|『正信偈』学習会|仏教入門講座
慶喜一念相應後 與韋提等獲三忍 即證法性之常樂  令和2年7月20日(月)
- 2020年12月15日
 「慶喜」という言葉を親鸞聖人は「信心を得て喜ぶ心」であるとおっしゃいます。親鸞聖人のおっしゃる「信心」とは、自分を「凡夫」であると喜びをもって受け止めることが出来たという事ですから、個人的な欲望がかなったことを喜ぶということではなく、自分を信じることが出来た喜びです。『唯信鈔文意』では「この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく」と、この喜びを得た人は諸仏に等しいとおっしゃっています。仏とはこの世界をありのままに受け止めることが出来た存在ですから、自分を「凡夫」であると信じることが出来た者はこれと同じであるということなのです。善導大師は『観経疏』玄義分に「妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け、相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる」と、この金剛心である信心を得て「相応する一念の後」に「果徳涅槃のものに帰命したてまつる」とおっしゃっています。「相応」するのは如来の本願です。この本願に相応する一念の後に、さらに如来に帰命するというのです。これでは少し時間経過にぶれを感じます。そこで親鸞聖人は「一念相応」の後に得られる具体的な「三忍」という果と「法性之常樂」という証を述べられたのです。
 「三忍」は韋提希夫人と等しいものであるといいます。「三忍」の内容を善導大師は『観経疏』序分義に「この喜によるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づけ、また悟忍と名づけ、また信忍と名づく」と述べています。「無生の忍」とは「こちらに何の因も無いのに生まれてきたさとり」ということです。それに「喜忍」と「悟忍」と「信忍」の三つがあるというのです。韋提希夫人は一人息子に夫を殺されそうになり、その愚痴を釈迦にぶつけた人です。その後に真の平安を求めて釈迦に説法を願い、その結果得られたのがこの「三忍」です。「喜忍」とは自分の人生を喜ぶことが出来たという事です。「悟忍」とは自分の人生の意味を知ることが出来たという事です。「信忍」とは自分を信じることが出来たという事です。これは一つのことを三通りに言いあらわしたものです。逆の在り方が、自分の人生を恨み、自分の人生に意味を見出せず、自分を信じることのできないあり方です。釈迦に愚痴を投げつけた時の韋提希が、まさにそのような在り方だったのです。それが全く逆の「三忍」の境地を得られたのです。この韋提希夫人と同じ心を得るということが信心を得るということであると親鸞聖人はおっしゃっているのです。
 証は「即」ち「法性」の「常楽」です。善導大師は『観経疏』玄義分に「ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし」とおっしゃっています。これを承けて親鸞聖人は『唯信鈔文意』に「法性のみやこといふは、法身と申す如来のさとりを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを、真如実相を証すとも申す、無為法身ともいふ、滅度に至るともいふ、法性の常楽を証すとも申すなり。このさとりをうれば、すなはち大慈大悲きはまりて生死海にかへり入りてよろづの有情をたすくるを、普賢の徳に帰せしむと申す」と述べています。「法性」とは涅槃や滅度、真如ともいわれるさとりそのものの世界です。この世界の徳に常・楽・我・浄の四つがあるとされますが、その一つが「常楽」で、すぐに消えるこの世の楽とは違い、永劫に代わることのない楽であるというのです。常に変わり続けるこの世界で永劫に代わることのない楽を得るということは、変わりことが自然であり変わらないことを求めることが不自然であることを受け入れるとで、変わり続けるこの世界を肯定するということです。これが信心によって得られる証なのです。






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