|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史17 最終回

インドにおける宗教思想の近代化と仏教の再生

- 2019年11月28日
1. イスラーム王朝の誕生
 
 610年頃に、ムハンマドがメッカ郊外で天使ジブリールから唯一神(アッラーフ)の啓示を受けてイスラーム教を始めてから約100年後の712年には、西北インドのシンド州(現在のパーキスターン南部)がイスラーム教国の支配下になるが、イスラーム軍が本格的にインドへ侵攻するのは10世紀以降である。11世紀になるとガズニー王朝(アフガニスタンのガズニーを首都としていたテュルク系イスラーム王朝)のスルターン・マフムードは17回にもわたりインドに侵入し、ガンジス河の北岸カナウジ市(曲女城)を攻略している。この時、イスラーム軍による略奪や放火、破壊に激しく抵抗したのがラージプート族であった。ガズニー王朝に代わって西北インドを支配したイラン系のゴール朝はさらにインド奥深くへと侵攻し、1191年、タラーインの戦いでラージプート族はついに敗北することとなる。この時、ラージプート族の男子は全滅するまで戦い、婦女子は自ら火に身を投じて全員が玉砕したという。この戦いに勝利したゴール朝は、1205年にはインダス河口からガンジス河口にいたる北インドすべてを支配下に治めることになる。イスラーム教徒は偶像崇拝を否定しているためヒンドゥー教寺院や仏教寺院、ジャイナ教寺院は次々と破壊された。支配地域の住民に強く改宗を求めたが、これはヒンドゥー教徒からの反発を受け失敗に終わっている。
 1206年、テュルク人の将軍クトゥブッディーン・アイバクがデリーを首都としてゴール朝から独立し、インド国内における最初のイスラーム王朝を開く。奴隷王朝(1206年-1290年)と呼ばれるこの王朝に続き、ハルジー王朝(1290年-1320年、テュルク系)、トゥグルク王朝(1320年-1413年、テュルク系)、サイイド王朝(1414年-1451年、テュルク系)、ローディー王朝(1451年-1526年、アフガン系)と、デリーを首都とするイスラームの王朝が続いた。これを「デリー諸王朝」という。この間、1221年にはチンギス・ハーンがインダス河流域に侵入し財宝を略奪し、1398年にはティームールがデリーに侵入し、略奪した上、10万人を虐殺し、多くの技術者と奴隷を連行して首都サマルカンドに引き上げている。デリー諸王朝は南インドにも領地を拡大させていったが、ヒンドゥー教を国教とするヴィジャヤナガラ王朝がこれを食い止めていた。
 1526年、アフガニスタンを治めていたティームールの血を引くテュルク人のザヒールッディーン・ムハンマド(バーブル)がデリーを征服しムガル帝国を開く。王朝名の「ムガル」は、モンゴルを意味するペルシア語の「ムグール」が訛ったものであるが、これは他称であり「ヒンドゥスターン」が帝国の公式名と考えられる。ザヒールッディーン・ムハンマドの孫アクバル帝(1542年-1605年)は40年にわたる征戦によって、インドのほぼ全域を支配下に置いた。アクバル帝が勝利した戦で最も知られているのは1568年のチトールの戦いであるが、これは火砲によるものである(ちなみに長篠の戦は1575年)。インドを征服したアクバル帝は官僚制を確立し、全土にわたって検地を行い、通貨で税金を収める制度も確立した。また、カースト制度が浸透しているインドにおいて、すべてのヒンドゥー教徒をイスラーム教徒に改宗させることが難しいと感じたアクバル帝は、ヒンドゥー教とイスラーム教両方を収めるために、皇帝を神とする新しい宗教「神聖宗教」を作った(1582年)。これはヒンドゥー教とイスラーム教、ジャイナ教を混成させた宗教である。アクバル帝はムハンマドという名の使用、イスラームのモスクの新たな建設や修繕、アラビア語の学習、イスラーム法の研究、クルアーンの注釈を禁じた。しかし、これらはイスラーム教徒以外の国民に対する懐柔策であり、基本的にはイスラーム王朝であることに変わりはない。一部のイスラーム教徒によるヒンドゥー教寺院の破壊や、武力によるイスラームへの改宗も続いていた。一方で、カーストの階級外民や不可触賤民たちは、過酷なカースト制度から逃れるために自発的にイスラームに改宗していった。このような状況の中で、次第にインド人一般の風俗・習慣にイスラームの文化が取り入れられていった。例えば、婦人がヴェールを被ることや、早婚、教団の武装化などがあげられる。また、言語もペルシア語の影響を受けたウルドゥー語が共通語として用いられるようになる。美術でも細密画が普及し、ヒンドゥー神話などもこれによって描かれるようになっていった。

2. ヒンドゥー教とイスラーム教の変化

 イスラーム教の影響を受けて、多神教であるヒンドゥー教に最高神など特定の神に対する献身的な「信愛」(バクティ)を強調するという一神教的な傾向がみられるようになった。ヴィシュヌ教の聖典である『バカヴァッド・ギータ―』に説かれている「信愛のヨーガ」とは、ひたすらに積極的な献身的熱愛を求めるものであり、これは以前のヒンドゥー教における「信仰」が真理に至るための入り口であったのに対して「信仰」そのものを真理とする考え方である。教義の変化により、細分化されていた祭祀の体系や、司祭者の重要性は軽視されるようになる。ヴィシュヌ教に限らず、他のヒンドゥー教諸派にも「バクティ」を強調する学者や宗教家が多く現れ新たな学派が成立した。これらの新しい神学は、これまでヒンドゥー教で用いられていたサンスクリット語ではなく、民衆にも理解できるヒンディー語やマラーティー語、ベンガーリー語などの地域語で説かれた。
 イスラーム教も、聖徒の墓を巡礼するなどインド的な宗教に変容していく。スーフィーと呼ばれるイスラーム神秘主義がインドに入ると、ヴェーダーンタ学派の思想と結びつき、インド独自の神秘主義思想を生むことになる。シャー・ワリウッラー(1703年-1764年)が説いた思想からは、理想郷としての「パーキスターン」(清浄な国)という理念が生まれている。
 新しいヒンドゥー教神学の先駆となったのがラーマ―ナンダ(1400年頃 - 1470年頃)である。ラーマ―ナンダは、ラーマに対する献身的崇拝とその聖なる名を繰り返すことで救われると説いた。また、人々が純粋な信仰心を持っているならば、ヴィシュヌ神の前ではすべての人は平等であるとして、カーストによる差別に反対した。ヒンドゥー教が禁じていた異なったカーストの者との食事を積極的に行い、修行者になる条件からカーストや男女の区別をなくした。この様な平等思想はイスラームからの影響であるが、インド神話の英雄であるラーマを主神とすることでイスラームに対してインド文化の優位性を保とうとしたのである。
 ラーマ―ナンダの弟子のひとりであるカビール(1440年-1518年)は、ヒンドゥー教とイスラーム教の融合統一を試みた宗教家である。ヒンドゥー教からは輪廻転生の観念を、イスラーム教からは一神教の観念を取り入れ、偶像崇拝と苦行の排除、神の前での平等を訴えた彼の思想は「生まれつきの純粋なるヨーガ」と呼ばれた。スーフィーからの影響も強く受けている。宗教詩人であった彼は「自分はヒンドゥー教徒でも、イスラーム教徒でもない」と称して、すべての人々に受け入れられる宗教を目指した。その中心的な思想は「ただひたすらに神を心に念じる」「ただひたすらに神にすべてをささげる」ことによって救いが得られるというものである。この思想は、タゴールやガンディーにも強烈な影響を与えている。カビールは在家の宗教家であったため、後に彼の思想を崇拝する人たちによりカビール・パンティーと呼ばれる在家の教団が生まれ今も存続している。
 カビールの弟子のひとりであるナーナク(1469年-1538年)が開いたのがシク教である。「シク」とはサンスクリット語の「シシュヤ」(弟子)を意味するが、弟子たちが精神上の師(グル)であるナーナクに対して従順な態度を示したことに由来している。カビールの思想を継承しながらも、よりイスラーム教の影響を強く受けている。ヒンドゥー教の業と解脱の教義を継承し、ヒンドゥー教の神々や宗教儀式も容認している。一方でヒンドゥー教が求めている食物の禁忌は否定し、麻薬はもちろんヒンドゥー教が認めている酒・たばこも禁止している。またヒンドゥー教が行っている偶像崇拝や形式的な儀礼や苦行は認めず、イスラーム教と同様に聖職者という職業は否認している。唯一絶対の神には名がないため、ラーマと呼ぼうとも、アッラーと呼ぼうともかまわない。
 ムガル帝国と良好な関係を築いていった教団は、インド各地に信徒を増やし、ナーナクの死後100年もたたないうちに一つの宗教として独立することになる。しかし、武装化した教団は徐々に帝国と敵対するようになり、インド国内における反乱武装集団となる。シク教徒の男性はターバンを巻いていることが多いが、これは戦いの時に頭を守るためである。18世紀の終わり、シク教の法主ランジート・シングは教団を軍事団体に編成してパンジャーブ地方に独立王国を建設した。インドを植民地化したイギリスとの戦いに敗れた後は一つの州となるが、イギリスはシク教徒を軍事・警察部門に登用することで植民地支配に利用した。今日でも多くのシク教徒が軍事・警察部門に就いており、インディラ・ガンディー首相がシク教徒によって暗殺されたときにもシク教徒が護衛していた。インド・パーキスターン分離の際、かつてのシク王国の大部分がパーキスターン側となった。このためパーキスターン側に住んでいたシク教徒600万人がインド側への移住を強制された。インド憲法の25条に「シク教、仏教及びジャイナ教は、ヒンドゥー教の一派である」という条項が作られ、シク教もヒンドゥー教の一つとして承認されたが、ヒンドゥー教に対する不信感を持っていたシク教徒は州としての独立を求めたため、インドの東パンジャーブ州はシク教徒のパンジャーブ州とヒンドゥー教徒が多く住むハリヤーナー州に分割された。しかしこの後も、シク教徒による自治独立を求める運動は続いた。1984年、パンジャーブ州一体で武力衝突がおこり、インディラ・ガンディー首相はインド政府軍を派兵してパンジャーブ州のアムリツァルにあるシク教の総本山黄金寺院を襲撃した。ネール首相の娘であるインディラ・ガンディー首相はこの年の10月に「仏教と諸国民の文化とについての第一国際会議」を開き次のように語っている。

 ブッダ、マハーヴィーラ(ジャイナ教の開祖)、ナーナク(シク教の開祖)、ムハンマド、キリスト、孔子、老子、ソクラテスは、偉大な精神的指導者であったが、いずれかひとつの国民(民族)に属する人々ではなかった。かれらは不死のメッセージを残した。この精神的な宝があるのにもかかわらず、今日人類には何が起こったのであろうか?世界全体にわたる問題を処理する方法や見解が支離滅裂であるために、恐怖や虚脱が起こっているが、今日人類がそれらから脱れるためには、どうしたらよいのだろう?

 この直後10月31日に暗殺されている。後任の首相には長男のラジーヴが就いたが、ラジーヴもまた1991年に暗殺された(ガンディー家の悲劇)。現在は大きなテロは起っていないが、2018年11月28日、パーキスターン政府はナーナクが没した地とされる寺院へインドのシク教徒が巡礼できるように、同国中部のパンジャーブ州ナロワルとインド国境を結ぶ約4キロメートルの「カルタールプル回廊」の建設工事を開始した。この着工式典でパーキスターン陸軍参謀長がインドからの独立を目指すシク教活動家と握手する映像がテレビ中継されたことから、インドはテロを助長するものとしてパーキスターンを批判している。一方で、長い戦闘体験によって機械操作に精通したものが多くいたことで、シク教徒からはインドの近代化には欠かせない人材が生まれている。現在はタクシー運転手や飛行機の操縦士や機械工学の専門家にシク教徒が多くみられる。
 チャイタニヤ(1485年-1533年)は、従来行われていたヒンドゥー教の宗教儀礼を否定し、クリシュナとその愛人ラーダーの恋愛に関する歌を熱狂的に唱って歩く高唱巡行という宗教儀式を創始した。クリシュナの名(ハリ)のみが一切の罪を消し去ると説いている。一切の人々は兄弟であるとして、カーストや宗教による区別を否定した。また、信仰の本質は愛情であり、解脱とは愛情そのものに他ならない、神の本性も愛情であるとしている。この思想はアメリカに移入され「ハレー・クリシュナ」運動となっている。
 これ以外にも、インドの近代化に重要な役割を担った宗教にパールシー教がある。パールシー教とは、8世紀にイスラーム教徒の軍隊に追われてペルシアからインドへ逃げてきたゾロアスター教の信徒たちをヨーロッパ人たちがそのように呼んでいたことに由来する。ボンベイの北にあるグジャラートの海岸に逃れてきたゾロアスター教徒たちを、当時の藩主はいくつかの条件を付けて帰化することを許した。それは、イランの言語を捨てて現地の言語を話すこと、女性たちがインドの服装をすること、結婚はインドの習俗に従うこと、である。ヒンドゥー教諸王は彼らに改宗を求めなかったため、今でもボンベイを中心に11万人程がいるとされるが、少数ながらパーキスターンにも住んでいる(クイーンのフレディ・マーキュリーなど)。ゾロアスター教は唯一の全知なる神アフラ・マズダを信じる宗教である。この神の身体は無量なる光であるとされ、聖火を神殿に祭り位牌によって先祖を供養する。食事に関する禁忌はなく、僧侶階級以外のカーストはない。彼らの大部分は商業に従事しているが、非常に教育熱心なことでも知られており、現在インドにおける鉄鋼・航空・自動車産業などはパールシー教徒によって創業されたものである。その代表がタータ財閥である。
3. イギリス支配下でのインド宗教改革

 1600年にイギリスの東インド会社が設立されると、次第にヨーロッパの思想が流れ込み、インドの伝統的な価値観が壊れていった。イギリスは、インド国内のフランス勢力を徐々に駆逐し、1849年にシク教徒を破って西インドを手に入れると、1857年にはインド大反乱とも呼ばれるセポイの反乱を鎮圧した。これは、最新式の銃に装填する薬莢の端に牛と豚の油を混ぜたものが使ってあったため、ヒンドゥー教とイスラーム教のセポイ(傭兵)が抵抗したことがきっかけと言われている。1862年にムガル帝国を滅ぼしたイギリスは、1877年にヴィクトリア女王がインド女帝を兼任するかたちで植民地化を完成し、以後1世紀半インドを支配することになる。植民地となったインドでは、ヨーロッパの文化よりインドが遅れているという意識が高まり、インド全体に西洋志向が強くなっていく。ヒンドゥー教も、キリスト教に刺激され新たな宗教運動が起こった。
 その先駆者がラーム・モーハン・ローイ(1772年-1833年)である。1828年に「ブラーフマ・サバー」(後のブラーフマ・サマージ)を設立すると、ウパニシャッドを基礎とする合理的な有神論を唱え、唯一なるブラフマンのみを崇拝すべきであると説いた。偶像崇拝やカースト制度を排斥し、寡婦再婚を認め、イギリス総督を動かして寡婦焚死を禁止させた。
 ヨーガ修行者であったダヤーナンダ・サラスヴァティー(1824年-1883年)が設立したのがアーリヤ・サマージである。当時の迷信やカースト制度をヒンドゥー教の堕落として批判し、偶像崇拝を排斥し、霊場巡礼や祖先崇拝も迷信であると非難した。ヴェーダをすべての根拠と考え、ウパニシャッド哲学も無視した。ヴェーダを俗語に翻訳し、ヴェーダを知ることは全アーリア人の義務であると提言した。不可触賤民という存在を認めず、当時行われていた不可触賤民に対する虐待と激しく戦い、幼児婚の排斥や婦人が布で顔を隠すプルダーの習慣も排斥し女性の地位向上にも努めた。また、学校や病院寡婦や孤児のための施設授産所などを建設し、社会的弱者の救済事業にも努めた。彼の運動は次第に宗教運動というよりは国粋的な社会運動となり、インド独立運動の素地となっていった。
 特異な存在としては「神智学協会」がある。ロシア人のブラヴァツキー夫人(1831年-1891年)とアメリカ人のオルコット大佐(1832年-1907年)によって1875年にインドで設立された。これにイギリス人のベサント夫人(1847年-1933年)が加わり、インドの独立運動を支持し、ヒンドゥー大学を設立するなどヒンドゥー教復興に尽力した。
 近代以降、世界的な影響力を持っている宗教はラーマクリシュナ・ミッションである。これはラーマクリシュナ(1834年-1886年)の教えを広げるために、その弟子であるヴィヴェーカーナンダ(1863年-1902年)が組織した教団である。その教えは次のようなものである。

① 宇宙の根本である神は万能であるから、有形・無形のいずれの相としても存在する。であるから、偶像崇拝を肯定することも否定することも本質的な問題ではない。
② 時代・地域・民族の違いに応じて、神は様々な教えを現している。すべての神は唯一の神の多様な具現の一つであり、すべての宗教は一つの真理の多彩な表現である。
③ 人は自分と縁のある宗教を通じてその神と一体になり得る。その時、自分の宗教だけが正しく、他の宗教は正しくないとする考え方は誤りである。自分の宗教以外についてはわからないというのが最も自然な態度である。
④ 自分の宗教を通して神と心を重ね合わせる方法はいろいろある。しかし、方法は手段であり、目的である神そのもとと混同してはならない。
⑤ どの宗教にも誤りや迷信があるかもしれないが、神を求める気持ちがあればそれは大きな問題ではない。

 そして、宗教の本質は人を愛することであり、人に奉仕することであって、癒しを求める者に教えを説くという事は、飢えた人にパンを与えないで石を与えるようなものであるとして、ひたすら愛を与えることを勧めている。人間に奉仕するためになされたいかなる行動も、神に対する崇拝の意義を有するという教えによって、この教団は貧困や飢餓の根絶と教育の普及を任務としており、現在も大学や高校、工業や農業学校、夜学、病院、薬局、青年館、学校寮、図書館、出版所などを経営している。また、地震や洪水などの自然災害や飢餓や疫病が起こった際には積極的な救済活動も行っている。社会奉仕そのものを教義とするこの教団の影響を受けて、プラナヴァーナンダ(1898年-1941年)によって「インド奉仕教団」も創始されている。「ラーマクリシュナ・ミッション」は現在世界中に百を超える拠点を持つ宗教団体となり、ラーマクリシュナはヴィシュヌ神の12番目の化身とされ神格化されている。岡倉天心や横山大観はインドを度々訪れヴィヴェーカーナンダと幾度も会談しており、日本の近代化に少なからず影響を与えている。
 インド独立の父といわれるのがモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー(1869年-1948年)である。インドの人々はインド史上最も偉大な聖者の一人であるとして「マハートマ」(偉大な魂を持つ者)と呼んでいる。非暴力主義で知られるガンディーはヒンドゥー教的な言葉を使っていたが、ヒンドゥー教が伝えてきた非倫理的なものは否定し続けた。このため、極右のヒンドゥー教徒によって暗殺されてしまう。敬虔なヒンドゥー教徒の商人の家に生まれた彼はヒンドゥー教が最も優れた宗教であるとしながらも、ジャイナ教徒の多い地域で育ったこともあり、その思想にはジャイナ教の影響がうかがえる。指導者となった後でも質素な家に住み、薄い衣一枚で過ごし、肉や酒は一切口にしなかった。19世紀のインドでは、全人口の0.5パーセントにも満たないジャイナ教徒がインドの民族資本の過半数を所有していた。彼の思想に共感したジャイナ教徒のダルミア財閥やビルラ財閥は常に彼のよき後援者であった。宗教による対立を嫌った彼は、イスラーム教や仏教にも敬意を払っていた。しかし、彼の努力は結ばれず、1947年にイギリスから独立した直後にイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の対立が表面化しパーキスターンがインドから分離してしまう。彼が暗殺されたのはその翌年1948年である。

4. 仏教の再興

 この様に激変する宗教界の中で、少数派となった仏教は勢力を失っていくことになる。わずかに残った仏教徒は、熱心な仏教国であった北東インドのベンガル地域にあったパーラ朝に逃れたが、イスラーム教国であるセーナ朝によって1162年に滅ぼされてしまう。1193年にナーガールジュナ(龍樹)が講義し、後に玄奘三蔵が学んだことでも知られるナーランダー寺院が破壊されると、1203年には100人を超える指導僧と1000人を超える学僧がいたこともあるインド最後の仏教寺院ヴィクラマシーラ寺院も破壊された。これによってインドから教団としての仏教は消え去った。ここで生まれたタントラ仏教(密教)は、チベットに逃れた僧侶によって、チベット仏教となる。セーナ朝に征服された後、多くの仏教徒はスードラ(奴隷)階級に落とされイスラームに改宗させられてしまった。
 しかし、再興のきっかけとなる出来事が、1873年にスリランカのパーナドゥラという小さな村で起こる。この年の8月26日から28日の3日間にわたって、仏教僧のグナーナンダ(1823年-1890年)がキリスト教の宣教師二人と公開討論を行った。この討論会を記録した英訳が、偶然アメリカ南北戦争北軍の英雄であるオルコット大佐の目に留まり、これに感動した大佐は仏教徒となる。スリランカに渡った彼は、1880年インドのマドラスに仏教霊智協会を設立して、失われた仏教の教えの火を再びインドに灯すことに献身した。廃仏毀釈が行われた明治時代に、東京帝国大学に印度哲学科を作り仏教復興のきっかけを作った原担山(1819年-1892年)は、オルコット大佐の書に感化され『大乗起信論』を講義している。スリランカの小さな村での討論会が、日本の仏教にも影響を及ぼしたのである。
 オルコット大佐の影響を受けたのが、仏教復興運動の指導者となるスリランカ人・ダルマパーラ(1864年-1933年)である。スリランカの熱心な仏教徒の家に生まれたが、当時スリランカでも仏教は衰退し、イギリス総督統治下でキリスト教が主流となっていた。彼もミッションで学んだが、ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐がスリランカを訪れた時に出会い、インドの神智学協会に入る。その後、仏教霊智協会に入り仏教に傾倒する。1889年オルコット大佐と共に日本を訪れ、日本の仏教を肌で感じることになる。インドに帰った彼は巡礼者として仏跡を訪れたが、その荒廃ぶりを見て、仏跡の修復とインドでの仏教復興のために1891年に大菩提会を設立する。インド各地に学校や職業訓練所を作るとともに、世界各地で仏教の布教活動に勤めた。岡倉天心とはともにインドを旅する仲で、何度も日本を訪れている。タゴールとは家族ぐるみの間柄で、多くの知識人との交流を持っていた。
 このダルマパーラに感化されたのが、ハワイ王朝の血を引くフォスター夫人(1844年-1930年)である。ハワイを訪れたダルマパーラと数分間だけ会話したフォスター夫人は、莫大な資金を大菩提会に提供し、これによってインドとスリランカに多くの寺院・僧院・学校・病院などが作られた。また、ホノルルにある西本願寺別院の土地もこの夫人からの寄進であるという。この頃、ハワイに入植した日本人移民は、キリスト教に改宗を迫られており、これに反発する日本人との軋轢が生じていたが、フォスター夫人はハワイの人々から尊敬されていたリリウオカラニ王妃と共に仏教を守ってくれたのである。現在もホノルルにあるフォスター植物園には、アショーカ王の娘サンガミッター尼がスリランカに贈ったとされる菩提樹の分枝が繁っている。
 インドにおける仏教終焉の地であるベンガル地域(現在のバングラデーシュとインド領西ベンガル州)では、仏教の比丘であるクリパーサーラ・マハースタヴラ(1865年-1926年)がベンガル仏教協会を設立している。19世紀にインド文化復興の動きが起こると、これに伴って仏教も復興したのである。仏教徒の数は少ないものの、釈迦に対する尊敬の念は広がっている。1917年にはコルカタ大学に仏教を研究するパーリ学科が設置されている。
 インド全体に仏教が広く認知されるようになったのは、アンベードカル博士(1891年-1956年)を中心としたネオ・ブディストの運動による。不可触民出身である彼は、アメリカやイギリスの大学で博士号や弁護士資格を取り帰国し不可触民の権利を守るために活動した。不可触民とは、皮革労働者、屠畜業者、街路清掃人、民俗芸能者、洗濯人など、、死や体からの分泌物に関わるものに触れる職業に就く者で不浄とされ、その穢れは人に伝染するとされていた。触れるだけではなく、見ることや、近づくことや、声を聞くことによってもその穢れはうつるとされていたため、ヒンドゥー寺院へ入ることや、他のカーストが使用する井戸や貯水池の使用も禁止されていたのである。ガンディーは不可触賤民を「ハリジャン」(ヴィシュヌの民)と名づけ救済に努めたが、カースト制度を理想的な分業体制であるとして擁護したため、アンベードカルとは対立することになる。
 1947年、アンベードカルは初代インド首相ネールのもと初代法務大臣に就任し、憲法制定会議委員長を兼任する。憲法案起草の中心人物となった彼は、憲法案に不可触民制廃止を盛り込むことに成功し、インド制憲議会は、「いかなる形における不可触民制も廃止し、不可触賤民への差別は罪とみなす」と宣言した。また、従来の不可触民を「指定カースト民」と呼称し、指定部族(先住民族)とともに、教育、公的雇用、議会議席数の三分野に一定の優先枠を与えた。こうして1950年に制定されたインド憲法の17条には「不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。不可触民制より生ずる無資格を強制する事は、法律により処罰される犯罪である」と記され、カースト差別は憲法上禁止されたが、制度が整っても不可触賤民たちが精紳的に解放されたわけではなかった。そこで彼は「合理的で、科学的で、平等に基づいているから、近代人のとりうる唯一の生き方である」と、50万人の不可触賤民と共に仏教徒になったのである。このネオ・ブディストの運動により、1971年には381万人にまで増えている。彼らは釈迦ではなくアンベードカル博士を崇拝していることからアンベードカル宗と呼ばれている。
 1956年から1957年にかけて、セイロン(現スリランカ)・インド・ビルマ(現ミャンマー)・タイ・ラオス・カンボジアなど南方アジア諸国で釈迦入滅2500年記念事業が行われた。インドでは様々な文化行事が行われ、多くの仏跡が政府によって整備された。積極的にこの事業を行ったネール首相は、文化会議の閉会式で次のように述べている。

 現代の混乱した世界を眺めていると、そこに何かしら精神的な要素が欠けていると思われる。私は決してインドが他の国々よりも精神的であるとか、よりよい国だとは思わない。しかしインドにはゴータマ・ブッダの精神がどこかに生きている。インドでは仏教は死滅したと普通によくいわれるが、仏教は必ずしもなくなったのではない。あらゆるインド思想の本質として、依然として存続している。
 ブッダのメッセージを知ろうとする希望は、この機会に集まったすべての人々がもっているであろうが、それこそ大切なものである。いまの世の中では、小にしては個人、大きくは国々や世界に悩みがあるが、しかしそれを正しく解決するためには、どうしてもブッダのメッセージによらなければならない。政治とか技術とかの世俗的な方面と宗教の方面とが今はばらばらになり離れているが、両者のあいだに或る種の結合を求めることが必要であろう。

 この会議でネール首相はインドの生んだ二大偉人は釈迦とガンディーであると述べている。この事業の一環としてインドで作られた釈迦の映画のラストに、突然ガンディーが出てきているが、これは両者を宗教を超えた存在として位置づけようとしていることを表している。これは単にネール首相一個人の感想ではなく、現在、多くのインド人が仏教を既成宗教としてではなく理想的な思想として、釈迦は仏教の開祖としてではなく人類の師としてとらえられている。
5. インドと日本の交流

 明治時代、日本の文化人はインドに対して強い関心を持っていた。岡倉天心はヴィヴェーカーナンダだけではなく、近代インドを代表する文人であり東洋人として初めてのノーベル賞受賞者でもあるタゴール(1861年-1941年)とも親交を持っていた。タゴールはウパニシャッドを、人生を肯定する哲学であるとして現代的に理解し「われわれはわれわれの真理感によって創造の法則を認識し、われわれの美感によって森羅万象の調和を認識する」と語った宗教詩人であり、西洋諸国による戦争や差別に対しては痛烈に批判もした。タゴールも日本に親近感を持っていたようで3回にわたり来日してる。晩年釈迦に傾倒し、このことがインド人に釈迦を再認識させるきっかけにもなった。
 1905年に日露戦争で日本が勝利するとインドで日本への関心が高まった。いまもインドでは日本人のことを「ジャパニ」と呼ぶが、これはインドの詩人マイティリ・シャラン・グプタがアジアの栄光を詠った詩の中で「日本(Japan)」のことを「勝利の掌(Jaya-pani)」と呼んだことに由来している。
 チャンドラ・ボース(1897年-1945年)は武力によるインド独立を訴えた指導者であり、今でもネタージー(指導者)という愛称で広くインド国民の支持を得ている。留学生として日本に住んでいたことがある彼は、日本軍との連携を唱えていた。大戦中、ドイツにいたが、ドイツの潜水艦で脱出するとインド洋で日本の潜水艦に乗り換えイギリス軍に見つかることなく日本まで来ている。その後、シンガポールでインド臨時政府を樹立したが、日本が降伏した直後、台北で飛行機事故により死亡している。遺骨は東京杉並区の蓮光寺に保管されているが、多くのインド人は今でも彼の死を信じてはいないという。
 現在、インドには1億5000万人の仏教徒がいると言われるが、その頂点に立っているのが日本人僧侶である佐々井秀嶺師である。数年前日本に一時帰国した際、メディアにも取り上げられたが、その経歴は「性欲が強すぎて童貞喪失11歳」「生死をさ迷いヘビの心臓を飲み続け復活」「色情因縁に苦しみ、自殺未遂3回」「倒れた先の寺で救われ僧となる」「タイの寺院で三角関係のもつれから女にピストルを突き付けられる」「龍樹菩薩のお告げを聞いて巨大仏教遺跡を発見」「毒を盛られて突き落とされるなど暗殺未遂3回」「8日間の断食・断水決行」「不法滞在20年で牢屋に。60万人が署名しインド国籍取得」「30人殺しの殺人犯を改心させ手下にする」「水爆実験に抗議し首相官邸に乗り込む」など、その破天荒ぶりはとどまることを知らない。現在、13億人のインド人口の2割いると言われる不可触民の中に入り、『あなたたちも同じ人間である、仏教はヒンドゥー教と違って皆、平等である』と訴え続けている。1億5000万人のトップに立ちながら、今も小さな寺の一角にある10畳ほどの宿坊に安物のパイプベッドと破れたソファがひとつ、ドアの取れかかった冷蔵庫、今にも止まりそうな古いクーラーでの生活を送り「あのお釈迦様だって裸足で説法して、最期はベッドの上ではなく木の下で亡くなったんだ。僧たるもの、女もいらぬ、金もいらぬ、家もいらぬ。俺だって最期はインドの大地に野垂れ死ぬ覚悟よ!」と言い放っている。その日常は、全国各地で開催される仏教の祭典や改宗式、地元の貧しいインド人の家から冠婚葬祭のお祈り、様々な悩みの相談に忙殺されている。相談の内容は、浮気から悪魔祓い、結婚相談、安産祈願、ただの偏頭痛まで範囲に境界が無い。貧しい人が多いので、対価はポテトチップス一袋の人もいれば、無料のこともあるという。激増する仏教徒に恐れをなすヒンドゥー教の過激派や佐々井氏の人気を妬む一部の仏教僧からの暗殺未遂も絶えないという。






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