|『正信偈』学習会|仏教入門講座
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来號 應報大悲弘誓恩 平成30年2月20日(火)
- 2018年4月23日
 念仏と言っても様々な念仏があります。『仏説観無量寿経』に説かれている「観想念仏」は心に仏をイメージする念仏ですし、浄土教で説かれる「称名念仏」は「南無阿弥陀仏」と口にする念仏です。では親鸞聖人の念仏はと言えば、この「憶念弥陀仏本願」になります。極楽浄土や阿弥陀仏などを実体的に心の中にイメージするのではなく、一切の衆生を一人も漏らすことなく必ず救い取るという阿弥陀仏の本願を憶念するということです。
 念仏をすれば救われる、といわれることがありますが、親鸞聖人は『一念多念文意』の中で称名念仏のことを「もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり」とおっしゃっています。つまり、親鸞聖人にとっての称名念仏とは「南無阿弥陀仏」という声を聞いて、そこに込められた想いに頷くと同時に、疑いようもない自分に気づかされる、ということです。口から出る「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏の本願を憶念した私に沸き起こる歓喜の言葉です。
 親鸞聖人にとっての「南無阿弥陀仏」とは、仏教の歴史そのものです。お釈迦様の頃には阿弥陀仏と言う言葉はありませんでした。お釈迦様が亡くなって五百年ほどの間は、お釈迦様の如くになる事が仏教でした。これは容易なことではありませんから、真剣に修行に励み釈迦の如くにならんとする僧侶と、その僧侶に布施はするものの、救いとは無縁な一般の方とに分かれてしまいました。この様な仏教の在り方に疑問を懐き、すべての人を救うための教えとして始まったのが大乗仏教です。しかし、どのようにすれば、全く修行をしていない人々を救うことが出来るのかという問題は簡単には解けませんでした。阿弥陀仏という如来は、初期の大乗仏教の頃から説かれています。しかし、それがすべての人を救う教えとなるまでには何百年という時間が必要でした。当初、修行をしていない善人を死後に迎え取り、仏になるまで修行ができる世界として、阿弥陀仏の国である極楽浄土が説かれます。これが、善人以外も救い取ろうという「本願」として説かれるようになり、次第にこの「本願」そのものが如来として展開していきます。私が幸せになるという願いではなく、すべての人が幸せになるという願いそのものです。この願いを憶念するのです。このことを説いてくださったのが龍樹菩薩だというのです。
 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』(易行品)に「この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、我を念じ名を称して自ずから帰すれば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆえに常に憶念すべしと」とあります。この一文を親鸞聖人が『正信偈』に引いているのです。『十住毘婆沙論』の多くの部分は、大乗の菩薩道を説いており、龍樹菩薩の作として違和感がないのですが『十住毘婆沙論』のサンスクリット原本がないことと、この部分で阿弥陀仏の本願念仏を説いていることから、龍樹菩薩ではなく、翻訳者として名前が残っている鳩摩羅什の作ではないかと言われています。龍樹菩薩の頃に阿弥陀仏は一般的ではありませんでしたし、なにより念仏と禅は中国で完成した仏教なのです。鳩摩羅什が『十住毘婆沙論』を龍樹菩薩の作としたのは、この論文の著者として、大乗仏教の祖とも言われる龍樹菩薩がふさわしいと思われたのでしょう。親鸞聖人もこの鳩摩羅什の想いに賛同されたのです。これは『楞伽経』からの引用とおなじです。歴史的な事実よりも、お釈迦様や龍樹菩薩の想いが成就していることの方がより重要であると考えていらっしゃったと思われます。
 大乗仏教の理念が成就したことを表しているのが、次の「自然即時入必定」です。先の『十住毘婆沙論』の一文には『正信偈』の「即」に当たる言葉がありませんが、これは同じく『十住毘婆沙論』の中にある「あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く阿唯越致に至る者あり」の「疾」と同じです。『十住毘婆沙論』に無いにもかかわらず、親鸞聖人があえて加えたのは「自然」です。この言葉について親鸞聖人は「自然というは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう」とおっしゃっています。自分の思いとは無関係に、本来決まっていることとして、必ずそうなるという意味です。当初は、修行をしていない一般信者が、死んでから修行ができる場所として考えられていた阿弥陀仏の極楽浄土が、自分の思いや努力とは無関係に、称名念仏すれば、即、その時に必ず極楽浄土に入り、悟りを得ることができるという教えになったのです。これは、長年懐いてきた大乗仏教の理念が成就した姿です。
 最後が「唯能常称如来號 應報大悲弘誓恩」です。この「唯」を親鸞聖人は『唯信鈔文意』の中で「「唯」は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。 また「唯」は、ひとりというこころなり」とおっしゃっています。ここには「ただ念仏」と「親鸞一人がため」という二つの「唯」の意味が述べられています。私には念仏だけが唯一の仏道成就の道であるという思いと、私のために念仏の教えが説かれた、という二つの思いで、常に称名念仏、即ち憶念するということです。この様な念仏の教えに至るまでには、数え切れないほど多くの諸師方の人生がつぎ込まれています。自分の努力によって考えられたものではなく、諸仏である先人達から教えられたのです。これが「大悲弘誓恩」です。救われた者だけが感じることが出来る深い謝恩の心です。これが、報恩講の報恩です。これに「應報」するということは、救いを求めている人に、自分が先師から勧めていただいたものを、分け与えるということです。ですから、最初は必ず先師の称名念仏、憶念の心を聞くことから始まるのです。この様な仏教を開いてくださったのが龍樹菩薩です。






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