|『正信偈』学習会|仏教入門講座
本師曇鸞梁天子 常向鸞處菩薩禮 平成30年10月16日(火)
- 2019年2月12日
 親鸞聖人が『正信偈』で名前をあげている七人の高僧の中で「本師」と呼んでいるのは、直接の師である源空聖人以外では、この曇鸞大師だけです。親鸞という名乗りも、天親菩薩と曇鸞大師の名前からいただいたものですから、いかに親鸞聖人にとって曇鸞大師という方が大切な方であるのかということを窺い知ることができます。
 「梁天子」の「梁」は北魏ともいわれる中国にあった国で、ここにある「天子」は孝静帝(または武帝。534-550)のことです。曇鸞大師と孝静帝にまつわる逸話は、和讃に次のように取り上げれています。

 世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある
 鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず
 一切道俗もろともに 帰すべきところぞさらになき 安楽勧帰のこころざし 鸞師ひとりさだめたり

 ここで孝静帝は曇鸞大師に「あらゆる方角に諸仏がおられるのに、なぜ西におられる阿弥陀如来だけを礼拝するのか」と問うています。この問いに対して曇鸞大師は「智慧浅く菩薩の位に着くこともできない自分をはじめ、一切の衆生が救われるためには、阿弥陀如来に帰依する以外ないのである」と答えています。ここで曇鸞大師は自分だけではなく一切衆生が救われる道を孝静帝に示しているのです。
 今回の部分では、親鸞聖人は曇鸞大師の教えや行いには触れていません。ただ中国の皇帝が曇鸞大師を常に菩薩として崇めていたというだけです。とはいえ、曇鸞大師という方がどれだけ立派な方であったかということを言っているわけでもありません。自らは菩薩に程遠い存在でしかないといっている曇鸞大師に対して、一切衆生が救われる道を示しているその姿こそが菩薩であるとして手を合わせていた皇帝がいたということです。
 親鸞聖人が曇鸞大師を讃嘆する一段の最初にこのことを置いているのは、親鸞聖人のもう一人の「本師」である源空聖人が、日本の皇室によって流罪に処せられているということがあるからでしょう。親鸞聖人にとって源空聖人は、曇鸞大師同様、一切の衆生を救うために、当時人間扱いされていなかった人々の中に身を置いて念仏の教えを説いていらっしゃった菩薩そのものです。曇鸞大師が皇帝から菩薩として扱われていたのに対して、源空聖人が還俗させられ流罪になってしまったことに対する親鸞聖人の思いの深さがこの段にあらわれています。
 一切衆生を救うということを口にするのは簡単ですが、実現は不可能にしか思えません。仏教は釈迦の頃から生老病死を問題にした教えでした。このいかなる衆生も避けることができない現実的な問題から目をそらしていたのでは、心からの幸福など得ることはできないというのが仏教です。生老病死を当たり前のこととして受け入れることができれば、この不安から逃れることができるのですが、そのようなことができる人は極めて稀です。ほとんどの人は生老病死という現実を受け入れることなどできません。つまり救われないということです。それでも当時の仏教はこれを克服するために精神や肉体を鍛錬することを求めていました。その様な中で曇鸞大師や源空聖人は、どれだけ努力してもこのような現実を受け入れることなど自分には無理であるといった方々なのです。その様な自分でも成就することができる教えとして浄土教を開かれたのが曇鸞大師です。これはすべての衆生を救う教えもであったので、皇帝は曇鸞大師を菩薩として仰いだのです。その様な曇鸞大師の姿が、親鸞聖人には師である源空聖人と重なって見えたのです。源空聖人のような方を大切にできるような社会を、親鸞聖人は望んでいたのでしょう。






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