|徳法寺仏教入門講座1 インド仏教史|お講の予定

インド仏教史16

仏教の変遷8 大乗仏教の思想的展開

- 2019年11月28日
1. 中観思想 - 空思想の展開 -

 「空」とは、あらゆる事物(一切諸法)は固定的な実体を有しないという大乗仏教の基本となる思想である。これを説く初期の「般若経典」は、経典の中で「空」を繰り返し強調してはいるものの、理論的な説明にまでは至っていない。この「空」を哲学的・理論的に基礎づけたのが「八宗の祖師」と仰がれているナーガールジュナ(龍樹、150年~250年頃)である。ナーガールジュナの名で伝えられている多くの論書の中でも代表的なものが「空」の理論を著した『中論』である。ここにある「中」とは、二つの対立した考え方があるとき、中間をとるということではなく、そのどちらの見解にもよらないという意味であり「中道」とも言われる。この『中論』をもとにしているのが大乗仏教の二大学派の一つである中観派である。日本には奈良時代に三論宗と成実宗として伝わったが(元興寺と大安寺を中心として学ばれた。いずれも南都七大寺の一つ。他の五か寺は東大寺・興福寺・西大寺・法隆寺・薬師寺)、平安時代に密教に吸収され現在は残っていない。
 この学派の主張は「ほんとうの意味で実在するものはなにも存在しない。あらゆるものは、見せかけだけの現象にすぎない。その真相についていえば空虚である。つまり、いかなるものもその本質を欠いているのである」というものである。「空」とは「無」ではなく、他の事物に条件づけられて起こっているということであり、是定と否定、有と無を超えた了解である。例えば「長い」という観念は「短い」という観念に「清らか」という観念は「不浄」という観念に依存して成立しているということであり、そのもの自体では成り立たないということである。このようにたがいに依存して成り立っているということを「縁起」という。「迷い」と「さとり」についても同様に了解されている。つまり、この二つも実体がなくたがいに依存しあっているものであるから「迷い」を抜け出して「さとり」に入るということはあり得ないことになる。現実の世界そのものが仏の本質であることに頷くことが「さとり」とされた。つまり、従来の仏教が現実を否定的にとらえる傾向が強かったのに対して、現実を肯定的に受け入れるという真逆の了解となっているのである。
 煩悩を捨て去るのではなく、この世界が無数の縁起によって成り立っているということを「観ずる」ことが「空」であり「仏にまみえる」ことであるというこの理論は、当時の仏教界に衝撃を与えた。この煩悩を捨てないという新しい仏教の思想は、大乗仏教の主流となるが、浄土思想、とりわけ親鸞の思想に大きな影響を与えている。 

2. 浄土思想

 「空」は、この世界は本来清浄な仏国土であるが、その様に感じることが出来ないのは心が清浄ではないからであると説いている。しかし、この教えが事実であるとしても、現実にこのような境地に至ることができない者にとってはただの理論にしか過ぎない。他民族の侵入や小国が林立する乱世が続いた当時のインドでは、多くの民衆は知的な理論より精神的な救いを求めていた。この思いを汲み取ったのが浄土思想である。
 大乗仏教では、人間としての釈迦から離れて、理想的な存在としての仏をイメージするという「観想念仏」という修行が行われたが、同時にその仏によって開かれた理想的な環境も「観想」するようになっていった。この環境を「浄土」(仏国土)という。様々な仏・菩薩やその浄土を説く多くの経典が編纂されたが、その中で後世に最も大きな影響を残したのが阿弥陀如来と、その浄土である極楽浄土である。
 この思想はインドではなく中央アジアを中心に発展していった。現在インドの遺跡から発掘された阿弥陀如来像のほとんどが、後代に起こった密教の「五智如来」(金剛界五仏は大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の五如来、胎蔵界五仏は大日・宝幢・開敷華王・阿弥陀・天鼓雷音の五如来)の一人としての阿弥陀如来である。浄土信仰としての阿弥陀如来像と思われるものは1977年にマトゥラーでクシャーナ朝時代の阿弥陀如来像の台座が確認されたただ一例しかない。これに対して、中央アジアでは多くの阿弥陀如来に関する論書や仏像が作られている。阿弥陀如来は『仏説般舟三昧経』や『法華経』『仏説出生菩提心経』『大乗離文字普光明蔵経』『大乗離文字普光明蔵経』など多くの経典に示されているが、特に浄土教で重要視されているのは『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の浄土三部経といわれる経典である。このうち『仏説無量寿経』と『仏説阿弥陀経』はインドで編纂された経典であることから、阿弥陀如来と極楽浄土がインドで生まれた思想であることは確かであるが、インドでは受け入れられなかった浄土思想がなぜ中央アジアで支持を得たのかは分かっていない。
 浄土思想は、中央アジアから中国に伝わると浄土教として広く各宗派の中に取り入れられ、さらに日本では宗派として確立することになる。

3. 唯識思想

 中観思想はすべてのものが「空」であると説いているが、現実には我々は存在していると感じている。これを説明するために成立した思想の一つが、大乗仏教二大学派の一つとされる瑜伽行唯識学派である。これは「空」であるものを存在しているかのように感じるのは、実体があると誤認識させている「識」のはたらきによるというものである。このように「識」によって心が錯覚しているだけで、実際には「空」であるということを「唯識無境」という。「識」は「アーラヤ識」(阿頼耶識)と「マナス識」(末那識)と「六識」の八つに分類される。
 「アーラヤ」とは「蔵」という意味であり「アーラヤ識」とは個人を超えた過去のすべての経験(業)が蓄えられている「識」であるとされる。「空」であるものを実体であるかのように認識するのは、すべての経験がこの「アーラヤ識」に照らし合わせて認識されることが原因であることから「種子」ともいう。ただ、この「識」自体には善悪はなく、ただ単に記憶に照らし合わせて認識するだけであり「アーラヤ識」自体も「空」である。この「識」は個人的な意識とは異なり、睡眠や肉体の死滅によって断絶したり影響を受けたりすることはなく、迷いから逃れるためにはアルハット(阿羅漢)の境地に至って「アーラヤ識」を断じる以外に方法はないとしている。
 「マナス」とは「思量」のはたらきを意味する。「マナス識」は「アーラヤ識」による認識に「それはわれである、わがものである」という「思量」を加える「識」である。この「識」は次の4つの執著を伴っている。

① 我見 アーラヤ識を我であると思っていること。
② 我痴 我に関して無知であること。
③ 我慢 我があると思っているために、自分に関する慢心、驕りが起こること。
④ 我愛 我や我の所有物であると考えているものに対する愛執を持つこと。

 この様に「マナス識」は我執を起こすことから「汚されているマナス」(染汚意)ともいわれる。
 「六識」とは眼・耳・鼻・舌・身(五官)による識別作用である「眼識」・「耳識」・「鼻識」・「舌識」・「身識」の五つに、意という考えるはたらきによる「意識」を加えたものである。これらの「六識」は、それぞれ色・声・香・味・触(触ることが出来るもの)・法(考えられる対象)を認識する。この八つの「識」を離れ、あらゆるものが「空」であると実感できた境地を「円成実性」という。
 インドでヒンドゥー教が主流となっていた頃に起こった思想であることから、唯識思想は仏教ではないという見解もある。ただし、あくまでも「空」を基本にしていることから大乗仏教の発展形の一つであることは間違いない。最初に唯識思想を説いた僧はマイトレーヤ(弥勒)とされている。マイトレーヤは大乗仏教で仏に一番近い菩薩とされる弥勒菩薩と同一視されることもあるが、マイトレーヤによって書かれたとされる論書が多く残っていることから、実在の人物であったと考えられる。これを継承したのが西北インドにあるペシャワールの僧であったアサンガ(無着)とその弟ヴァスバンドゥ(世親、天親)である。ヴァスバンドゥは「説一切有部」の論とされる『俱舎論』を著した後、兄アサンガの勧めで大乗仏教の僧となり、『唯識二十論』『唯識三十頌』『大乗成業論』など唯識思想に関する多くの論を残している。ヴァスバンドゥによって完成された唯識思想は、さらにナーランダ寺院の学頭であったダルマパーラ(護法、6世紀)によりさらに発展することになる。このダルマパーラから教えを受けたのが玄奘三蔵である。5年間ナーランダ寺院で学んだ玄奘は、長安に戻ると『成唯識論』を著している。これを根本聖典としているのが法相宗である。
 日本に伝わった法相宗は、現在も奈良の興福寺、薬師寺、法隆寺、京都の清水寺に受け継がれている。法相宗以外の宗派でも、唯識は仏教の基礎知識として広く学ばれていた。世界は実体のない幻でしかないという唯識の世界観は『平家物語』にある「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。」という一節や、豊臣秀吉の辞世の句である「露とおき露ときえぬる我が身かな 浪花のことは夢のまた夢」にも表れている。これらの表現が、一般の多くの人々に違和感なく受け入れていることからも、唯識思想が広く日本人の世界観に影響を与えていたことがわかる。
 ヴァスバンドゥには唯識思想に関する著が多いが『仏性論』のような如来蔵思想の論や、浄土教に大きな影響を与えた『浄土論』なども著している。浄土真宗では『浄土論』を浄土三部経と同列に根本経典として扱い「三経一論」としている。

4. 禅の源流

 禅はサンスクリット語のディヤーナ(瞑想)の音写である禅那の略である。禅宗では、南インド出身で中国に渡ったとされる達磨僧(ボーディダルマ)を祖としているが、現在は実在の人物ではないとされている。禅の源流であるヨーガは仏教以前からおこなわれており、最初期仏教の頃から取り入れられていた。
 ヨーガの源流はBC3000年から2000年に栄えたインダス文明文明にまで遡るとされている。今では日本でもヨーガは広く知られているが、ヨーガとよばれるものには、古来いくつかの種類がある。

① ラージャ・ヨーガ(王ヨーガ、心理的)
 バラモンのヨーガ学派の根本聖典である『ヨーガ・スートラ』にもとづくもので「古典ヨーガ」とも呼ばれる。制戒(不傷害・真実を語ること・不盗・不淫・無所有)、内制(清浄・満足・苦行・読誦・主宰神を念じること)、坐法(蓮華坐・吉祥坐・英雄坐・卍坐・杖坐・支えを用いる坐・寝台坐・鷺坐・駱駝坐・平らな姿勢の坐)、呼吸の制御(吸気と呼気との断絶)、感官の制御(もろもろの感官を自己の対象から離す)、集中(一点に心を安住させる)、禅定(思念されるべきものを対象とした観念が、その一点において連続すること)、精神統一の八つによって構成される。このヨーガのいずれかの局面または特徴から様々なヨーガが発展していった。
② ジニャーナ・ヨーガ(知慧のヨーガ、哲学的)
 超越的な真理の認識を重んずるヨーガ。バラモンのヴェーダーンタ学派、特にシャンカラに由来する不二一元論派で重視されている。
③ カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ、倫理的)
 インド独立運動の主導者たちが強調したヨーガで、どのような行為を行うかを重視する。ただし、シャンカラはこれを一段低いヨーガとみなしていた。
④ バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ、宗教的)
 最高の神に対する信仰が熱烈な愛情をもって表現される場合のヨーガ。ヒンドゥー教諸派で強調されている。
⑤ ハタ・ヨーガ(生理的)
 ヒンドゥー教の中でもシャクティ(性的なる女神)信仰から生まれた身体的・生理的なヨーガの行法。健康や美容を保つために効果的であると考えられたことから、現在、日本を含め世界中に広がり、様々なバリエーションが生まれているヨーガである。
⑥ マントラ・ヨーガ(呪法的)
 神聖な呪句、とくに呪術的効果があると考えられる神聖な音節(種子(しゅじ))を唱えることによって解脱が得られるというヨーガ。マントラ(真言)としてはブラフマンを表す「オーム」が有名であるが、心の平安を意味する「シャンティ」もよく用いられる。真言密教と密接な関係がある。
⑦ ラヤ・ヨーガ(クンダリニー・ヨーガ、心霊的)
 脊椎の基底ちかくにあるという生命力の根源(クンダリーニ)との合一を目指すヨーガ。 
⑧ ヴィヤーヤーマ・ヨーガ(体育的)
 新しいヨーガの一派で、体操的なヨーガ。
⑨ 総合ヨーガ
 近代西洋思想の一つである進歩の概念が取り入れられた新しいヨーガ。修養によって人格的な完成を目指す。

 仏教では世界創造主や最高神などを認めていないことから、バラモンやヒンドゥー教のようにそれらを念じ合一することを目的とすることはない。坐り方も結跏趺坐また半跏趺坐で「坐禅は安楽の法門なり」といわれるように身体に負担をかけるようなものは行わない。また、行を通して神秘的なものを体験することを邪道と考え、日常生活の中に安寧を求める。「禅と言うは、本性を見るを禅となす」として、ただ坐っていることだけが禅ではなく、行住坐臥、常に禅を実践するという「平常心是道」が禅であると説く。経典は「般若経典」を用いるが、思想的には唯識思想と如来蔵思想の影響を受けている。ただこれらの考え方は中国で成立したものであり、インドで禅が生まれることはなかった。

5. 仏性と如来蔵思想と本覚思想

大乗仏教は「空」で「法無我」と「人無我」を説き、部派仏教で肯定的に受け止められていた「アートマン」(我)的なものをあらためて否定したが、唯識思想になると再び「アーラヤ識」という輪廻の主体を考えるようになった。輪廻の主体である以上「アートマン」と「アーラヤ識」にどのような違いがあるのかという問題が議論されるようになる。特にヴェーダーンタ学派の「アートマン」は「アーラヤ識」と極めて近いものであることを、仏教とヴェーダーンタ学派双方が認めている。唯識思想が「アートマン」的なものを肯定的に捉えたことから、如来の常住不滅を強調するという大乗仏教の思想が「無我」を主張しながらも「我」を超えた「大我」を説くという考え方を生むことになる。この「大我」は「仏性」あるいは「ニルヴァーナ」と同一のもので、衆生の中に「如来蔵」(真我)として存在しているという。 これを如来蔵思想という。この思想は2~3世紀頃にはインドで成立し『如来蔵経』『大般涅槃経』『涅槃経』『勝鬘経』など多くの経典が編纂された。『阿弥陀経』『般若経(初期)』『法華経』などを初期大乗仏教と呼ぶのに対して、これらの経典は中期大乗仏教に分類される。そこで説かれる「大我」とは、すべての衆生の個体を超越した普遍的・永遠的な「我」であり、自分の自己は一切の生きものの自己であるという。
南本『涅槃経』ではこの「大我」は八種の自在力を具えていると説いている。

① 一身を示して多くの身と作す。
② 一つの塵の身を示して三千大千世界に満つ。
③ 三千大千世界を満たす身を以って軽く拳りて空を飛ぶ。
④ 無量の形類をして、各々心あらしむ。如来の身は常に一つの国土に住して、しかも他の国土を一切悉見せしむ。
⑤ 諸根をして自在ならしむ。
⑥ 一切の法を得るも、如来の心はしかも得の相なし。
⑦ 一偈の義を演説して無量劫を経るも義また尽きず。
⑧ 如来は一切諸処に遍満して、なお虚空の如し。

 これはヴェーダーンタ学派の所説をそのまま取り入れたものである。アサンガが『摂大乗論』でこの説を外道として否定していたが、仏教の一部となり密教として日本仏教に伝えられている。
 「仏性」という言葉が「仏となりうる可能性」という意味で使われ始めたのは大乗仏教になってからである。中観思想では煩悩も如来も「空」であると説き、そのことを観ずることが仏を見るということであるから、すべての衆生がその可能性を持っているとして「仏性」を説いたのである。「仏性」を特に重要なものとして論じたのは『仏性論』を著したヴァスバンドゥである。これは、すべての衆生が「仏性」を持っているという「悉有仏性」を認めない者を論破するための論書である。経典では『大般涅槃経』が「一切衆生悉有仏性」を強調している。
中国や日本では、インドで衆生に含まれていない「草木」にまで「仏性」を認め、さらに天台宗では「草木国土悉有仏性」と「草木」だけではなく、山や川のような「国土」までも本来は仏であるという「本覚思想」を説くようになる。これは「如来蔵」思想の発展形であるともいえるが、仏教の思想と異なっているともされている。

6. 密教

 部派仏教の時代には、呪句や呪術を僧侶が行うことを禁じていたが、世間一般で行われていた「治歯呪」や「治毒呪」「防蛇呪」といった護身のための呪句を唱えることは許容されていた。また、呪句ではないが、森で修行をする時に木霊などが邪魔をしないように「慈経」を読誦することや『アングリマーラ経』を読誦することで安産を願うなどという習慣もあった。こうした祝福や護身のために経典を読誦することを「パリッタ」(護経、護呪)といい、現在でもスリランカ系仏教で行われている。
 大乗仏教の時代になると、一部の経典はバラモン教で行われていた現世利益を叶えるための呪句を取り入れるようになる。禅宗でも様々な呪句が唱えられているが、中でも最も長い陀羅尼として有名な「楞厳呪」は大乗仏典の『大仏頂首楞厳経』に説かれる陀羅尼であり、中国禅では出家僧の「女人避けのお守り」ともされている。 これを初期密教というが経典はまだ編纂されていない。
 7世紀以降ヒンドゥー教が力を持ってくると、それに対抗するために釈迦が説法する形式の従来の大乗経典とは異なり、大日如来(大毘盧遮那仏)が説法する『大日経』、『初会金剛頂経』などの経典が編纂されるようになる。これを「密教経典」といい後期大乗仏教に分類される。これらの経典の注釈書も作られると、多くの仏・菩薩などが生み出され、その世界観を示す曼荼羅が作られるようになる。この中で釈迦は400余りの仏・菩薩の中の一人に過ぎなくなっている。優勢であるヒンドゥー教に対応しようとした結果、かえって教義は複雑となりインドの大衆には受け入れられなかった。そこで、ヒンドゥー教の神々に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王やガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊などの明王が登場することになる。これを中期密教という。
 更に8世紀になると、ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す密教が登場する。これを後期密教という。密教における不二智を象徴的に表す男女が交わる姿をした「歓喜仏」も多数登場した。修行者である瑜伽(ゆが)行者がこれら諸尊の交合の姿を実際の性行為として実行することもあったとされる。後にチベット仏教でジョルと呼ばれて非難されることになるこれら性的実践は、主に在家の密教行者によって行われていたと考えられているが、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあった。
 イスラム勢力の侵攻によってインド仏教の崩壊が始まると、仏教復興までの期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土シャンバラという概念が生まれ、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)が侵略者(イスラム教徒)への反撃を行い悪の王とその支持者を破壊し、インド仏教を復興させるという予言が密教の教えとして説かれるようになる。
 日本に密教を伝えたのは最澄と空海である。現世利益を説く密教は公家から多くの支持を集めたが、最澄は密教よりも当時の中国で最も権威があった天台宗を主として学んできたため、密教では空海に後れを取ってしまった。そこで最澄の弟子である円行、円仁(慈覚大師)、恵運、円珍(智証大師)、宗叡が唐に渡り、あらためて密教を学ぶことになる。これにより日本では天台密教と真言密教という二つの密教が生まれることになる。ただし、日本に伝わったのは中期密教であり、後期密教は真言立川流など一部にしか伝わらなかった。これは儒教の影響が強かった唐では、後期密教は性道徳に反するとして受け入れられなかったためであると考えられている。このため、同じ密教でも後期密教が発展したチベット密教と日本の密教ではかなり違うものとなっている。






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