|『正信偈』学習会|仏教入門講座
善導獨明佛正意  令和2年1月21日(火)
- 2020年6月25日
 善導大師は道綽禅師の元で30年間修業された方です。日本では聖徳太子が遣隋使を派遣し、本格的に仏教が伝わってきたころです。当時中国でも玄奘三蔵によって大量の経典がもたらされ、かつてないほど仏教が盛んになっていました。多くの経典が解釈される中、特に注目されていた経典の一つが『仏説観無量寿経』でした。「善導獨明佛正意」とは「善導ただ一人が佛の正意を明らかにされてた」ということですが、これは善導大師ただ一人が『仏説観無量寿経』の仏意を明らかにしたという意味です。
 親鸞聖人の師である法然上人は、善導大師が『仏説観無量寿経』を注釈した『観経疏』(四帖疏ともいう。「玄義分」「序分義」「定善義」「散善義」の)四巻からなる)によって浄土宗を建立しました。法然は、文治六年(1190)東大寺で「浄土三部経」を講義した折「ここに善導和尚の往生浄土宗においては、経論ありと雖も習学する人なく、疏釈ありと雖も讃仰する倫もなし。然れば則ち相承血脈の法有ること無し」と述べています。そして浄土宗の師資相承血脈として、菩提流支・恵寵・道場・曇鸞・法上・道綽・善導・懐感・少康の九祖を掲げています。法然の浄土教は道綽善導流浄土教と言われており、これ以外に中国浄土教には慧遠流浄土教と慈愍流浄土教があります。
 慧遠流浄土教とは、廬山浄影寺の慧遠の流れをくむ念仏です。慧遠は儒教や道教を学んでいましたが、道安の『般若経』講義を聞き「儒道九流はみな糠粃なるのみ」と歎息すると、直ちに仏門に入りました。廬山の東林寺で多くの弟子を育て『般舟三昧経』に基づく念仏を行いました。これは口称念仏ではなく、戒を完全に保ち、一人で閑静なところにとどまり、千億万の仏土を経たところにある極楽で多くの菩薩たちにかこまれて経を説いている阿弥陀仏に心を集中するという般舟三昧の念仏です。これは、阿弥陀仏を実体的に見るのではなく、一切を空と見る智慧によって仏を見るというものです。これによりすべての執著や煩悩を断ち切るという念仏は、この後、中国浄土教発展の源流となり、曇鸞・道綽の念仏の流れとは直接つながらないものの、唐代・宋代には慧遠を敬慕する念仏結社が多数作られることになります。
 慈愍流浄土教とは、慈愍三蔵の流れをくむ念仏です。慈愍は海路インドに渡り聖迹を巡礼した後、ガンダーラ国で観音の霊告を受けて浄土教に帰入したとされています。帰国後『略諸経論念仏法門往生浄土集』三巻(『浄土慈悲集』、または『往生浄土集』)を著したとされますが、上巻のみしか現存していません。同時代の禅宗者を批判し、禅と念仏を併修する念仏禅を説きました。後の念仏者である承遠、法照、延寿、元照などにも多大な影響を与え、現在に至るまで中国浄土教の主流となっています。

 これ以外にも、天台大師智顗や嘉祥寺吉蔵など、中国仏教を代表する僧侶たちが『仏説観無量寿経』を注釈しています。これらの高僧達と善導大師では、経典に対する向き合い方が次の三点で異なっています。
まずは『仏説観無量寿経」が書かれた目的です。経典名に「観」が付いていることからもわかるように、この経典は無量寿仏、つまり阿弥陀仏を「観」るための方法が具体的に書かれています。この「観」は禅定に長け、自分を律することが出来る優れた僧侶でなければできない行です。つまりこの経典は修行僧の為に説かれた経典であるということになります。ところが善導大師は、この経典が全く仏道を治めることが出来ない凡夫の為に説かれた経典であるというのです。それはこの経典で釈迦が法を説いている対象が在家の女性である韋提希夫人であるからです。
 次に『仏説観無量寿経」が説く浄土である極楽浄土が、真実のさとりの世界であるのかという事です。この経典は仏道を修めることが出来る段階に合わせて、衆生を9種類に分けています。そして、全く仏道を治めることが出来ない最も仏教から遠い存在でも、念仏によって救われると説いています。多くの僧侶は、その様な者が浄土に生まれることが出来るはずもないことから、真実に導くための仮の教えと理解するか、あるいはその様な者でも生まれることが出来るのならば極楽浄土は浄土の中でも最も劣った浄土であると理解しました。しかし善導大師は、真実の仏とはすべての者を救おうという大悲を持った存在であり、その願いを成就させたのが阿弥陀仏であるのだから、すべての者が救われる浄土こそが真実の浄土であると受け止めたのです。
 最後は、たかが念仏ぐらいで救われるのかという事です。僧侶が厳しい修行をしてさえも、なかなか救われることがないというのに、最も仏道から遠い存在が念仏を称えることぐらいで救われるはずがないというのは当たり前の発想です。ところが善導大師は、念仏とは凡夫の行ではなく「南無」というところに阿弥陀仏の発願回向の心が備わっている阿弥陀仏の行であるから、称名念仏は阿弥陀仏の願と行を具足した阿弥陀仏のこころにかなった行であると受け止めたのです。ですから、たとえ凡夫であっても念仏によって報土往生できると唱えたのです。この3点を善導大師の「古今楷定」と言います。
 これは善導大師が『仏説観無量寿経」を自分の為の経典であるとして受け止めたという事です。『涅槃経』に「四依の文」といわれる教えがありますが、それは「今日より法に依りて人に依らざるべし」「義に依りて語に依らざるべし」「智に依りて識に依らざるべし」「了義経に依りて不了義経に依らざるべし」というものです。まさに善導大師はこれを実践した方なのです。






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