|『正信偈』学習会|仏教入門講座
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引  令和元年10月15日(火)
- 2019年12月7日


 今回の「三不三信誨慇懃」は一字省略されています。これは『正信偈』が一句七文字となっているためで、同様の個所は他にもあります。省略しなければ「三不信三信誨慇懃」となります。「三不信」とは曇鸞大師が『浄土論註』に述べている言葉です。

 
 しかるに称名憶念すれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざること、名義と相応せざるに由るがゆえなり。いかんが不如実修行と名義不相応とする。いわく如来はこれ実相の身なり、これ物の為の身なりと知らざるなり。また三種の不相応あり。一つには信心淳からず、存せるがごとし、亡ぜるがごときのゆえに。二つには、決定なきがゆえに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆえに。この三句展転してあい成ず。信心淳からざるをもつてのゆえに決定なし。決定なきがゆえに念相続せず。また念相続せざるがゆえに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆえに心淳からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名づく。このゆえに論主、「我一心」と建言す。

 これは曇鸞大士が「称名憶念」しても救われないのはなぜかという問いに答えている一節です。その理由として、如来は「実相の身」であり「物の為の身」であると知らないために「実の如くに」念仏申すことも「南無阿弥陀仏」の名と義に相応することも出来ていないということをあげています。わかりにくい表現ですが、阿弥陀仏とは「実相」つまり「ありのままの相」のことであり、神のようにどこかに存在しているものではないということです。「物の為」とは一切主を救わんという慈悲そのものであるということです。これをふまえて「三種の不相応」が説かれています。
 まず「信心淳からず」です。これを親鸞聖人は次のように和讃でしておられます。

 不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく 一者信心あつからず 若存若亡するゆゑに

 ここにある「若存若亡」には「或る時はさとも思う。或る時はかなうまじと思う」と左訓されています。つまり信じきれないということです。阿弥陀如来として表現される慈悲心に身を任せることに確信が持てないのです。
次が「信心一ならず」と「信心相続せず」です。これを親鸞聖人は次のように和讃でしておられます。

 二者信心一ならず 決定なきゆゑなれば 三者信心相続せず 余念間故とのべたまふ

 「決定していない」とは、現実に心を満たすことが出来ないために、過去や未来に振り回されるということです。「続かない」とは「余念」が混ざるということです。「余念」とは自力をたのむ心です。この心が捨てきれないのです。

 この三つの不信が「句展転してあい成ず」るのですこれも親鸞聖人が和讃にしています。

 三信展転相成す 行者こころをとどむべし 信心あつからざるゆゑに 決定の信なかりけり
決定の信なきゆゑに 念相続せざるなり 念相続せざるゆゑ 決定の信をえざるなり
 決定の信をえざるゆえ 信心不淳とのべたまふ 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり

 三つの不信とはいっても、実際には一つです。信じることが出来ないのです。信じることができないから、任せることも、今を生きることも自力を捨てることも出来ないのです。その理由を『仏説無量寿経』には次のように説いています。

 もし衆生ありて、疑惑心をもってもろもろの功徳を修して、かの国に生まれんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなお罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。

 この曇鸞大士の言葉によれば、よほどのことがなければ念仏によって救われることなどあり得ないように思われます。これを誰もが救われる念仏の教えに変えたのが道綽禅師です。『安楽集』には次のようにあります。

 また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆえなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆえなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間つるがゆえなり。 たがひにあい収摂す。もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。 ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。

 ここで道綽禅師は、相続心があれば、他の二つの心を具えていることになると言っています。では相続心とは何かということになります。「他力」をたのむということが「自力」を捨て去るということであれば、これは不可能です。しかし「自力」を捨て去ることのできない凡夫であると頷くことであれは誰もが可能になります。つまり凡夫であるということに頷いた者は三つを具えているということです。これが「三信」です。手が届かなかった曇鸞大士の「三不信」を、道綽禅師が手の届く「三信」に読み替えてくれたのです。「慇懃」とは「ねんごろ」という意味です。「三不信」を「三信」に「ねんごろ」に言い換えて教えてくれたのです。
 なぜこれほどまでに「ねんごろ」に教えを説いてくださったのかという理由が「像末法滅同悲引」です。「三信」を備えることが出来ない、像法・末法・法滅の時代を生きるすべての衆生を、道綽禅師がみそなわしてくださり、凡夫であることを頷くだけで救われる仏教を示してくださったのです。






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