|『正信偈』学習会|仏教入門講座
天親菩薩論註解 報土因果顯誓願  平成31年1月15日(火)
- 2019年6月29日
 『正信偈』の中で天親菩薩を賛嘆している段に「天親菩薩造論説」という、よく似た一節がありました。天親菩薩が『浄土論』を説かれたことを讃嘆していたのですが、今回は曇鸞大士がその『浄土論』を註解なされたことを述べています。このように、あえて同じような言葉を繰り返したのは、曇鸞大士の注釈がなければ天親菩薩の『浄土論』に書かれている真意を読み取ることができないということを強調するためです。その真意の内容が「報土因果顯誓願」です。
 「報土」とは「浄土」のことで、大乗仏教において諸仏や諸菩薩の願いとして説かれる教えが成就した世界を意味します。それは「清らかな世界」(浄土)であり「教えが報われた世界」(報土)です。このため、仏や菩薩ごとに異なる浄土が説かれています。阿弥陀如来の「西方極楽浄土」、阿閦如来の「東方妙喜世界」、薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」、毘盧遮那仏の「蓮華蔵世界」、大日如来の「密厳浄土」、釈迦如来の「霊山浄土」、弥勒菩薩の「兜率天」、観世音菩薩の「補陀落浄土」などです。これら多くの「浄土」の中で、浄土教でいう「浄土」とは阿弥陀如来の「極楽浄土」になります。親鸞聖人は、この「極楽浄土」を「報土」と「化土」に分けています。「報土」は「真実報土」「真仏土」、「化土」は「方便化土」「方便化身土」ともいいます。「報土」は「教えが成就した真実の浄土」であり「化土」は「真実に至るための仮の浄土」ということですが、いずれも「浄土」であることには変わりません。逆に「浄土」ではない世界を「穢土」もしくは「娑婆」といいます。
 「化土」は「疑城胎宮」や「辺地懈慢」といわれます。「疑城胎宮」については『仏説無量寿経』(巻下)に次のように説かれています。

 爾時に、慈氏菩薩、仏に白して言さく、世尊、何の因何の縁ありてか、彼の国の人民、胎生化生なると。仏、慈氏に告げたまわく、若し衆生ありて、疑惑の心を以て、諸の功徳を修して、彼の国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然も猶お罪福を信じて、善本を修習して、其の国に生ぜんと願ぜん。此の諸の衆生、彼の宮殿に生じて、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩声聞聖衆を見ず。是の故に彼の国土には之を胎生と謂う。(略)仏、弥勒に告げたまわく、譬えば転輪聖王の如し。別に七宝の牢獄あらん。種々に荘厳し、牀帳を張設し、諸の絵旛を懸けたらん。若し諸の小王子、罪を王に得たらん。輒ち彼の獄の中に内れて、繫ぐに金鎖を以てせん。(略)仏、弥勒に告げたまわく、此の諸の衆生。亦復是の如し。仏智を疑惑するを以ての故に、彼の胎宮に生まれん。(略)若し此の衆生、其の本の罪を識りて、深く自ら悔責して、彼の処を離るゝことを求めん。(略)弥勒、当に知るべし。其れ菩薩ありて、疑惑を生ぜば、大利を失すとす。

 それ胎宮の者は処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのその中にしてもろもろの快楽を受くること、忉利天上のごとし。

 また、親鸞聖人の和讃には次のようにあります。

 罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがいて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

 「疑城」とあるように「疑う」ことが要となります。何を「疑う」のかといえば「仏智」であり、信じてるのが「罪福」です。「罪福」とは「五逆十悪」などの罪を造れば悪い報いがあり「五戒十善」などの福徳を行えば良い報いがあるという、仏教で一般的に説かれている教えのことです。つまり「罪福」を信じるということ自体が悪いことではありません。ただし、浄土教では自分の行った「罪福」に関わらず「仏智の不思議」によって救われると説いていますから「罪福」が救いにつながることを信じることが、そのまま「仏智」を疑うことになるのです。このように「仏智」を信ずることがでず「罪福」によって「浄土」を願う者が「化土」である「胎宮」に生まれるというのです。この「胎宮」とは「牀帳」(ねや)や「諸の絵旛」などが「種々に荘厳」され「もろもろの快楽を受」けることができ「あるいは百由旬、あるいは五百由旬」(1由旬は10キロから15キロメートルほど)もの広大な広さを誇っている世界として説かれています。このように王宮の様な快適さを持ちながらも、仏法僧の「三宝」に会うことができない世界が「疑城胎宮」です。
 努力して善行をすれば、たとえ望まなくとも社会から尊敬され大切にされてしまいます。そうすると、努力をしていないように見える人、善行をしていないようにみえる人を、自分より劣った人として見てしまうことになります。そして、今の尊敬されるべき自分を守り、さらに尊敬を集めるために、今以上の努力を自分自身に課すようになります。このような人は、社会的には誉められるべき人であり、何の問題もありません。ただし、仏教は人を見下げるための教えではないのです。尊敬されるための教えではなく、どうすればすべての命を尊敬できるかということを問題としている教えなのです。ですから社会から尊敬されても、仏教からは離れて行ってしまうことになります。これが「三宝」に会えないということです。このような人は、社会的に居心地の良い環境に恵まれますから「宮殿」や「胎宮」に例えられますが、仏教が説く「安楽」「極楽」ではありません。周りを見下している限り他人と心が通じることはありませんし、常に自分を良き者として偽り続けなければならないからです。これはいつ失われるかもしれない幸せでしかありません。本来、悪意があるわけではありません。それどころか良かれと思って努力するのですが、本当の浄土とは違う世界に至るのです。この誤りには、だれもが陥ります。しかし、この誤りに陥ることで初めて本当に求めるべきものに気が付くのです。ですから「仮の浄土」というのです。
 「辺地懈慢」について、親鸞聖人は和讃で次のように述べておられます。

 不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり
 仏智の不思議をうたがいて 自力の称名このむゆえ 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし
 仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり 疑惑のつみのふかきゆえ 年歳劫数をふるととく

 「仏智」を疑い「罪福」を信じるということは共通しています。「辺地」は「浄土の辺」です。「懈慢」とは怠けるということです。「善本をたの」むとは「自力の称名」とうことで「善本」としての念仏を申すことです。つまり「浄土」に生まれるための手段としての念仏です。親鸞聖人の念仏とは「智慧の念仏」ともおっしゃるように「念仏の教え」であり「善行としての念仏」ではありません。「念仏という行の功徳を信じる」のではなく「念仏として説かれている教え」を信じるのです。これを間違えると「念仏さえ口にしていれば、他に何もしなくても浄土に生まれることができる」と勘違いをしてしまいます。これを「懈慢」といったのです。これも間違えやすい理解ですが、このような念仏では何も得ることがありませんから「仏恩報ずるこころ」も湧くはずがありません。ですから、こちらの場合の「仏智を疑う」ということは、信じきれないということではなく、都合よく信じているということです。それでも「浄土の辺」であるということは、念仏だけ申して何の不満を抱くことなく自分の身に起こるすべてのことを引き受けて生きていくことができれば、それは安らぎを得ていることになるからです。しかし、実際にこのように生きることはあまりにも難しいことなのです。このことが「煩悩成就」という自身を教えてくれることになります。この自身に対する目覚めが、教えを伴った「念仏」となることから「仮の浄土」とされるのです。
 「因果」とは「原因と結果」ということです。ここは「報土」の「因果」です。「顯」は顕微鏡の「顯」ですが、目に見えないようなものが明らかになるということです。「誓願」は「阿弥陀仏の本願」の事です。曇鸞大士が、天親菩薩の『浄土論』を通して「報土の因果が本願に顕れていることを示した」という一文です。この本願が説かれているのが『仏説無量寿経』です。この経典には、すべての衆生を救おうという「因」としての「本願」と、その本願が成就してすべての衆生が救われたという「果」の両方が説かれています。これをこのまま読むと、すべての衆生がすでに救われていることになります。しかし実際には救われてなどいません。これを、救われているのにその事実に気が付いていないだけであるという解釈もあります。ですから実感はしていなくとも感謝しなさいということになります。しかし、これはとても「浄土」といえるようなものではありません。ただの気の持ちようです。曽我量深という方がすべての人の中にある「仏心」こそが「法蔵菩薩」であるとおっしゃいました。「法蔵菩薩」とは「阿弥陀如来」の修行中の名前です。煩悩成就した私の心には、浄土を願う心など生まれようがありません。その私が浄土を願うということ自体が「法蔵菩薩」の願いです。これが「因」となって浄土を願いながら生きることでできたという「果」も得ることができるのです。つまり、浄土に生まれる因だけではなく、浄土に生まれた後の果も本願が顕れたものであるということです。このことを曇鸞大士は『浄土論註』に次のように説いています。

 もし人ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に意「三界に生まれて衆生を教化せん」と願じて、浄土の命を捨てて願に随いて生を得て、三界雑生の火の中に生まれるといえども、無上菩薩の種子畢竟じて朽ちず。

 阿弥陀如来とは外にいる神のような存在ではなく、すべての衆生の中にある「仏心」のことです。私の中に「悪い心」と「良い心」があるのではなく「私の心」と「阿弥陀如来」があるのです。「私の心」は消えることはありませんが「阿弥陀如来」すなわち「他力」をたのむことで、穢土にありながら浄土を生きることができるのです。






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