年の一揆


 富樫政親と一揆方との争いは徐々に拡大していきます。政親方は石川郡と河北郡の本願寺派の坊主や門徒の首を切ったり、富樫勢に味方しない者を国から追放したりしました。加賀を追われた者の多くが井波瑞泉寺へ逃れ、その数は坊主二百余人、百姓町人は男女とも数えられないほどであったといいます。逃れたとはいってもそこに生活の基盤があるわけではないので、しばらくするとまた加賀に帰るということを繰り返したようです。そこで、政親は冨樫氏と同じ越前斎藤氏の出身で西越中の福光周辺を根拠にしていた在地武士の石黒右近光義に、医王山を挟んだ越中側でも瑞泉寺を焼き払い、一揆方を掃討するよう依頼したようです。石黒は医王山にあった天台宗の育王仙惣海寺と共に千六百人程の軍勢で攻め込みますが、事前に情報を得ていた本願寺方は百姓を中心に五千人ほどで迎え撃ちました。この時、加賀では二俣本泉寺は富樫からの要請に応じて動きませんでしたが、このことを伝え聞いた加賀山の者や湯涌谷の門徒が二千人ほど集まり、育王仙惣海寺と石黒の福光城下に攻め込み火をかけます。挟み撃ちにあった石黒方は敗走し、惣海寺は焼亡、石黒光義は切腹して果て、砺波郡は瑞泉寺領となりました。


3、山科本願寺の建立と教団の巨大化




1)山科本願寺


 一四七五年吉崎から逃れて来た蓮如は河内の出口に御坊を建てます。翌一四七六年には高槻の富田に御坊を建てると、一四七八年には堺にも御坊を建てます。この三つの御坊を蓮如は最晩年まで行き来しています。更に同じく一四七八年には宇治郡山科郷野村でも御坊の建設に入っています。これが山科本願寺です。この地は醍醐寺三宝院の所領であったようですが、近隣の六郷と共に山科七郷という自治組織を作って自ら郷内を管理・運営して、公家や寺社などの領主による支配を拒否していました。平等な法(徳政令)を求めて京都近郊で起こった徳政一揆にも加わり、禁裏の護衛にも加わるなど、政治的な活動もしていました。また、長く続いた応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆が京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開したために、当時急速に発展し始めた土地でもありました。山科本願寺が作られた場所は、四ノ宮川と山科川の合流地点にできた扇状地で水田には不向きでしたが、東海道から宇治街道へ抜ける分岐点でもあり交通の要所であったようです。六年をかけて建設された山科本願寺は御影堂、向所、寝殿、阿弥陀堂等で形成されていました。これを「御本寺」といいます。阿弥陀堂は大谷の時と同じく三間四面、御影堂も三間四面でしたが、後に二間と一間の南余間と一間から三間の北余間、更に外陣が増設され、三百人が入れる程の広であったといいます。この頃は内陣と外陣には段差がほとんど無く矢来もありませんでした。二年後には蓮如の家族や僧侶、在家信者の町屋がある「内寺内」と、信者の町屋や、絵師、飴屋、塩屋、酒屋、魚屋等の商衆の住まいがある「外寺内」が完成します。この「外寺内」には後に蓮如の廟所が作られました。更にその六年後には蓮如の隠居所とされる「南殿」が造営されます。南北に1km、東西に0.8kmに及ぶと推定されるこの広大な敷地は、蓮如が亡くなってから要塞化が進み、一五三二年に書かれた『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城」と記載されるほどになっていたようです。その造りは当時の城が山城であった中で「輪郭式」と言われる平城で、近代城郭の要素を含んだ「城郭史上、特筆すべき城郭跡」とされています。堀、土塁、柵列、溝、物見櫓風建築物跡などの防御施設が施され、土塁の高さは7mにも及びます。その一部は現在山科公園に残っています。またその中の様子は「四、五代に及び富貴、栄華を誇る。寺中は広大無辺、荘厳ただ仏の国の如しと云々、在家また洛中に異ならざるなり、居住の者おのおの富貴、よつて家々随分の美麗を嗜む」(『二木水』)といわれる寺内町を形成していました。しかし、一五三二年に六角氏と法華宗徒により焼き討ちされ山科本願寺はすべて灰になってしまいます。


2) 他派からの参入


 佛光寺は関西から九州方面にまで勢力を持っていた真宗の一派でしたが、現在京都国立博物館あたりにあった本寺が応仁の乱で焼失し摂津平野に避難していました。これを継承していた経豪は、蓮如の従兄弟常楽寺蓮覚と蓮如の長女如慶尼との間に生まれた娘(順如の養女)と結婚します。これが縁となり、一四八一年ごろ本願寺に参入し、名を蓮教と改名して山科本願寺の中に興正寺を立てて移り住みます。佛光寺は経豪の弟経誉が継承しますが、この時多くの有力寺院が本願寺に参入しました。
 木辺派の本山錦織寺は湖南から大和に勢力を持っていました。ここを継承していた慈範は蓮如と同じく日野広橋家の猶子であったため義兄弟でした。この慈範の弟の子勝恵と蓮如の十一女妙勝尼が結婚し本願寺に参入します。この二人の間には娘が二人できます。長女は蓮如の六男蓮淳の次男伊勢長島願証寺実恵と結婚しますが、信長軍との戦いで亡くなりました。次女は蓮如の十男加賀清沢願得寺実悟と結婚しています。この他、本願寺の有力門徒となる吉野衆や堺衆、雑賀衆などもこの時期帰参しています。

参考資料




蓮如上人(1414年 - 1499年)の妻子


•第一夫人:如了尼(1424年 - 1455年) - 伊勢貞房の娘
              蓮如が本願寺を継承する前に死去
   長男:順如(1442年 - 1483年) - 河内出口光善寺開基
   長女:如慶尼(1446年 - 1471年) - 京都常楽寺蓮覚光信室
   次男:蓮乗(1446年 - 1504年) - 南禅寺喝食
              越中井波瑞泉寺・加賀若松本泉寺
   次女:見玉尼(1448年 - 1472年) - 摂受庵見秀尼弟子
   三男:蓮綱(1450年 - 1531年) -華開院喝食
              加賀波佐谷松岡寺開基、鮎蔵坊開基
   三女:寿尊尼(1453年 - 1516年) -摂受庵見秀尼弟子
                     後に摂津富田教行寺
   四男:蓮誓(1455年 - 1521年) -華開院喝食
        加賀滝野坊,九谷坊,山田光教寺,越中中田坊開基
•第二夫人:蓮祐尼(1438年 - 1470年) -如了尼の妹
            大谷本願寺を失い吉崎に入る前に死去
   五男:実如(1458年 - 1525年) - 本願寺第9世
   四女:妙宗尼(1459年 - 1537年) - 知恩院椿性禅尼弟子
                        左京義政妾
   五女:妙意尼(1460年 - 1471年) - 早逝
   六女:如空尼(1462年 - 1492年) - 越前興行寺蓮助兼孝室
   七女:祐心尼(1463年 - 1490年) - 神祇伯白川資氏王室
   六男:蓮淳(1464年 - 1550年) - 近江大津顕証寺
            河内久宝寺顕証寺・伊勢長島願証寺開基
   八女:了忍尼(1466年 - 1472年) - 早逝
   九女:了如尼(1467年 - 1541年) - 越中井波瑞泉寺蓮欽妾
   七男:蓮悟(1468年 - 1543年) - 丹波に里子
          加賀崎田坊,中頭坊,清沢坊,若松本泉寺創建
   十女:祐心尼(1469年 - 1540年) -丹波に里子
               中山宣親室、第11世顕如の曽祖母
•第三夫人:如勝尼(1448年 - 1478年)
   十一女:妙勝尼(1477年 - 1500年) - 山城勝林坊勝恵妾
•第四夫人:宗如尼(? - 1484年) - 姉小路昌家の娘
                    姉小路基綱の姉か妹
   十二女:蓮周尼(1482年 - 1503年) - 越前超勝寺蓮超室
   八男:蓮芸(1484年 - 1523年) - 摂津富田教行寺
                       摂津名塩教行寺
•第五夫人:蓮能尼(1465年 - 1518年) - 畠山政栄の娘
                       畠山家俊の姉
   十三女:妙祐尼(1487年 - 1512年) - 山城勝林坊勝恵室
   九男:実賢(1490年 - 1523年) - 近江堅田称徳寺
   十男:実悟(1492年 - 1583年) - 河内古橋願得寺
   十一男:実順(1494年 - 1518年) - 河内久宝寺西証寺
   十二男:実孝(1495年 - 1553年) - 大和飯貝本善寺
   十四女:妙宗尼(1497年 - 1518年) - 常楽寺実乗光恵室
   十三男:実従(1498年 - 1564年) - 河内枚方順興寺

註:摂受庵と華開院は浄土宗浄華院流の寺院。浄華院は応仁の乱まで浄土宗の本山的な地位にあり、伊勢家と日野家が有力な護持家であった。また、白川家と中山家は広橋家の縁戚。






徳法寺 〒921-8031 金沢市野町2丁目32-4 © Copyright 2013 Tokuhouji. All Rights Reserved.