|『正信偈』学習会|仏教入門講座
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 平成29年6月20日(火)
- 2017年8月2日
 今回の一文は、親鸞聖人が出会った仏教とは、誰を救済の対象にしているのか、どのようにして救われるのかを端的に表しています。これは、お釈迦様から始まった仏教が、多くの先人たちの努力を通して、ようやく親鸞聖人のところまできてたどり着いた智慧です。
 すべての衆生を憐れむことはできても、すべての衆生を救うことは容易なことではありません。どうすればこれを実現できるのかということは、お釈迦様以来、仏教の課題でした。特に、お釈迦様の悟りの境地は、極めて哲学的で、とても一般の人に理解できるようなものではありませんでした。家や家族を捨ててまで修行に入られたのですから、お釈迦様にはよほど大きな悩みがあったのでしょうが、伝説化される中で本当に悩んでいた内容は分からなくなってしまいました。かなり具体的な悩みであったのかもしれませんが、十二支縁起として伝えられている悩みに対する答えである悟りの内容は、極めて観念的で難解なものです。悟りをひらかれたお釈迦様が、これを人々に説こうかと悩んだという逸話が生まれたほどです。ですから、仏教は哲学的に自分を分析することに関心がある、ごく一部の人たちだけの教えにしかなりませんでした。出家者として、社会の外で生活しひたすら仏教の習得に精進する人たちと、仏教に関心を持ちながらも社会の中で生活し出家者を支援しながら教えを説いてもらう在家信者という限られた集団の中で、仏教は教義を発展させていきます。一般の知識や技術と同じで、教え自体に善悪はなくても、それを用いる人の分別によって、周りを幸せにすることも苦しめることもできるのです。ですから、仏教の教義をごく限られた信頼できる人達だけのところに留めておくという方法も理解できます。しかし、この世界で苦しんでいる人たちを見て見ぬふりをすることはできません。そこで様々な努力がなされます。
 その一つが大乗仏教運動です。これは、それまでのお釈迦様が説いた教えやお釈迦様の伝記が中心だった経典とは異なり、歌や寓話のかたちで誰にでもわかりやすい新たな経典を作り出すというものです。主人公もお釈迦様以外に、教義そのものを具現化した阿弥陀如来や観音菩薩など多くの如来や菩薩が登場します。作り出される経典も時代と共に進化していきました。浄土三部経でも『仏説阿弥陀経』で救済の対象となるのは「阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持」する「善男子・善女人」です。この経典では厳しい修行や知識は必要とされなくなりましたが、善人であることは求められています。これが『仏説無量寿経』になると「五逆と正法を誹謗」する者を除いた「心を至し信楽」して極楽浄土に生まれんと欲して「十念」する「十方衆生」になります。十悪ぐらいの悪人は許容されることになったのです。さらに『仏説観無量寿経』になると「五逆」まで救済範囲に含まれることになります。ただし、経典では「正法を誹謗」する者は含まれことはありませんでした。「正法を誹謗」する者とは、仏教を聞く気のない者ということです。どれだけ悪いことをしてしまった者でも、自分のしたことを懺悔して仏教に救いを求めてくるのであれば救うことはできるのです。しかし、仏教に救いを求めてこないものを救うことはできないということです。ですから、一切衆生とは言いながらも例外が生まれてきてしまうことになります。 
これを文字通り一切衆生として受け止めたのが善導です。今回の「正信偈」の一文は、善導の『観経疏』玄義分にある「弘願というは『大経』の説のごとし、一切善悪の凡夫、生を得る者は、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなし」から来ています。善導がこのように言い切ったのは、一切衆生の内容を大きく転換させたからです。『仏説観無量寿経』では、人を上品・中品・下品の三種類に分け、さらにその中を上生・中生・下生の3種類に分けています。善導以前は、上品は大乗仏教の菩薩道を歩む者、中品は菩薩道を歩んではいないものの小乗の行者や世間的な善行を修めている凡夫、下品は大乗仏教の学びを始めてはいるものの様々な悪を犯してしまった凡夫のことでした。これを善導は上品を遇大乗の凡夫、中品を遇小乗の凡夫、下品を遇悪の凡夫と受け止めたのです。一切衆生とは言っても、すべては凡夫であり、偶々出会ったのが大乗か小乗か悪かの違いでしかないということです。これが「一切善悪凡夫人」です。縁が違うだけであるとするならば、例外は許されないのです。そこで善導は『仏説無量寿経』の一文を書き換えます。これが「加減の文」と言われる「若我成仏十方衆生、願生我国、称我名字下至十声、乗我願力、若不生者不取正覚」(『観念法門』)です。「五逆と正法を誹謗」する者を除くという部分を省き「乗我願力」を加えています。対象をすべての人に広げたとしても、具体性が無ければ絵に描いた餅にしかなりません。これが加えた部分です。
 「乗我願力」をより具体的に表したのが、先ほどの「生を得る者は、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなし」です。極楽浄土に生まれたものは、多かれ少なかれ、必ず阿弥陀如来の願力を縁としている、ということです。阿弥陀如来の願力によって支えられるのであるから、縁によって左右される世間的な善悪など問題にならないというのが善導の出会った仏教です。この仏教理解を「善導独明仏正意」と親鸞聖人は称えたのです。ただしこれで本当に具体的になったのかといえばそうではありません。これに対する親鸞聖人の答えが「聞信如来弘誓願」です。『仏説無量寿経』に説かれている阿弥陀如来の願いを聞いて信じるということです。阿弥陀如来の願いとは、一切衆生を助けたいということです。優秀な人だけではなく、まして私だけでもなく、すべての生きとし生けるものを助けたいという願いに出会って、その願いに身をゆだねることができたならば、個人的な素養や経験など問題にならないということです。善導はここまでは言っていませんが、こう言いたかったに違いないという思いが親鸞聖人にはあったのです。これは善導が経典を書き換えたのと同じで、独断などではなく、意思を受け継いで、より良きものに進化させたということです。このように、多くの僧たちによる努力こそが、仏教の歩んできた歴史なのです。 






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