|『正信偈』学習会|仏教入門講座
彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯 平成29年8月22日(火)
- 2017年10月26日
 正信偈は前半と後半に分かれています。前半は阿弥陀仏とその浄土である極楽浄土として説かれる仏教とはどのようなものであるかということが説かれていました。その最後の文章が今回の所になります。
 親鸞聖人が出会われた念仏の仏教は、誰もが救われるという教えです。しかし、これは長い仏教の歴史の中では新しい教えになります。もし、念仏の教えが本当に仏教の教えであるとしたならば、なぜこれまで説かれていなかったのかという問題が出てきます。この疑問に答えているのが、今回の言葉です。
 ここで親鸞聖人は念仏の教えを「弥陀佛本願念仏」の教えと言っておられます。阿弥陀仏の本願とは、一切の衆生を余すところなく救い取るという願いです。この願いを成就させるのが本願念仏です。ところが「邪見憍慢惡衆生」はこのような本願を信じ受け取ることが極めて難しい、というのです。どのくらい難しいのかと言えば「難中之難無過斯」と、これ以上難しいことは世の中にはないほど難しいのです。この一文は『仏説観無量寿経』にある「もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし」を引用しているものです。難しい理由は「邪見憍慢」であるからです。「邪見」というのは邪な見方ですし「憍慢」とは思いあがった考え方です。念仏だけで救われるという教えを信じることができない一番の理由は、このような簡単なことで救われるはずがない、ということでしょう。これが邪で思い上がった考え方なのです。この考え方は、自分の心や人生は自分の思うように変えることができるといところから来ています。ですから、自分の思い通りに物事が進めば自分の努力や能力を誇り、思うようにならなければ落ち込むのです。もし、自分の努力や能力に問題が見つからなければ周りのせいにして自分は被害者になります。これが「悪衆生」の内容です。このような考え方の者は、常に心の中に物差しを持っていて、自分と周りの人をいつも秤にかけて優劣をつけていますから、すべての衆生が救われることを願うという本願念仏の教えを受け入れることはできないのです。たとえ念仏を口にしても求めるものが違いますから、成就することなく自己矛盾の中で曖昧なまま過ごすことになります。
 このような悪衆生のための教えが弥陀の本願念仏なのです。悪衆生のための教えであるにもかかわらず、悪衆生であるために信じることができないということになります。これでは正しく難中の難です。ですから、念仏の教えが仏教の中で主流になるために千年以上もの時間が必要であった、ということです。親鸞聖人の手元に届いて、ようやく念仏の教えがすべての衆生を救う教えとして現れたのです。
 この「難中の難」という言葉を、私が信じることが難しいという読み方をする方がいるようですが、そうではありません。「難中の難」であるがために、長い時間が必要であった、ということですから、これは過去形です。今を生きる私にとっては本当に簡単な教えです。ですから、親鸞聖人は念仏の教えを仏教に関する難しい知識も無く、戒律を守ることもできない田舎の人々に自信をもって勧めたのです。一切の衆生が救われることを願った本願念仏の成就を目の前に見たのです。これを千年以上の時をかけて成し遂げて下さった数知れない諸師方の中から、特に代表的な七人の方々を、それぞれどのような功績を残されたのかという理由と共に述べられているのが、この後に続く後半になります。難中の難を克服して下さった方々ということになります。






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