|『正信偈』学習会|仏教入門講座
廣由本願力廻向 為度群生彰一心 平成30年5月15日(火)
- 2018年6月27日
 初期仏教が苦からの解放を目的としていたに対して、大乗仏教は、釈迦が教えを説いたというその事実に重点を置き、いかにして多くの衆生を救うかが重要視されます。そこで大乗仏教では、釈迦と同じ悟りを求める修行者が「阿羅漢」と呼ばれていたのに対し、釈迦のように衆生を救済することを目的とした修行者を「菩薩」と呼び区別するようになります。この菩薩の歩みを五十二段階(五十二位)に分けるのですが、その内の下位から数えて第三十一番目から第四十番目の段階を十廻向と言います。「廻向」とは、自分の悟りの内容を衆生に振り向けるという利他の行です。それまでの仏教は、自分のものを他人に差し出す「布施」を強調していましたが、これは執着から離れることを主な目的としていますから、同じ利他行でも衆生を救うことを目的とした「廻向」とは発想の基本が違います。
 天親は『浄土論』で念仏の歩みを「五念門」として表しています。これは、仏を礼拝し(礼拝門)、仏を讃嘆し(讃嘆門)、仏に往生を願い(作願門)、仏とその浄土を観察し(観察門)、念仏を衆生に広める(回向門)というもので、最初の四門は自利行、最後の廻向門は利他行になります。ところが親鸞聖人は、この五念門すべてを、仏が衆生に廻向して下さる「還相廻向の益」として受け取ります。これは『入出二門偈』に「願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふべし。衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、いままさに仏力を談ぜんとす」と述べられているように、衆生には利他行はできないという確信からです。ですから『浄土論』も「云何が廻向したまえる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、廻向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」と読み替えておられます。大乗仏教の眼目ともいえる「廻向」ですが、親鸞聖人にとっては、凡夫が行えるような行ではないということです。凡夫が「廻向」するのではなく、仏が衆生に「廻向」して下さっているというのが親鸞聖人の仏教です。

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の廻向心なし、清浄の廻向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、廻向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に廻施したまえり。欲生はすなわちこれ廻向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。(『教行信証』「信巻」)

ここで問題となるのは、仏からの「廻向」とは何であるのかということです。これを『正信偈』では「本願力」といっていますが、まず「本願」とは何かが問題になります。初期仏教の頃から「誓願」はありましたが、これは自分自身に対する誓いでした。大乗仏教は「仏とはなにか」という問いから始まりますが、ここから「仏は何を願っているのであろうか」という視点が生まれ、これが「本願」となります。修行中の菩薩が「本願」を立て、その願いが成就することで「仏」となります。浄土経典の場合、法蔵菩薩が「本願」を立て、成就して阿弥陀如来になります。ところが親鸞聖人は「弥陀の本願」とおっしゃります。阿弥陀仏とは、どのような境遇にある人も、どのような人生を歩んだ人も、すべて漏れることなく救おうという願いそのものです。この願いが、実際のはたらきとして、すべての衆生に届けられているということが「廣く本願力が廻向」されている、ということです。すべての衆生は、生まれながらにして、何の努力をしなくても、すべての衆生を笑顔にしたいという願いが廻向されているのです。法蔵菩薩として語られている「本願」が、既に自分の中に「本願」として成就しているので「弥陀の本願」となります。この「本願」自体が如来です。これは「仏心」ともいいます。私が優しいのではなく「仏心」が優しいのです。私という思い自体が煩悩です。これは私さえ良ければ良いという思いです。煩悩のままに生きていくと「本願」とは逆の人生を生きることになります。この「本願力廻向」というのは、仏教が長い時間をかけて見出だした宝なのです。 
 次が「為度群生彰一心」です。「群生」とは群れを成して生きているものという意味で衆生と同じ意味になります。「為度」の「度」は「渡」と同じ意味で、悟りの世界に渡すということですから、助けるという意味になります。ですから「為度群生」とは「衆生を助けるために」ということです。そのために「一心を彰す」ということになります。この「一心」は次の天親の言葉によります。

世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)(『浄土論』)

この「一心」を親鸞聖人は次のように読んでいます。

一心というは、教主世尊の御ことのりをふたごころなくうたがいなしとなり。すなわちこれまことの信心なり(『尊号真像銘文』)
 
親鸞聖人はこの「一心」を「一心の華文」と呼んでいますが、それほどにこの言葉を大切になさっているということです。これは、阿弥陀仏以外の仏を信じないという意味ではなく、疑わないということです。何を疑わないのかといえば、自分のところに届いている「本願」を疑わないということです。私さえ良ければ、という煩悩を信じるのではなく「本願」を私の心に重ねて一つにするということです。これを親鸞聖人は「本願力に乗託する」ともおっしゃっています。ただ単に仏を信じるというのではなく「本願」をもって、自分の生き様にするということによって、凡夫のままで仏道を歩むことができるのです。






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